きみしだい




夜気に請われるように鼻腔を慣れすぎた香りが満たして、心臓が早鐘のように脈打つのが分かる。
たまらず百合は細い腕を突っぱねた。

「――待った!」
「……何だ」

不機嫌さを微塵も隠そうとしない黎深の声音は普段と何ら変わりがない。
けれど普段と違いすぎる距離で聞こえる声と温もりに、百合は無意識に肩を揺らした。

「……や、その……あの、さ」
「何だ。早く言え。用がないなら黙っていろ」
「あるある! あります! ――やっぱり、ぼく今日はこのまま……」
「バカが」
「わーっ! ちょっ、待って! 待とうよ! 黎深たんまーっ!!」

何の予告もなしに押し倒されて、百合は大声で叫びながら、意に介さず圧し掛かってくる黎深の胸をばんばんと叩いた。
が、黎深はそれすら煩わしそうに一瞥しただけで、百合の腰に腕を回した。
抱き寄せるというよりは、動きを封じるために固定したといった感が強い。
それでもそんな黎深の腕の中にすっぽりと収まってしまった自分との体格差を改めて自覚して、百合は余計じたばたと手足を動かした。

「暴れるな」
「ま、待って! 黎深、待ってってば!」
「昨日も一昨日も待ってやっただろうが。これ以上はびた一文まからん」
「そーいうことじゃないだろぉっ!?」
「往生際の悪い。いい加減諦めろ。もうお前の言葉など聞かん」

眉を寄せて不機嫌さを崩さない黎深が、慣れた手つきで百合の腰紐を解いていく。
押し返そうとする百合の腕がふるふると震えていたが、全く気にする様子はない。

「何その悪の親玉みたいな台詞!? デリカシーなさすぎ! 女の子に嫌われるよ!?」
「関係ない。そもそも今のお前がデリカシーを説くな」

色気のない百合の必死の抵抗を鼻で笑いながら腰紐を抜き取った黎深は、それでもなお自分の胸板を除けようと奮闘する百合の手首を難なく捉えた。

「ぎゃあああっ! どっ、どこ触るんだ君は!?」
「まだ、どこも触ってない」

紐だけだろうが。憮然と言いながら、黎深は掴まれた手首を振り払おうともがく百合の両腕を、そのままぐいっと上に引き、抜いた腰紐で一括りに纏め上げると顔を寄せた。
至近距離で睨みつければ、さすがの百合も息を飲む。

「逃げるな」

右手で手首を捉えながら、左手で逃げようのない百合の顔を固定する。
逸らした方が負けだといわんばかりに見つめ返す百合の視界いっぱいに、不機嫌で冷淡な黎深の視界が深々と突き刺さって、ドクンと心臓が大きく震えた。

「へ、変態」
「黙れ」

我知らず小声になった抵抗に、黎深がいつもどおりの尊大な命令を下した。
しかし百合は、余計何かから逃げるように早口に捲し立てる。

「……き、君にこんな趣味があったなんて、長年傍にいたけど知らなかったよ。何これ。緊縛プレイとかいうやつ?  妓楼でいつもこんなことやってるんだ? わー、自分の主人がここまでだったなんてホントびっく――りッ!? れ、黎深!? ぎゃあっ! ちょっ! 待っ!」

掛け布を蹴り飛ばさんばかりに身を捩る百合をあっさり押さえつけて、黎深の手が太腿に触れる。

「や、黎深、ダ……ッ! わーわーわー!!」
「百合!」

一瞬吐息を詰めたかと思うと、遠慮なく騒ぎ始めた百合に、たまらず黎深が一括した。
いい加減、堪忍袋も切れるというものだ。険をこめた視線で射抜くように見据えながら、苛立たしげに息をつく。

「何をしてもいいと言ったのはお前だろう。いい加減黙れ。覚悟を決めろ」
「前言撤回って言った! それにこんなの横暴だよ。乱暴だ」
「お前が暴れるからだろうが」
「やさしくない!」
「やさしくしなくてもいいと言った」

薬が効いていたとはいえ、つい先日自分で言ってしまった発言の言質をとられ、言葉尻を巧みに掬われれば、瞳に動揺が走ってしまった。
自分でもどうしていいか分からなくなってきて、だんだんと視界が滲んでくる。

「――泣くほどイヤかっ!」
「黎深のバカ。嫌いだ。大嫌い。いじわる。バカ。嫌い〜〜〜〜」
「……ったく」

呆れたように呟く黎深の表情はよく見えないが、眉間の皺はより深く刻まれているのだろうと思う。
それでも離されることのない体の重みが温かくて、少し怖くて、百合の眦から一滴頬に伝った。

「新床で夫に言う台詞か」
「君だって! ……新床で妻にとる態度じゃない」
「いいから少し口を塞げ。もういいだろう。こういうとき、どうすればいいかくらいわかれ」
「わかんないよ」
「察しろ」

ず、と鼻を鳴らす百合の頬に添えた骨ばった黎深の指が、口調とは裏腹に優しく涙のあとを拭う。
瞼を閉じて感じると、余計涙が溢れそうになって、百合はひとつ息をつくと、消え入りそうな声で呟いた。

「だって、邵可様はこんなこと教えてくれなかったもん……」
「――あたりまえだ!」
「いひゃ……っ!? いひゃい、れいひんっ!!」

いきなり頬を真横に伸ばされて、黎深が怒声を張り上げた。
驚いて瞬きする百合の瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちるのを見て、黎深は一瞬目を丸くしたが、すぐに眉間に皺を刻んだ。

「ひどいよ。何するのさ!」
「黙れバカ」
「黎し――……ッ」

文句を言おうとした唇は、ものすごく乱暴に塞がれた。
両手の自由は奪われたまま、苦しさを喉の奥で伝えても一向に離れる気配はない。
それどころかより深さを増した気がして、百合の思考が痺れていく。

(……本っっっ当にやさしくない)

それでも、長い口付けからようやく解放されれば、じんわりと熱を帯びた視界には黎深がいる。

「私が教えてやる」
(相変わらず無駄にエラソーだし……年下のくせに)

滲む視線の先でぶすくれたようにそう言った黎深の眉間が、何故か困ったように――泣きそうに見えて、かわいいかもと思ってしまった自分に苦笑しながら、百合はゆっくりと瞼を下ろして頷いた。




隣の百合はヤバイ。萌え本。
いーやあぁぁぁ! ぴよさんいてくれてホント良かったと思いますYO!(笑)

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