待ち侘びて来る 李の花舞う木の下で、まだ細い幹に頼りなげな背を寄せて、膝を抱えて蹲る譲葉の姿を見つけて、黎深はす、と気配を消した。 頭のてっぺんで高く結い上げられた譲葉の髪の毛が、香りを運ぶ風に遊ばれて揺れている。 邵可が戻り玉環が去ってまた邵可が去ってから、譲葉が時折そうして一人の時間を持つことを黎深はいつの頃からか知っていた。 (飽きもせずバカか) 何度見てもそう思う。 玉環とともに彼女の野望は潰え去った。百合として紅家当主に囚われねばならなかったくびきは消えた。譲葉を囲う鳥篭は、邵可の願ったとおりその間口を格段に広げ、鍵は外されたのだ。 わき目も振らず飛び出すほど愚かになれとはいわないが、せめて篭の中くらい好きに羽ばたいていればいいものを。 琵琶も弾かず身動き一つしない譲葉を見ていると、黎深は何故だか無性に剣呑とした気分になった。 兄のものでなくなった時点で彼女が『譲葉』を選んだのなら、黙って自分に仕えていればいい。 どうしてこんな簡単な事実に気づかないのだ。バカなヤツだ。 黎深は譲葉を特別頭の良い奴だと思ったことは無論ないが、心底バカだというつもりもなかった。その譲葉がそうやって気づかないフリをしていることが気に食わなかった。そんなくだらない茶番を続ける理由は決まっている。篭の鳥は、――――を、待っているのだ。 おもしろくなかった。 何がおもしろくないのか分からないことが、余計に黎深を苛立たせた。 お揃いのように自分の頭で揺れる黒髪を無造作に解くことで気分を紛らわせる。 百合のブタさん貯金箱を叩きつけたときの衝動と似ている。ふとそう思ったが、その答えもまだ出ていないのだから、苛立ちは相乗効果にしかならなかった。 (……邵兄上ならわかるのだろうな) 思い浮かべればいつも切ない思いに満ちる長兄が、今日は黎深の眉間に皺を刻んだだけだった。 静かに上下する丸まった背中をしばらく見つめて、黎深はおもむろに足を踏み出した。 気配を殺したまま、譲葉を驚かすことくらいわけなかったが、そこに何かを想う『百合』に出会うのがいやで、黎深はわざと手近にあった枝を手折る。少しの配慮もなく進める靴の裏で、小石が踏まれ土が鳴る。 「譲葉」 無感情な声が届く距離に黎深が歩み寄った頃には、譲葉の視線も黎深をしっかりと捉えていた。 「黎深? 何してんのさ、こんなところで」 きょとんとして問うのは少年そのものの譲葉で、それは黎深の望んだとおりだったというのに、意識せず眉間の皺は深くなる。訝しんで立ち上がりかけた譲葉の肩を乱暴に押しとどめると、ふんとえらそうに鼻を鳴らして、黎深は譲葉の前に腰を下ろした。どかっという優美さの欠片もない座り方で胡座をかく。 「あっ、何その頭! せっかくぼくが朝結ってやったってーのに……わー、もうめちゃくちゃ!」 「うるさい。解けた。やれ」 「うっわ、わがままだな君はっ! まさかそれだけのためにこんなところまで来たとか? 他にも髪くらい結える人いるだろう? 何やってるんだよまったく」 「ふん。お前に仕事を与えてやってるんだ。よろこべ」 いいから早くしろ、と黎深は手に持っていたままの結い紐を、毒づく譲葉に乱暴に投げた。 「ホントにいろんな仕事を増やしてくれちゃって助かるよ! わざわざどーも!」 振り向かずとも、頬を膨らませてプンスカ怒っている様が見えそうだ。 譲葉なりの厭味に、しかし黎深はさらりと返した。 「礼はいらん。仕事は邸にもたんまりつくってきてやったぞ。こんなところで馬鹿の一つ覚えのように丸まってる暇などない。お前は私のために、さっさと馬車馬のように働けバカめ」 「君なぁ! まさかまた仕事も勉強も放ってきたのか!? しかもバカとか馬車馬とかもーホント口が悪――……って、え? 黎深? ……君、い、いつから見てたのさ」 黎深の心無い物言いに眉を釣り上げて、はっとしたようにその声がすぼんだ。 あからさまな動揺に、黎深はちっと舌打ちをした。嗜虐心がゆらゆらと燻る。 「どうでもいい。お前が邵兄上にフラれようが落ち込もうが泣こうが喚こうが知ったことか」 「なっ」 譲葉の声が一瞬ぶれて高くなった。 それに一層苛立ちが募って、黎深は怜悧な視線を譲葉に刺して振り返る。 譲葉は黎深から渡された結い紐を握りしめたまま、細い腕を口元に持ち上げたまま、黎深から視線を逸らした。その手を乱暴に引きはがした。 「『譲葉』だろう、お前は」 冷淡な声で言い捨てる。 その言葉に譲葉は一瞬目を瞬いて、ふっと頬を緩ませた。 「……ありがとう」 耳を澄ませていなければ、花弁の舞う音にすらかき消されそうな声で小さく呟く。 それから可笑しそうに肩を揺らして笑いながら、譲葉は黎深を見た。 「そう。譲葉だよぼくは。今更何言ってんのさ。黎深なんかに言われなくても、ぼくはずっと譲葉だ」 やんわりと黎深に捕まれていた腕を外す顔も口調も少年そのもの。 「なんかとはなんだ。口の悪い奴だな」 「君が言うかっ! ――ほら、髪の毛結って欲しいんだろ? はい、さっさと後ろ向いた向いたー」 憮然とする黎深をぐいぐい押して、譲葉は背中に流れる黎深の癖のない髪に触れた。さらさらの艶のある黒髪はやっぱり少し羨ましい。 「手持ちの櫛じゃ上手くできないから、とりあえずちゃちゃっとまとめとくけど、邸でちゃんとしようね」 「譲葉」 「なに?」 言いながらも器用に自分の髪がまた高く結わえられていくのを感じながら、黎深は呼んだ。 「仕事をやる」 「は? だからちゃんとやるってば。ていうかもうこれ以上いらない。自分でやんなよね。……あ、もしかしてして欲しい髪型があるとか? うーん、それくらいなら頑張れるかな……」 思案し始めた譲葉を無視して黎深は仕事を言いつけた。 「腹が減った」 「食べたばっかだろ。昼まで待とうよ」 「蜜柑」 「……はいはい。あんま食べ過ぎないでよ?」 「剥け」 「はいは――……ハァッ!?」 思わず結った付根を引っ張って、素っ頓狂な声を張り上げた譲葉に、黎深は絶対零度の眼光で静かに睨んだ。何調子こいてんだ君は、と怒鳴る譲葉は無視をする。 「今ので追加決定だな。琵琶。弾け」 「はあ!? だからなんでそんなこと! ていうかなんで君の世話ばっか! 蜜柑剥けってどーゆう仕事だよそれ。あ、琵琶は絶対却下!」 「うるさい、弾けバカ。邵兄上には弾いてただろうが」 「うっわあ、この流れで邵可様出す? 君ほんとサイテーだな! いいよもう。黎深には絶対弾いてやんないね! だいたい弾いてたのはぼくじゃないし。百合だろ百合!」 邵可の名前にも今度の譲葉は堂々と食って掛かってきた。ふん、とむくれてそっぽを向く顔は譲葉で、揺らぐ陰はどこにも見えない。それに何となく満足した。 「譲葉でいい。弾け」 「で、って失礼すぎだろれーしん!」 「お前が何だろうと私がかまうか。弾け。とりあえずまずは蜜柑だ。行くぞ」 譲葉の返事も待たずに立ち上がって、手を差し出す。反射的にその手を重ねた譲葉を引っ張ると、そんなに力を入れたわけではなかったが、譲葉は簡単によろめいた。 「わっ。黎深! いきなりすぎる! 何か言いなよ」 黎深の体にぶつかるようにして止まった譲葉が、鼻を押さえて抗議する。が、やはり無視して歩き出した。 「蜜柑くらい自分で剥きなよ」 「剥け」 「……本っっっ当にワガママ若様だな君は! あ、ていうか蜜柑の前に髪! 髪するよ」 「食べながらさせてやる」 「行儀悪い!」 「うるさい」 「黎深!」 喧々と口やかましい譲葉と繋いだ手を引っ張って、歩く速度をぐんと速める。 息を上げながら、それでも文句を止めない譲葉に、黎深も負けじと「うるさい」の言葉を連呼した。 黙れば一人で考えすぎる。黙って動かないくらいなら、うるさい方がまだマシだ。 黎百。 自分の世話を当然百合がするものだと分かっててやる黎深もえ。 |