幸せの欠片



頭を撫でる彼の手が煩わしい。
そう思うのに、大人しく身を任せている私は、きっと今どこか情緒不安定になっているのだろう。
だってそうとしか説明できない。
この私が、いくらこれまでの研究が暗礁に乗り上げているところだとはいえ、同じ専門畑の入江にならいざ知らず、こんなド素人の極地にいるジロウさんに愚痴という名の相談を持ち掛け、あまつさえ、よしよしと心配されるほど取り乱す羽目になるなんて。

自分が抱えている疑念や不安や期待や、その他のいろんなものが、実はこんなにも綯い交ぜになって沈殿していたことに驚いた。最初から知識という点で一切期待もしていなかったし、されているとも思っていない彼との会話は、私にはいい鬱憤の吐き出しになったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えた。

「……大丈夫かい?」

低い声が耳朶をくすぐる。いつものジロウさんらしくない声だ。
デリカシーのない、強引さで、だけど少し私の機嫌を伺うような声じゃなく、庇護されているようなこの感じは、まあ、悪くない。そのまま緩く目を閉じて、昂ぶっていた感情が、大きな呼気の塊となって、私の口から吐き出されるくらいには悪くなかった。

「鷹野さん?」
「……平気よ、ありがとう」

そう言いつつ、凭れたままの体を起こそうとしない私を、彼はそれ以上追及しなかった。
林間学校の思い出が最後の女性との触れ合いだったという彼にしては気が利いている。
くすくすくす。
――ということは、……くす。あらあら。くすくすくす。
二人きり、人気のない境内で身を寄せ合うなんていうこの状況は、彼にとって他に類を見ない大接近というやつなんじゃないのかしら。くすくすくす。
悪戯心が頭を擡げる。

「ジロウさん……少し、このままでも……?」

すり、と頭を寄せたまま、私は甘言を囁いた――はずが、意外にも心許無い呟きになっていて、その声音にビクッと緊張した彼よりも、私の方が内心の驚きは勝っていただろう。
調子が狂う。
これじゃあまるで、私が本当にジロウさんに頼っているみたいじゃないっ。

「ん? ……え、あ、……うん! …う」

折角、ジロウさんが期待通りの滑稽な返事をしてくれたというのに、上手い言葉も思いつけずに、私は寡黙を貫くしかなかった。本当、こんなのは調子が狂う。何かおかしいわ。
だって、そう、本当は、富竹ジロウは私の好みのタイプではない。

優しいけれど、それは私に対して少なからず下心……敢えて好意と置き換えておこうかしら、もあるだろうし、少々野性味が鼻につく。
強引だし、情報部だなんて仕事をしている人間とは思えないほど嘘は下手だし(致命的だ)、お腹は出てるし、女性へのエスコートは林間学校のお手て繋ぎで止まってるし。

ここまでつらつら並べて立てられる男の横で、頭を預けて大人しく撫でられているなんて、私は何をしているのかしら。
生涯をかけると誓った大切な機関の監査員だから愛想良くしないと……という当初の目的は達している。
というより、彼が勝手に私へ好意を抱いてくれたおかげで、問題はない。
私が彼の誘いをそう無碍にせず、たまに気を持たせればいい関係のはずなのに。
これ以上の慣れ合いは、あまり研究にかかるメリットでいうならないだろう。

大体、生物が生まれてから死ぬまでに打つ拍動の数は、おおよそ決まっているという説もある。
それがどれくらい根拠のある説なのかは、私の研究対象でないから分からないけれど、そんな可能性の中で、こうして無駄に早鐘を打つような状況に我が身を置くのは、利巧とは言い難い。
どう考えても、私の生に、ひいてはそれを受けて成されるこの研究に支障をきたす。
だから、そう――

これは、ほんの少しの感傷。
どこまでも私に都合のいい男へ持ってしまう人間臭い愛着。
例えば今、胸が騒ぐような気がしても、それは幻想。

眉を寄せて口中で何度も呟く。
そうして彼から離れようと、私は頭を起こしかけて――不意に頬を撫でられて驚いた。

「――ジロウ、さん?」
「……」

呼ぶ私には答えずに、ジロウさんの無骨な指が、私の頬に落ちた髪を優しくかき上げる。
繊細とは言えない指のはずなのに、こんなにも優しさを出せる器官だったとは。
……使い方によるのね。
自分の髪を自分ではない誰かの指で耳元にかけられるのがくすぐったくて、私は肩を竦めた。
林間学校のフォークダンスが最後って嘘でしょう。
真っ直ぐすぎる彼の視線に耐えられなくなって、私が先に瞼を下ろした。
好みのタイプではないはずなのに、嫌じゃないというのもあるのかしら……
いやだ、これじゃ私が林間学校で止まってる女の子みたいだわ。くすくすくす。

……
……………
…………

ざわざわと閉じた瞼の奥で、一人喋っていた私に、待てども暮らせど、次の一手がなかなかこなかった。
でも私は何も動いていない。だから彼も動いていない。
さっきまで気にもならなかったひぐらしの鳴く声が耳についてきて、私はうっすら目を開けてみることにする。
と、ジロウさんはあからさまに私から顔を背けてしまっていた。
ちょっと…………それはいったいどういう意思表示なのかしら。

好きな女がその胸の中にいて、その頬に手をかけて、女が瞼を閉じたというのに、そのままの姿勢で顔だけ背けるって、一体どういう了見かしら。

「……ジロウさん」

これは……ちょっとだけ面白くない。
私の声は頼りなさげな儚さから一転、甘味のない、ただの低い唸り声のようだった。
目を閉じてしまった私は、何かを期待していたみたいではないか。
面白くない。
別に何を期待していたわけでは断じてないけど、面白くない。
そう思うのは至って普通の思考だと思う。

「え、あ、いやっ、たっ、鷹野さん……っ!?」

私の纏う空気の変化に、流石の彼でも気づいたのだろう。
咄嗟に私の顔から手を離すと、今度は体ごと明後日の方に向き直ってしまった。
この状況で、どうしてジロウさんに萎縮されるのが私なのよ。

「ぶぅ……私は馬鹿にされたのかしら?」

ああ、しまった。
何だか不貞腐れてるみたいで本意じゃないわ。
どうして今日はこんな声ばかり。自分の声帯がここまで思い通りにならないのは初めての経験だった。
だが私の言葉に、彼は背を向けたままで慌てたように首を振った。

「いや、まさか! 違うよっ! ただ、その……」
「ただ? 何?」

そして彼の次の言葉で、私は崖っぷちの余裕を取り戻すことが出来たのだ。

「弱みにつけこむようなことは、いけないんじゃないかと思ってだね……っ!」
「――ぇ……?」

……弱みに、つけこむ? ……くす。
くすくすくすくす。
なるほど。なるほど、ジロウさん。
やっぱり貴方の林間学校の思い出話は正しかったのね。くすくす。
嘘だなんて疑ってしまってごめんなさい。
くすくすくす。

「わ、笑いどころなのかな……、はは、ははは……?」

私の本心に気づけない純粋で純情なジロウさんは、とりあえず合わせるように笑ってくれる。
面白い人。
いつも期待を裏切らないで、最後には私を笑わせてくれるのね。

「ねえ、ジロウさん?」
「うん。何だい?」
「そろそろ林間学校を卒業してもいいんじゃないかしら」

ふわ、っと境内に風が舞う。
見晴らしのいい吹き抜けのそこは、座っていても下から上へ、私の体を軽く誘う。
誘われるままに腰を浮かせて、今度は私がジロウさんの頬へ軽く手をかけた。

「え? それはどういう――」

そこで言葉を止めさせる。
……もう。目ぐらい瞑るものよ? くすくすくす。

「た…っ、たかっ、鷹野さ……んっ!!?」
「くすくすくす。期待通りよ、ジロウさん。そろそろ戻りましょうか」

いい大人のこんな顔が、いわゆるシャッターチャンスというのかもしれない。
生憎、今日は彼の手にしかカメラがなかったのでそれは叶わなかったけれど、瞼を下ろして切り取っておく。
くすくすくす。
これは思い出の引き出しにしまっておいて、たまに手に取る価値はある。
彼より先に立ち上がると、風が乱した髪を今度は自分でかき上げて、私はジロウさんに手を伸ばした。



富竹×鷹野。もえ。

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