彼女の気配は間違えない。
彼女の声は聞き間違えない。
彼女のニオイは嗅ぎ間違えない。

――だから、彼女は、もういない――。




もう一度、もう一度君に。




庭園を吹き抜ける風の中に、無意識に彼女を探して、そんな自分に嘆息する。
ここに彼女がいるわけがない。
だって彼女は自分で決めて、自分で戻った。
ここではなく、彼女の現実を彼女は選び、僕は彼女がそれを望むのなら、それが正しいのだと理解して納得したのだ。
だからこれは、落胆とは全然違う。

だというのに、後ろの茂みが揺れた音に振り向いてしまって、眉根に深く皺が寄った。
しかも――。

「あれ? ペーターさん? うわー、奇遇だなあ。こんなところで会うなんて」

こんな奴に反応してしまっただなんて、一生の不覚だ。

「うわっ、なになに? 何でいきなりそんな物騒なモノ向けるかなあ」

アリスがいつも魔法だなどと不思議がっていた早変わりの銃口で狙いを定めても、彼は驚くでも怯えるでもなく、ごく自然に笑っている。
いかにもハートの国の住人らしく、何の違和感も感慨もない。

「……はぁ」

思わずこぼれた溜息に、余計気分が落ちてきた。
耳が根元から垂れ下がりそうになるのを、彼の前だという矜持でどうにか踏ん張りながら、それでも先っぽがくてんと垂れてしまうのはどうしようもなかった。

「……ん? ペーターさん、元気ないなぁ。もしかして俺と一緒に旅に出たかった?」

何のタメもなく引き金を引くと、さらりと交わしてエースが笑う。

「ははは。血の気が多いなぁ、ペーターさんは。冗談冗談」

いつもなら、そんな彼の言葉にも引き金を引いて硝煙の香りで満たすところだ。
が、今はもう何だかどうでもいいような気がしていた。
僕の気持ちを体現するかのように、手の中のそれが丸い懐中時計に落ち着いている。

「……戯言はその辺にして、いい加減、女王が5つ前の時間帯からお待ちですよ。さっさと行って、さっさとはねられちゃって下さいよ、首」

知らずまた息を零しながらそう言って、しっし、と目の高さで片手を振る。

「……また、あの子のこと考えてたんだ?」
「――!」

城とは反対方向へ歩き始めていた僕の背中へ、唐突に掛けられた言葉に、僕は時計が壊れるかと思うくらいに息を止めた。

「可愛くていい子だったもんな、あの子」
「……うるさいですよ」

彼の言葉が耳に煩い。
普段から煩い気に食わないとは思っていたが、自分の耳を引き千切ってでも聞きたくないと思ったのは初めてだった。

「アリス。懐かしいなあ」

懐かしくない。そんな遠い昔のわけがない。
いくら時間が不確かなこの世界でも、僕にはそれくらい分かる。
僕の時間の中で、彼女が――彼女だけが特別で。大切で。愛しくて。
どうしようもなく幸せでいて欲しいと思う、たった一人の替えのないひと――……。
彼のように懐かしいだなんて、口が裂けても時計が止まっても、言えやしない。思えやしない。
いつもいつも、どんな時も、一番傍で。だけど遠くにいるアリス。

「でもさ、ペーターさん」
「……なんですか」

本当はもう返事なんかするつもりはなかったのに、
役なしにでさえそういう態度を取ると、アリスが怒ることを思い出したら、自然と声が出てしまった。

「そんな辛いんなら、何で元の世界に帰したりしたんだ?」
「ツライ……?」

言われた意味が分からなくて、僕は彼を振り返った。

「何言ってるんです? 僕は辛くなんかありませんよ」

心外だ。すこぶる心外で、何故彼がそう思うのか分からなかった。
僕の望みはただ一つ。アリスが幸せであることだ。
その彼女が自分で選んだ幸せがここでない世界で、僕以外の誰かだったとしても、この僕がツライだなどと思うわけがない。

「ふぅん? ならいいけど」

エースはそう言うと、あっさりと僕に背を向けた。
ハートの城へ向かうつもりなのだろうが、明らかに反対方向に進む足にはいつもどおり気づいていない。
彼との話は終わったと、僕もまた後ろを向いた。

「ペーターさん」

その途端、名前を呼ばれた。振り向くほどではない注意を、耳だけ動かして拾う。

「俺の背中ガラ空き。今なら撃たれても避けないであげる」
「は?」

また意図が掴めず、僕は訝しげに眉を寄せて振り返った。
……油断を誘って、逆に僕を狙うつもりだとか?
しかし彼は言葉通り、本当に隙だらけの背中を向けたまま、ゆっくりとした歩調で、城には続かない道へと進んでいた。
この距離でいつもどおりに僕が撃ち、彼が避けないというのなら、それで彼の時計は終わりになる。
どこかの役なしが役にありつき、また同じ関係軸に振り分けられる。それだけのこと。

僕は胸ポケットの小さな懐中時計を一つ掴んだ。
瞬きをする間に変化した銃口で狙いを定める。

――そんなことをしたら嫌いになるからね。

ぐ、と息が詰まって、吐き気がした。

いやだな。
何だろう。
何だったんだろう今の。

彼の背中に照準が合ったと思ったのに、頭の中で、もう聞くはずのないアリスの声が甦って、その瞬間、僕は胸が潰れそうな圧迫感に吐息を零した。細い呼吸が震えている。

――殺しちゃダメよ?

何の拘束力もない彼女の言葉が、ぐるぐるとまとわりついているようで、離れない。
そうだ。――アリスはもうこの世界にいないのに。

ここで僕が何をしようと、どうなろうと、彼女の幸せとは無関係だ。
なのに手の中の銀色の塊は、いつの間にか円柱の筒を失い、秒針の音が煩かった。

「ね、ペーターさん」

やはり後ろを向けたままの彼が、いつもの調子で軽く僕に呼びかける。
だけども今は、そんな彼の背中も僕はよく見えなくなっていた。

「撃てなかった理由、考えてみてよ」

理由?
言葉にしないで、耳がひょこっと動く。
僕は自分を落ち着けるように深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。

――進歩したわねー。

胸を掻き毟りたくなるような彼女の呆れ声が、耳の後ろを撫でていく感覚を思い出して、胸といわず体中が潰れそうになる。
角を曲がり際、彼はぼやけた僕の視界にもはっきりと分かるくらい大きく、ひらひらと片手を振った。

「……あれ?」

何か冷たい液体がポタッと頬を伝って流れ落ちたのに気づいて、僕はごしごしと目を擦った。
赤い目がもっと赤くなる、と教えてくれたのは彼女だった。
エースの言ったことは違うと、僕は心中で反論した。
撃たなかった。
撃てなかったのではなく、僕は彼を撃たなかったのだ。
それが何故か、考えるまでもないことだ。

銃を出すこと、銃声、血の色、止まる時計。
全て、彼女が気にするからだ。 だから、僕は撃たなかった。

「………あれ? 何か………」

ひっかかる。何かおかしい。何か変だ。
アリスの言いつけを守ったはずなのに、どうしてすっきりしないんだろう。
後から後から溢れてくる液体を止めたくて、ごしごし擦る。考える。

アリスが嫌がるから、僕は彼を撃たなかった。
そうすればアリスは喜んでくれる。
彼女が喜ぶのは幸せだからで、だから僕は彼女の嫌なことはしないであげる。
そうすれば彼女は幸せで――。

――ああ、そうか。

行き着いた結論に、僕は袖を両目に押し当てて弓を引くように強く擦った。
瞼の端がひりひり痛む。

変なのは僕だ。

もう彼女はいないのに。
誰を撃とうが、誰の時計を止めようが、彼女はもう何も気にしない。喜ぶも喜ばないも関係ない。
それなのに今でも言いつけどおり、彼女の望んでいたとおり、僕は引き鉄を引かなかった。

――ねえ、アリス。ねえ、アリス。

どうして止まらないのか分からない雫が、頬を顎を伝って落ちる。

――ねえ、アリス。見て下さいよ。 僕、こんなに従順でえらいウサギさんなんです。
   褒めて下さい。ねえ、アリス。

拭っても拭っても、袖や手袋に吸い込まれるよりこぼれる量の方が勝っているらしかった。
彼女なら、この雫の理由も分かるのだろうか。
時計が一際大きな音を立てて時を刻む。
彼女は今幸せだろうか。
ここにいたときよりも、ずっとずっと幸せだろうか。

どうかそうでありますように。




ペタアリはホントこのエンド泣けて仕方ないです。
しかしそれに萌えてる自分にたまに泣きたくなりますな!

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