5.「私の隣には」
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、私にはよくわかりませんでした。 ――いいえ。 行きたくないと縋りついて、いっそ引かれてしまうほどに泣き喚いて。 年甲斐もなく地団太を踏んで、周りのものに当り散らしてでも、傍にいたいというのが本音で。 けれどそれは許されることではなく、当然私の国民を裏切るということ。 出来るはずもない欲望に胸が焦がれて、焦がれ過ぎて、私はどうすればいいのかわかりませんでした。 だから、薬指にあったそれを外したまま、捨てることも、そっとしまうことも出来ずに、指先でぼんやりと弄ることしかできなくて。 まとめ終えてしまった荷物は、とっくのとうに運び出されてしまっていたので、かつての私たちの部屋は、こんなに広かったんだと、改めて思いました。 ぼんやりと眺めていたら、何故か景色が揺らぎました。 滲んで霞がかって、物の形が分かりません。 「……?」 不思議に思って首を傾げると、頬を何かが伝わりました。 「――ハンガリー」 「あ、オーストリアさ……」 自分の声が途中で掠れて、静かに歩む音が私の隣に来たかと思うと、慣れ親しんだ彼の指先が私の頬を拭ってくれました。その時はじめて、私は自分が泣いていたのだと気づきました。 「あれ? す、すみません。こんな、つもりじゃ……わたし……私は……」 最後はきちんと笑顔で、と――。 貴女の笑った顔が好きです、といつか言ってくれた貴方のために。 この日が来るのが決まってから、私はずっとそう思っていたというのに、心は何て正直なんでしょう。 涙を自覚してしまったら、彼の大きな掌が私の頬をすっぽりと包み込んでくれる温かさに、後から後から止まらなくて、私は彼の手に自分の手を重ねて、まだ離さないでと祈りました。 「落ち着きましたか?」 しばらくして、ふと息を吐いた私を彼が覗き込みました。 「――……オーストリアさんは、落ち着いているんですね」 「そう見えますか」 優しく笑んだ瞳が一瞬苦しげな色を湛えたのは、私の気のせいだったのか。 愛おしむように額を啄ばんだ彼の唇に瞳を閉じてしまった私が、もう一度瞼を上げたときには、いつもの彼で、確かめる術はありません。 「ハンガリー、指輪はどうしました?」 「――あ……ここに」 あの日誓いの言葉と共に交わした銀色の輝きを示します。 彼はそれを無造作に取り上げると、自分の内ポケットに落としました。 どう反応していいのかわからず、立ち尽くす私の左手を取ると、彼はつい昨日まで輝きのあった薬指の付け根に、そっとキスをくれました。 「ここに、残すわけにはいきません」 「……わかってます」 返してしまった指輪が、二度と戻ることはないことも。 それなのに、何故そこにキスなどしたのか。 唇が離れれば痛みを感じた薬指を無意識に撫でる私の手を取って、彼は自分の左手に触れさせました。 私のものより一回り以上大きい輝きを見つけて、私は思わず彼の顔を仰ぎ見ました。 苦笑した彼の顔があります。 私の目の前でそれを外すと、彼が私にしたのと同じようにキスをせがまれました。 それはまるで、神聖な儀式のようで、私はこれを互いに嵌めた時と同じ――いえ、それよりも高鳴る鼓動と切なさを胸に感じながら、彼の薬指の付け根にキスを落とします。 そっと触れた唇が離れると、彼は私にその大きな指輪を渡しました。 「え、これ……」 ぎゅっ、と無造作に掴ませて、その上から包み込むように彼の両手が重なります。 「貴女も知っているとおり、我がオーストリアは、誓約には忠実に。女性には誠実で真摯な愛を誓います。浮気などありえません」 それは知っているし、疑ったこともありません。 彼の意図を掴み損ねてきょとんとした私を包む彼の手が、もう一度彼の指輪を掴みました。それから私の左手を取ると、す、と薬指にぶかぶかのそれを入れて、落とさないように、指を曲げさせました。 「オ、オーストリアさ――」 「これだけ大きければ、跡も何も残りませんよ」 「え――」 「生涯ただ一人と誓ったでしょう?」 これを交換したときに。 そう言った彼の眦が、うっすら朱にそまって歪んでいたのは、きっと見間違いではありません。 彼の内ポケットに残していく私の小さなそれに誓いを立てるように、私は彼の胸に擦り寄って、背伸びをして、馴染んだ唇にキスをして――。 私の隣には、いつもあなたが。 背を丸めて私に合わせてくれる貴方と、爪先立ちで貴方を抱き締める私の、それは変わらない誓いでした。 だってオーストリアとハンガリーはどっちみちお隣なんですよー!(大萌) |