4.「しめしがつきません」
部屋の置時計が秒針を刻む音だけが、しんと静まり返る部屋に響く。 今日中にやらなければいけないものは、全て終わった。――はずだ。 寝巻きに着替えるのも億劫になってきた思考回路で、ぼんやりとやり残しがないかを考えながら、オーストリアはベッドに倒れこむようにして横になった。 そういえば、今日はピアノを弾いていない。 思い出したが、今からピアノを奏でるためだけに動こうとしても、体が言うことをきいてくれないと判断して、大人しく就寝することにした。 だが、頬は必要以上に上気してさらに胸は息苦しいのに、どんなに擦り合わせても冷えきって、温まる気配すら感じさせない手足のせいで寝るに寝れない。心なし、喉がかすれているような気がして、奥の方が少し痛い気もする。 瞼を下ろして、強制的に睡眠を促そうとするが、自覚し始めた体調の悪化は、ダルさだけを強調してくれて、それは叶わなかった。まどろめずに、意識だけが妙にさめざめとして、気持ちが悪い。 いよいよ喉が張り付き、潤いを求めた。 「――お水、飲めますか?」 「…ンガリー…?」 口元をひんやりとした布で優しく拭われ掛けられた声に、オーストリアは微かに瞼を震わせると、声の主を尋ねた。はい、と控えめな声が答え、起き上がろうとして、節々の痛みに眉を顰めたオーストリアの背中へ優しい手が回されて助けられる。厚いクッションを宛がわれ、随分楽になった。 「ゆっくり、飲んで下さい」 「ん…」 喉のひりりとした感触が、良く冷えた液体によって、剥がれ落ちていく。 人心地つくと、彼女の手がオーストリアの額に触れた。ひんやりとして気持ちが良い。 「――もうっ。どうしてこんなになるまで無理してたんですか」 と思っていたら、低い声で非難された。ハンガリーが自分に対して珍しく、本気で怒っているようだ。 「どうして、分かったんです?」 自室に戻るまでは、上手く誤魔化せたと思っていたのに。 苦笑すると、ハンガリーの目がますます険しくなった。 「何となく! です! そんなことより、風邪は引き始めが肝心なんですから、こんなに熱が上がるほど無理しちゃダメじゃないですか。今日は一日、もっとゆっくりしていれば良かったんです」 「そうもいきませんでしたし」 彼女をはじめ、神聖ローマにプロイセン、イタリア、ザルツブルグ、その他諸々の大所帯は、決して一枚岩ではないのだ。何がきっかけになるかも知れない身では、早々体調不良を訴えるわけにもいかない。 第一これは己の自己管理が出来ていなかったという事実で、邸を預かる者として、風邪を引きましたおやすみなさい、ではしめしがつかない。 オーストリアは水差しからもう一口喉を潤すと、ハンガリーに言った。 「貴女のおかげで大分楽になりました。礼を言います」 「そんなのいいです。……横になりますか? 辛くないですか? 何か欲しいものとかあります?」 ベッドに横たわるのを助けて、ハンガリーは矢継ぎ早に問う。慣れた声音が、こんなに耳に心地良いとは知らなかった。オーストリアは彼女に気づかれないように、ふと胸中だけで笑んだ。 「大丈夫です。心配をかけてしまったようで申し訳ない。明日には落ち着くでしょう。ですからハンガリー、貴女ももう部屋を出た方が良い。長居をして、今度は貴女に移りでもしたら大変ですから」 「オーストリアさんがちゃんと眠れたら、出て行きます」 「ハンガリー」 「目を瞑って」 なおも退出を促そうとしたオーストリアを遮って、ハンガリーの冷たい手が、目の上に置かれた。 高熱のせいで、実はじんじんとしていた眼球が、瞼から伝わる冷たい温もりに、吸い取られていくようで、オーストリアは大人しく瞳を閉じる。 振り払おうとすれば出来ただろうが、オーストリアは薄く眉間を寄せることで不服を伝えただけだった。 ハンガリーの落ちた横髪が、オーストリアの額をくすぐる。 「大丈夫です。私、オーストリアさんより丈夫に出来てますから。それに、風邪は人に移した方が早く良くなるって言いますし」 「ですから――」 「そうなったらイタちゃんも心配してくれますねー。私、昔から本当に体だけは丈夫だったんで、そういうの少し憧れちゃいます」 「……私も心配します」 ホントですか、と妙に嬉しそうなハンガリーを睨もうと瞼を動かしたが、ダメですよと叱られてしまった。いつもと妙に立場が違う。しかしそれが悪くない気がするのは、熱がまた上がっているのかもしれない。 瞼から一瞬重みが消え、すぐ脇で水音がした。 それからすぐに、額に冷たい手拭が置かれて、ハンガリーの手もまたオーストリアの瞼に戻った。 水を絞ったせいで、少し濡れている彼女の手の冷たさが気持ち良い。 発熱の痛さが緩和されて、ようやく睡魔による瞼の重さを感じられた。 「そうなったら、オーストリアさんにリンゴ食べさせて貰うのもいいですね」 「………それくらい」 いくらでも。 口の中で呟くと、ハンガリーが微笑んだのが、瞑った瞼の奥で気配でわかった。 もう片方の手が、オーストリアの前髪を柔らかく梳いて、まるで自分が子供にでもなったかのようだ。 「ここにいます。だから眠って下さい。ね、大丈夫ですよ」 優しい呪文が耳に馴染んで、脳に優しくこだまする。 本当は、彼女を部屋に戻さなくてはと思うのに、彼女の手と声が心地良くて、オーストリアはもう少しだけと思いながら、優しい帳に落ちていった。 セリフ言ってねー(笑)。 |