熱とリンゴと恋心




額にひやりとした心地良い冷たさを感じて、ラチェットはいまだ重たい瞼を震わせた。
近くに誰かの気配を感じる。
「……た、……ぃが、くん……?」
「ヒドイな。他の男と間違えるなんて」
ぼんやりと呟いた言葉に返ってきたのは、耳慣れた男の苦笑だった。ベッドがぎしりと軋む音を立てて右に少し傾ぎ、彼がそこに座ったのがわかった。布団に包まれた体のすぐ傍に温かみが増す。
「それとも彼の方が良かった?」
ようやく開けた視界に強すぎる室内の明かりを和らげるように、サニーサイドの影が言った。
揶揄するようで皮肉めいた口調だった。
「サニー、私――」
「ああ、まだ起きない方がいいよ。過労からくる発熱だろうって王先生の診断だ。セントラルパークでボクに抱きついてきたの覚えてる?」
言葉を遮るサニーサイドに起きかけた肩を静かに押されて、ラチェットは大人しくベッドに沈み直した。
(サニーに……?)
言われた台詞に、目を閉じて記憶を反芻してみる。
クリスマスのステージも無事終わり、パーティーの余韻で火照った気持ちを思い思いに静めながら、そろそろお開きにといった辺りからの記憶が曖昧だった。

「……もしかして、倒れたの?」
「もしかしなくてもそうだね。ちなみにここはボクの部屋で、失礼かとも思ったけど楽な服に着替えさせてもらったのもボク。安心して、変なことはしてないから」
「そんな心配はしてないわ。ごめんなさい。迷惑を」
「迷惑じゃないよ。役得でいいもの見せてもらったから」
「……『安心して』?」
紳士的な先程の言葉とその行動に矛盾がある。半眼でじろりと睨み上げたが、サニーサイドはどこ吹く風といった調子で、ははは、と軽快に笑うだけだ。
「別に変なことじゃないだろ?着替えさせるのに、どこも見ないのは無理だ。でも意識のない女性をどうこうするほどは落ちてはいないつもりだからね」
言いながら、サニーサイドは額の上で温くなっていた濡れタオルを取ると、サイドテーブルに置いた水につけ、もう一度絞ってラチェットの前髪を優しく上げて、乗せる。
「さすが、……あなたはお口がお上手ね」
「君ほどでもないさ」
さらりと返すサニーサイドは笑顔のままだが、会話を楽しんでいるといった風ではない。まるで壊れ物を扱うかのような優しさで触れてくるくせに、先程からくれる言葉には棘が感じられて、ラチェットは妙な居たたまれなくなった。シーツの隙間から手を出すと、横に置かれたサニーサイドの腕に触れる。

「……サニー」
「なに?」
やんわりとその手を外されて、ラチェットは咄嗟にサニーサイドのシャツを引いた。
まるで小さな子供のするような行為にハッとして手を引っ込めたが、ちらりと盗み見るようにして合わせたサニーサイドの表情に、ラチェットは小さく息を飲んだ。
自分を見下ろす彼の口元はやはり微笑を浮かべていたが、眼鏡の奥に笑みはない。
薄茶色の瞳が何かを堪えているようで、ラチェットは言われる前に口を開いた。
ベッドに手をついて起き上がる。
「やっぱり怒ってるんでしょう?ごめんなさい、自分の体調管理すら出来なかったのは私の落ち度だわ。それであなたに迷惑をかけたこと謝罪する。二度としない。でももう大分良くなったから家に帰って、明日はいつもどおりに出勤――」
「帰さないよ」
「サニー……きゃっ!?」
静かに、けれど確実な力を込めて再びベッドに押し倒されて、ラチェットは声を上げた。
縫い付けるように両手首を掴まれて、間近にサニーサイドの顔がある。そのままタオルの外れた額に額を合わされて息を飲んだ。

「……ほらね。まだ熱がある。もう夜も遅いんだよ。帰らせるわけないだろう。そんな無理しなくていいから、今日はここでゆっくりしなさい」
「で、でも」
急な近さに瞠目して、言葉に詰まる。身を捩ると、更に力を込められて、ラチェットはびくりと肩を揺らした。
「あなた、だって、怒ってるじゃない……」
「――ボクが?」
ラチェットの言葉に、サニーサイドは心底驚いたように目を瞬いた。目を瞑り顔を背け、肩を竦めるラチェットの様子に改めて思い至り、ようやく手首を開放すると、大袈裟に手を上げてみせる。
「怒ってないよ。なんで?何に?」
「そんなの……私に聞かれても」
「だよね。まいったなあ……怒ってるように見えた?」
問われてベッドの中でこくりと頷く。サニーサイドは困ったように眉を寄せた。
「ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだ。……痛かった?」
「いいえ……」
労わるように手首に触れてくるサニーサイドは、本当に困っているようだ。ラチェットは静かに首を振ると、もう一度サニーサイドの腕に触れた。

「ラチェット?ああ、喉渇いたかい?それとも何か食べる?」
「何かあったの?」
「ん?……あー……ん〜? いや、ないよ?」
「サニー」
あからさまに視線を泳がせるサニーサイドに、今度はラチェットががっしりと腕を掴んだ。問い詰めるように名前を呼ぶと、サニーサイドは苦笑してラチェットの手を取って、しかし振り払いはしなかった。静かに布団の中へと誘導して、そのまま手を握られた。
「いや本当。大したことないって」
「でも不機嫌になるようなことがあったんでしょう?」
「だから大したことじゃないよ」
「大したことじゃないならいいじゃない。教えて」
なおも食い下がると、サニーサイドはしばらくじっとラチェットを見つめて、
「……君の探究心には頭が下がるね」
溜息と共に観念したのだった。


    *****


サイドテーブルに置かれていたリンゴを器用に剥かれていくのを眺めながら、ラチェットはサニーサイドの言葉を待った。一口に切ったリンゴを、はい、と口に向けられて大人しく食べる。と、言い出しにくそうにサニーサイドが眉を上げた。
「本当に大したことじゃないんだけどなあ……。聞くの?」
「……」
咀嚼しながら無言で頷く。
「大河くんがね、まあ、……なんていうか、ちょっと」
「――まさか、彼また倒れたの!?」
「いいや、そうじゃない」
即座に否定されてほっとする。
イヴに紐育観光をさせてあげるつもりが、今までの過労が祟ったのか、自分の目前で倒れたのはつい昨日の話だ。胸を撫で下ろしたラチェットに、しかしサニーサイドは何故か苦々しい笑みで答えた。
「君は随分彼にご執心だな」
「どういう意味?」
「そのままだよ。献身的に看病してあげたそうじゃない」
少し皮肉気に聞こえるその言い方は、先程までのサニーサイドの態度と似た感じがする。

「そんな言い方……だって彼は仲間だわ」
「その通り。だから皆に知らせたらすぐにお見舞いに行くって話にまとまった。それは分かってる。大河くんはボクにとっても大切な人員だしね。うーん……そういうことじゃなくて……なんて言うのかな」
訝しむラチェットの視線に気づいてか、サニーサイドはまた困ったように苦笑すると、もう一欠片のリンゴを口に押し込んだ。
「…………彼、その時君に約束したんだって?」
「約束?」
ぽそりと呟くような質問に、ラチェットは慌ててリンゴを飲み下して答えた。
「もし君が風邪を引いたら、彼が看病するって」
「――あ」
そうだ。あまりに不恰好に仕上がってしまったリンゴと、本で得た知識のみでの東洋文化風看病で少なくとも気を遣わせてしまった彼の表情を見て、思わず自分の過去の話をしたら、確かに大河はそう言ってくれた。余計に気を遣わせてしまったかもと思う反面、素直な優しさが嬉しくて、彼のような人柄が純粋に愛すべきものと思えた。
「サニー。私が倒れた時、もしかして近くに大河君がいた?心配させちゃったのね」
子犬のように目まぐるしく表情の変わる大河が、自分の過去に同情して、余計に心配してくれたであろう光景が目に浮かぶ。明日謝らなければと考えていると、サニーサイドが憮然とした口調で言った。

「……心配なんてものじゃないよアレは。ラチェット、君さあ……彼に何したの」
「なっ、何もしてないわよ!?」
突然の質問にベッドから跳ね起きそうになったラチェットを、布団の上から胸の辺りを叩いて宥めながら、サニーサイドは独り言のように続けた。
「もう君を守るのは僕だー、みたいな使命感を感じたんだよね……。いや、ボクは信じてる。信じてるよ?……けどさあ、イヴにデートで、そのまま部屋に二人きりって、大河君だってああ見えて一応男でしょ?ブシドーも信じてるよ?信じてるけど、そこへ来て、寝覚めの言葉が「大河君?」だし、なんていうか、……絆はあっていいと思うんだけど、強すぎる絆ってある意味仲間に持つ愛情超えることがあると思うんだよね。まあ信じてるんだけど」
「サ、サニー……?あの、……誤解してる?」
だんだんと尻すぼみになりながらも、次第に非難めいた調子になっているサニーサイドへ、ラチェットは恐る恐る声をかけた。
「イヴは今年はあなたが珍しく施設の招待を受けるっていうから、彼に改めて紐育観光をさせてあげるのも気晴らしになるかと思っただけで……。それに確かに二人だったけど、それは病気だったからだし、あなたに借りた日本人の民間療法を実践しただけよ?」
「ああ、アレね。玉子酒とネギだっけ?ネギで首絞めるって変わってるよね。でも、リンゴはなかったと思うけどな」
「それはホームドラマの知識で……って、どうしてそんなことまであなたが知ってるの?」

大河にしたことを事細かに報告する義務はないが、疚しいことはしていないはずだ。それなのに何故そんなことまで非難染みた口調なのか、ラチェットは眉を寄せた。
しかしサニーサイドはそんなラチェットに負けず劣らず眉を顰めて、皮肉を込めた調子で告げた。
「今度は僕がラチェットさんにリンゴを剥いてあげるんです、って言ってたよ、彼」
「……え?大河君が?」
そこまで心配をさせるような盛大な倒れ方をしたのだろうか。ない記憶がここまで怖いとは思わなかった。看病云々の話はしたが、そんなに真剣な約束をしたつもりはなかったのだ。しかしもしかすると日本人との約束はハラキリを念頭に置くほどの覚悟が必要なのかもしれない。他に何か軽くした約束はあっただろうか。悶々と考え出したラチェットの様子に、サニーサイドは器用にまた一口大にリンゴを剥く。
「まあ、丁寧にお断りしたけどね」
「え?」
問い返したラチェットの口に入れる。
「ボクがやるからいいよって。だから今あげてるでしょ、リンゴ。美味しい?」
反射的に咀嚼するラチェットの唇に、サニーサイドの親指が触れた。唇についていた蜜を掬って、そのままのサニーサイドは自分の口に入れた。
「少し甘いかな。もう少し酸味あった方が良かったかもね」
驚いて目を丸くするラチェットは、熱のせいか、普段より少しだけ幼く見える。

「ラチェット。ボクが寝込んだ時はこんな感じでよろしく」
「え――」
不意にそう言われて、ラチェットは我に返った。
濡れ布巾でさっと手を拭いたサニーサイドが、すぐ傍に腰掛けたまま、右手で優しくラチェットの額に触れる。いつの間に絞り直したのか、新しいタオルを乗せると、手の甲で頬を撫でながら、優しい口調で尋ねられた。
「あと何か希望ある?ネギ巻こうか?」
「いえ、それは」
「うん、ボクもそれはいらない。まあ、基本的には薬飲んであったかくして寝てればいいんだしね。ということで、ラチェット。さっき実は薬も飲ませたからもう寝ていいよ。傍にいるから」
「え?飲ませ……え、サニー、どう……」
そんな記憶はさらさらない。
言われた言葉に驚いて紡ぐ台詞は、サニーサイドの掌で視界を覆われて途中で止まった。
光を遮られた視界に、適度な重みと温かさが心地良かった。
「……気持ちいいわ」
「そう?良かった。」
こんな看病もあるなんて知らなかった。
素直に感動しながら、ラチェットは瞼を閉じる。
サニーサイドの優しい温もりを瞼とベッドサイドに感じて、まどろみがゆっくりと降りてくる。ラチェットの耳に小さな呟きが聞こえたのはその頃だった。

「……まったく。日本人は謙虚・謙遜が美徳なはずだろ?ボクだって食べさせてもらったことないって言うのに」
それは常にないサニーサイドの拗ねたような口調で。
「サニー……。私にやきもち焼いてたの?」
「――どうしてそっちに……っ。いや、もういい。ラチェット、寝なさい」
うとうとしかけながら問うと、サニーサイドの諦めに似た溜息が、すぐ傍で頬を擽るのを感じながら、ラチェットは意識を手放したのだった。



サニラチェ!大好き!あと新昴も好きです。

1 1