彼の家に連れて来られた最初の頃。 どうすれば従属のようなこの関係から抜け出せるのかを考えたり、諦めたり、ぼんやりすることが間々あった。……それで料理の最中にうっかり指を切ってしまったり。 うっすら血が滲み始めた指先に嘆息すると、不意に横手からその手を取られて、私は驚いたものだ。 「オーストリアさん」 「考え事でもしていたのですか?」 危ないですよ、と言った彼の口調は、別段責めるでも労わるでもない。 曖昧に頷こうとした私は、しかし唐突に指先を口に含まれて素っ頓狂な声が出た。 「な――わ、ひゃっ!?」 「? どうしました?」 あっさりと。 実にあっさりと口を離して首を傾げられ、私は自分の邪まさに、穴を掘って埋もれたい気持ちになった。 2.「おやめなさい」 ひらりと、ドイツの庭に張り巡らされたレンガ造りの塀を越える。 厚いゴム底のおかげで、着地の音は芝生に吸収されてくれたらしい。警備の人たちが駆けて来る音は聞こえなかった。私は素早く辺りを見回すと、施錠されていた窓に近づき、前にフランスがくれた開錠セットをごそごそと取り出した。鍵穴にピンを差し入れカチカチと動かす。 「……」 ――が開かない。 何度試しても上手くいかない。 「……役に立たないわねっ」 ガシャ、と。 苛立ちに任せて思わず振り上げた拳が当たってしまい、窓が重たい飴細工が壊れるような音を立てて、すんなりと開いた。 あとでドイツに弁償しようと少しだけ反省するが、今の音で警備がいつ駆けて来るとも分からなくなってしまった私は、慌てて家の中へと滑り込む。 いるはずのオーストリアさんの姿を探す。 ――と、キッチンの方で爆発音がして、居場所はすぐに分かった。 変わらない懐かしさに、自然と頬が綻ぶ。 「いいにおいですね」 「――ハンガリー!?」 何気なさを装って声を掛けると、オーストリアさんはよほど驚いたのか、振り向いた拍子に横のお皿を落としてしまった。 「……ドイツから貴女の訪問の予定は聞いていませんでしたが」 欠片を拾う彼に駆け寄って一緒に拾いながら、ええ、と口篭もる。 バレンタインのお礼が言いたくて、は間違いではないが、お礼の言葉を最初に口篭もってしまった時点でいい訳になってしまう。ただ会いたかったなんて言ったら、彼に浅慮だと叱責されそうで、上手い言葉が見つからなかった。 「さきほど、居間の方で何かの割れる音がしましたが、まさか」 「……と、通りがかったので、オーストリアさんどうしてるかなって」 「嘘をおっしゃい嘘を。貴女の国からこのご時世、単身どこに行くのに通りがかると言うんですか。この御馬鹿」 「ちょ、ちょっと散歩がてらですね、」 「許可証の必要な散歩など聞いたこともないですよ」 二の句を繋ぐ暇もない。 「バ、バレンタインのお返しを――!」 「そのピン、ですか……?」 力説している私の拳に握られているものに、訝しげなオーストリアさんの視線が刺さって、私はバッと後ろ手にした。 「え? あ、やっ、これは開錠セッ――」 咄嗟に正直に言いそうになって、私は慌てて言葉を飲み込む。が、片眉を上げた彼に半笑いで返すと溜息をついたオーストリアさんは、呆れているようだった。 それ以上はあえて詮索してくれず、せっせと拾われていくガラス片が少し寂しい。 「――っ……」 「あ」 最後の破片で切ったのだろう。オーストリアさんの右手の親指に、小さな血が浮かんでいた。 「私、消毒薬取ってきますねっ」 ここがドイツの家だということを忘れて、置き場所も分からない薬箱を求に立ち上がりかけた私へ、 「このくらい、舐めておけば治ります」 オーストリアさんはそう言って、さっさと自分の口に指を運んだ。 その言葉にも、態度にも、邪険にされ気がして、切ない苛立ちを感じた。 二人で会えない苦しさや再会の喜びは、私だけの空回り――? そう思ったときには、唇につく寸前で彼の手首ごとがしっと両手で止めていた。 「ハンガリー?」 「……私が舐めます」 「そうですか――……は!? ちょ、ハンガリー!?」 貴族然とした優雅な彼の、滅多に見せない慌てた声にも表情にも、かまうつもりはなかった。キッチンの床で私の突拍子もない言動に戸惑い、必死で突っ張る彼に負けじと、私もぐっと距離を詰める。 「オーストリアさんが舐めればいいって言ったんじゃないですかっ」 「貴女に言ったわけでは……自分でします! 待……おやめなさい、ハンガリー!」 「やめません!」 「わかりました、では消毒薬を――」 「もう遅いです。舐めます」 「ハンガリー!?」 かつて一緒に暮らしていたときでさえ、果たしてこんな取っ組み合いのようなことはなかった。しかしあくまでも私にさせる気がないらしいオーストリアさんは、頑として譲らない。 私の勢いに気圧されるようにオーストリアさんは座り込んだままでじりじりと下がる。 「オーストリアさんはずるいです!」 堪えきれず不満を叫ぶ。 手当て云々の話のはずが、まるで喧嘩腰で怒鳴り合いながら、私はオーストリアさんの足を抑えて跨っていた。 しかし私に触れさせまいとするかのように、彼は傷口を逆手でしっかりと押さえ込んでしまう。 ……ものすごい拒絶だ。 「なんで……」 「ハ、ハンガリー……?」 俯く私にオーストリアさんが恐る恐ると言った風に顔を覗き込んできた。 「なんで舐めさせてくれないんですかあかっ! オーストリアさんの意地悪!」 減るもんじゃないでしょう。 そう言うと、オーストリアさんは一瞬唖然とした後、我に返って否定した。 「そういう問題じゃありません!」 「そういう問題です! だってオーストリアさん、私のは舐めたじゃないですかっ」 「は?」 気持ちが昂ぶって、自分でも何を言いたいのか分からなくなってきているが止められない。 オーストリアさんは怪訝そうに眉を顰めて、それから何かを思い出したようだった。 「ああ――それは状況が違……」 「なのになんで私には舐めさせてくれないんですかぁ! オーストリアさんの意地悪!」 「な、泣くことはないでしょう!」 オーストリアさんが、慌てたように滂沱する私の顔を上向かせた。 それから、ぐっと私の唇に親指を押し付けた。 もともと大した傷ではなかったのだから、既に血は止まっている。そこへ押し付けられた唇を引き結んで、私はそのままオーストリアさんの胸に頭を押し付けた。 醜態を晒している。分かっているから、気勢をそがれると顔が見れない。 「……まったく。どうしたというんです。……何かあったのですか?」 呆れたように、けれども優しく彼が言う。 「……だって」 「だって?」 「オーストリアさん冷たいから、私だけが、すごく会いたかったみたいじゃないですか」 拗ねたような声が嫌で、私は馬乗りになったまま、オーストリアさんの胸に隠した顔を更に押し付ける。するとオーストリアさんが、こつんと私の頭を軽く叩いた。 「そんなわけありますか、この御馬鹿」 柔らかい糾弾と共に、オーストリアさんの私を抱く手が強まった。 「ただ、こういう無謀な行動は慎みなさいと言っていたのに、貴女がするから」 「……」 頭の上で諦めのような溜息を吐かれ、私はますます顔を上げられなくなってしまう。 「それに、貴女とドイツは敵ではないのですから、普通に正面玄関からいらっしゃい」 「……は…はい」 もごもごと口中で返事をする。 よしよしと髪の毛を梳かれて、何だか少し気恥ずかしくなった。 ――と。 「……何を、人ン家の台所で、お前らは……」 後ろから呆れたような声が聞こえて、そちらを振り向く。 「あ、ドイツ」 そこには何故かほんの少し頬を赤らめ、眉間に皺を寄せたドイツが私たちを見下ろしていた。 「……『あ、ドイツ』じゃない。ハンガリー、来るなら来ると連絡くらいしろ。それと窓を割るな。泥棒かお前は」 眉間をぐりぐりと揉み解しながら私たちから視線を逸らしたドイツに、オーストリアさんは私を抱えたままで、そうですよ、とドイツに同意してみせた。 |