百合色の音に誘われて




邵可邸の室で布団にくるまり、真っ赤に腫らせた目蓋をときおり痙攣させながら眠りにつく秀麗に眦を下げて、涙のあとにそっと指で触れる。子供特有の高い体温とぷにぷにした柔らかい頬に、いつか会った甥っ子を思い出して、百合は微笑を深くした。
(あーあ。泣き顔もかわいいなぁ)
同じ年頃だというのに聞き分けの良すぎるコウとは違う、秀麗の子供らしさが一際微笑ましく思えてしまう。
「むっふっふ。かわいいであろ?」
「お義姉様」
かけられた声に振り向けば、薔君が優美な動作で百合の隣に腰を下ろした。
手を離した百合にかわって、眠る秀麗の頬をびよんびよんと引っ張って笑う。
「お、お義姉様っ!?」
「大丈夫。ちょっとやそっとのことでは、子供は目を覚まさんよ」
寝入ったまま、それでも少しだけむずがる秀麗を覗き込んで、百合は薔君の言葉に納得した。
本当だ。子供って意外と図太いのね……。
おそるおそる指先でまた頬をつつこうとして、急に寝返りを打った秀麗にびくりと離れた百合を、薔君が笑った。この豪快で大らかな姫だからこそ、紅家長男の妻がつとまるのだろうと納得できる。
邵可がほれ込むのももっともだという気がして、百合も思わず笑ってしまった。


「――……おお、そういえば」
ひとしきり二人で額を合わせるようにして忍び笑っていたが、薔君が思い出したかのように顔を上げた。
「さきほど悠舜殿と鳳珠殿が、やっとこさそこの駄々こね娘を寝かしつけてくれたのじゃ。そなたがもう少し早く来れば……」
「えっ!」
うりうりと眠る我が子を苛める手を再開しながら言われた名前に、百合は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「ほ、鳳珠さん、いらしてたんですか……!?」
「ああ、そうか――。おぬしの浮気相手というのは真であったか」
至極真面目なしたり顔で頷く義姉の姿にぎょっとして、百合はぶんぶんと頭を振りながら否定した。
「浮……ッ!? ち、ちちち違います! 誤解です! オネーサマ!」
「これ。そんな大声ではさすがに起きる」
「あ、すみませ――…………でも誤解ですからっ」
義姉の言葉に慌てて秀麗を顧み、大人しく眠ってくれているのを確認してから、百合はもう一度低く抑えた声で強調した。
ときめきや面映ゆさを感じた彼とのしるこデートは、そう遠い過去の話ではないはずなのに、どこかの誰かのせいで『鳳珠』と聞くと罪悪感が先に立つようになっている。
というより、心ときめいた相手に心無い手紙で交際を一刀両断した悪女として、心に抱き続けられねばならないのかと思うと泣きたくなるというものだ。
しかもそうなるように仕向けたのが、他ならない自分の夫で、その事実を知っているくせに、夫の数少ない(というかそれしかいない)交友関係に気兼ねして、釈明も謝罪もしていない自分が人としてどうだろうと思う。
余計に合わす顔がないというのが本音だった。


「しかし百合姫。よくもまああの偏狭な夫殿の目を盗んで偲ぶ仲になれたものじゃ」
「だから誤解です本当に違いますってばお義姉様っ! そんなこと冗談でも、壁に黎深障子に黎深、犬も歩けば黎深に当たる……の耳にでも入ったら、――……鳳珠さん、またきっと凡人には到底及びもしない極悪な罠に嵌められたりして、大変なことに……」
類稀な美貌の主を思い浮かべて、百合はこめかみを抑えて唸る。
黎深のことだから、きっとまた百合に濡れ衣を着せて、面白おかしく取り成したふりをするに違いない。
どんどん自分の品性が貶められそうな気がして、百合はぷるぷると頭を振った。
「私には黎深しかいませんからね! だから浮気なんてそんな…………って、聞いてますかお義姉様」
百合の内心の葛藤など我関せずで、薔君はそうかそうかと百合の肩に手を置きながら、やたらと頷く。
(……わか……ってない気がするしもー)
情けないやら悲しいやらで、火照ってきた頬を両手でおさえ、百合は深々と息を零したのだった。


「あの、ところでうちの黎深は……」
その二人が邵可邸に来ておいて、黎深がいないというのは考えられない。
半ば確信を持って問えば、薔君はあっさりと首肯した。
「うむ。きておった」
「そーですよね」
玖狼が送ってくれた紅州ミカンが一箱なくなっていたので、そうだろうとは思っていたが。
しかし何を思い出してか、見る間に眉間に皺を寄せた義姉の顔に嫌な予感がして百合は頬をひくつかせた。
「……うちの黎深が何か」
「あやつ――。悠舜殿のように穏やかに御伽噺を語るでもなければ、鳳珠殿のように優しく相手をするでもなく、沢蟹か鈍亀のような奇妙な動きで秀麗の傍を右往左往しおってからに……」
「すみませんすみませんすみませんっ」
ああもう何やってるんだ君は! 琵琶弾いてあげればってぼくの助言はまるきり無視して、なんで沢蟹!?
縹家の術師でも裸足で逃げ出しそうな義姉のオーラと、それはそれは気持ち悪く怖い思いをしたであろう秀麗を思って、百合は怒涛の勢いで頭を下げた。
「秀麗が琵琶をねだっても、引き攣って奇妙な笑顔を向けるばかりじゃったから、それに余計泣いてのう」
「すっ、すすすすみませ――――……って、え。弾かないんですか? 黎深が?」
秀麗自ら黎深に強請ったというのなら、叶えられないことなどなさそうなのに。
「うむ。わしもまだ聞いたことがない」
困ったものじゃと嘆く薔君の横で、百合は思い当たる節にまさかと口に手を当てた。
(……まさか。まさかだよね。あの黎深が。……や、でも……もしかして本当に――?)


琵琶は百合のためだけに弾くと言った。
秀麗に泣きつかれても努力する――あの黎深が努力!――と言った夫の台詞を思い出して、百合は無意識に大きく息を吸い込んだ。


あの黎深が、大大大好きな秀麗を前に、一笑にふする「他人のために努力」をする様は、想像するだけで、おかしくて可哀想で哀れで可愛くて――――百合は内心大いに困った。
(ヤバイ……黎深、君……これはけっこう……)
じわじわと胸に染む想いを持て余していたたまれない。座っている足が、頬が、むずむずする。
「あの、私そろそろ――」
辞去しようと立ち上がりかけて、秀麗の小さな手が、百合の着物の裾をいつの間にかしっかりと握っていることに気がついた。眠ったままの姪っ子を振り払う気はとうてい起こらず、幼いその手に導かれるまま、百合はぺたんと座り直す。
薔君が艶やな笑みをたゆたわせて、百合の抱える琵琶に視線をくれた。
「夢の中に弾いてやってはくれまいか? 秀麗はそなたの琵琶もたいそうお気に入りのようなのじゃ」
もちろんわらわもな。
「……はい」
秘め事のように耳元でこっそりと打ち明けられて、百合はやわらかな微笑で答えた。
秀麗の見た沢蟹悪夢が、少しでも楽しい思い出に変わるように。
滅多に弾かない黎深と、絶対に弾かない邵可のかわりに、思いの丈を込めるように。
百合は秀麗の眠りを妨げない程度の甘音で、寝物語をするかのように、優しく琵琶をかき鳴らした。


「今度は起きているときに来ます」
そっと扉を閉めて言った百合に、薔君はああと笑う。
「今度は是非夫殿とともに。そなたがいれば、黎深殿も少しは大人しい」
「あは、は……はい」
苦笑するしかない誘い文句に、邵可邸での黎深の状況を垣間見た気がして、百合は頬をひくつかせて頷きながら、邵可邸をあとにした。
「…………さて」
百合の背中が門から見えなくなってしばらく。
薔君は半眼で庭の片隅に視線を投げた。
「いつまで影の出来そこないのような真似をしておるつもりじゃ、黎深殿」
百合が邸に向ったと知るや否や、ものすごい勢いで友人二人(特に鳳珠)を追い出しておいて、結局百合の前についぞ現れなかった義弟は、薔君に呼ばれてやっとで、顔をしかつめながら姿を現した。
「まったく。妻の本音も物陰からでないと問い質せないとは、紅家当主ともあろうお方が情けない」
「……」
大袈裟に額を抑えて言ってみても、黎深はやはりむすりとしたまま、しかし何の反論も返さない。
ただ、ふいとそっぽを向く黎深に、薔君はやれやれと呆れた視線を向けてやった。
こういうとき、絶対に顔を見せようとしないのは、いつも人を食った笑顔の我が夫と、やはり兄弟に他ならないと実感する。
「くそ……百合のやつ。あんな琵琶の音、私には聞かせたこともないくせに……」
ぶつくさとくさる黎深に、薔君は鼻を鳴らして肩を竦める。
それから遠慮なく、扇で彼の後頭部を強か殴った。
「とりあえず、そなたの絶世の華人殿との縁は切れていたようで何より。裏でコソコソ画策などせず、顔を合わせて話をさせてやるくらいの度量を持たぬか」
「……友人のいまだ癒えぬ心の傷を慮っただけです」
他人が聞けば底冷えのする黎深の口調にも、薔君は豪快に笑い飛ばすと、なおもバシバシと頭を叩いて、百合の去った方へと扇を向けた。
「帰れ。次は奥方とくればよい。琵琶を弾く気がないのなら、せめて百合姫の音にあわせて舞うくらいせぬか」
気のきかん男に秀麗は懐かん、とせきたてれば、「まだ兄上にお会いしていないのに…」と渋りながらも、
黎深は大人しく邵可邸をあとにしたのだった。
「……まったく。どこの青春バカップルじゃ」
「我が弟ながら本当に」
いつの間にか肩を抱く夫と声を顰めて笑いながら、二人の行方に幸多かれと、薔君は胸中でそっと言の葉を結んだ。




あー。萌えが止まりません。
黎百もえー。


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