めぐり会うは宵




最初は風邪でも引いたのかと思った。



風呂上り、自室に戻った黎深を出迎えた百合は、黎深が近づいても上気させた頬をぼんやりと上向けただけで、ほぅと小さく溜息を零した。名前を呼んでもまた茫洋とした視線を向けた百合に、黎深は眉を寄せた。
様子を窺いながら隣に座った途端、ぐにゃりと傾いできた体を受け止めると、夜着越しにやたらと熱い体温が伝わってきた。
「どうした」
首筋に手を差し入れると、百合は一瞬首を竦めて、それからふにゃりと相好を崩した。
「……あ〜……黎深の手、ひんやりして気持ちい〜……」

「酔っ払いが」
混じる酒の香りと素面ではありえない必要以上のスキンシップに、黎深は事態を理解する。と同時に、部屋の隅に転がされていた酒席のあとに目が止まった。
あれはたぶん、黎深が風呂上りにと家令に用意させたはずのものだろう。
それが、久し振りの帰宅にも関わらず夫が風呂の間に泥酔する妻のせいで台無しになった。
自分の隣で軟体動物と化している百合の身体から舞う酒の残り香で酔えるほど、黎深は酒に弱くない。

「だって黎深遅いんだも〜……いっつも烏の行水のくせに、久々に会える妻を放って長風呂ってどうなのさ」
「……久々だからだろうが。バカかお前」
「バカは黎深ですー」
完全に酔いの回った百合がケタケタと笑う。
こんな酔っ払いを相手にしても仕方がない。
笑いながらずるずると黎深の胸に預けた身体をずり落とし、「さいてー」と楽しそうな口調の百合を、しかし黎深は渋面で見下ろすにとどまった。

膝枕に落ち着いた百合は、そこでくるんと丸まる。胡坐を掻く黎深の足に、百合の長い髪が広がった。自分に対する暴言を聞きながら何とはなしに梳いてやると、百合は口を閉ざし、気持ち良さそうに目を細めた。
「犬かお前は」
「ふふ。……じゃあ君がご主人様? わー、すんごい可哀想だなー、僕」
首筋に流すとくすぐったそうに笑って、百合は黎深の膝に寝転がったまま、ぽやんとした口調で言った。
「眠れ」
目蓋を下ろしてやろうと伸ばした黎深の指先に、百合が急に噛みついた。
「――だっ! 何をするんだお前は!」
「あははは! 黎深怒ってる〜」
「当たり前だこの酔っ払いがっ! 寝ろ!」
仰向けになって腹を抱えて笑い転げる百合に、黎深は本気でムカッときた。
なんだコイツは。数ヶ月だぞ。数ヶ月ぶりの再会がこれかっ。

百合が帰ったら何をすると、具体的な考えがあったわけではない。だが、一人で酒をかっ喰らった挙句でろんでろんに酔っ払い、寝かしつけようとした夫に噛み付く妻など、まさか考えてはいなかった。
そんな黎深の怒りなどまるきり無視して、百合はケタケタと笑い続けていた。
ひとしきり笑って目尻に落ちた涙を拭うと、百合は突然表情を変えた。今度はいやに冷静な視線を向けてくる。今まで爆笑していたくせに、百合の感情の流れは実に酔っ払いらしく全く一律ではないらしい。
「怒ってる?」
怒らないでいられるか。大体今さっき怒った自分に爆笑したのだろうが。
「知るか」
ふん、と百合から視線を逸らして黎深は素っ気無く言った。

膝の上で向きをかえた百合が仰向けになったのを感じたが、無視をする。しばらくそうしていると、不意にさっき百合に噛みつかれた指を取られた。また噛む気かと身構えた黎深だったが、百合はその指を労わるように優しく両手で包んだだけだった。何をしたいのかさっぱりだ。
好きなようにさせていると、百合は自分で噛んだ部分にそっと触れ、それからちゅっと唇を寄せた。
「ごめんね?」
まるで本当の犬のように、黎深の機嫌を伺うような上目遣いは、酒気を帯びて潤んでみえる。
「……ちっ。もういい」
「…………」
いつまでも酔っ払いを相手に腹を立てているのも時間の無駄だ。
百合が寝静まった後にでも、一人手酌で飲んでやる。朝になったら覚えていろ。
そう決めた黎深を知らず、しばらく下から見つめていた百合は、またぞろ身体の向きを変えた。
黎深の腹に顔を向けたかと思うともう半回転してうつ伏せになる。

「……おい」
ぴこぴこと何やら楽しそうに、膝で折った足を揺らしながら、百合はごそごそと探るように手を動かしている。
「………………おい、百合」
「ん?」
何の躊躇いもなく帯の下に手を差し入れてきた百合に、黎深はハッとして声を荒げた。
「やめろっ。何を考えているんだお前はッ」
ぐいと肩を押した黎深に、百合は一旦動きを止めて、斜め上に首を傾げた。
指先に百合の柔らかい髪が触れて、黎深は眉を顰める。酔っ払いめ。
「なにって…………ご主人様のご機嫌取りだわん」
いっそ無邪気なまでの笑顔を向けられて、黎深が頭を抱え込みたくなった。代わりに眉間の皺を押さえる。眩暈がしてきた。百合が酒に弱いのは知っていた。だがその酒癖に、性質の悪い幼児退行もどきまであるとは知らなかった。
眉間を押さえて唸る黎深を無視して、百合は袷の下で動きを再開した。黎深は珍しく慌てた声を出した。

「バカこの酔っ払い! 止めろと言うのが――」
「やめないわん」
「――ッ!」
笑みさえ含んだ声音で告げた宣言と同時にいきなり含まれて、黎深の喉が詰まった。
反射的に背筋を反らせたい気持ちと前のめりに屈みこみたい衝動を、どうにか理性で抑えこんだ。
しかし百合はそんな黎深の内心の葛藤などおかまいなしに口からあっさり引き抜くと、今度は先端をちゅっと音を立てて吸った。
「百、合……っ」
非難のつもりで黎深は名前を呼んだが、意に反して熱を帯び苦しげな調子になる。
自分の膝の上で緩慢な上下運動を繰り返す百合の頭部に合わせて、柔らかくうねる髪が黎深の膝をくすぐった。その間から見えるのは酒のせいか桃色に染まった細い指先。それが這うようにゆっくりと動くあとを、赤い舌先がちろちろ動くのが見え隠れして、黎深の背から首筋までを、えもいわれぬものが走り回った。
上手い下手ではない。している本人が問題なのだ。
黎深の眉間に刻んだ皺がぐっと深まる。

一心不乱にというより、面白いおもちゃで遊んでいるようにも感じる百合の無邪気で奔放な動きに、黎深は苛立たしげもあらわに、彼女の肩に置いた手に力をこめた。
「くっ」
「ん……れーしん?」
薄皮をなぞる指と唇の動きに、思わず黎深は百合の頭をべしっと殴った。
「痛った!」
「喋るな! 喋りたければ口を離せっ」
「んん」
「――百合ッ」
喋るなという黎深に従い、百合は半分ほどまで口に含んで、プルプルと首を横に振った。いっそ反抗的なまでの態度だ。いい度胸だ。
「この――」
意識しないと口を吐いて出そうな息声を怒りに変えて、黎深は今度こそ百合の肩を強引に掴むと、力任せに引き剥がした。

「え――、あれ? なんで? ……ダメ?」
ち、と音を立てて百合の口から自身が離れた。きょとんとした表情で、それでも唇だけは僅かに触れさせながら、百合は熱っぽい瞳で黎深を見上げた。
それには答えず、黎深は百合の頬に乱暴に手を添えて首を反らせる。射るように睨み付けると、百合はくしゃりと泣きそうに顔を顰めた。
「ぼく、へた?」
「…………うるさいっ」
そういうことを言うな。するなっ。
眉間の皺をこれ以上ないくらいに深くして、黎深は怜悧な視線に険を刻んだ。
それに怯えるではなく、愚図る子供のように頬を膨らませて目を潤ませる百合に、お前は負けず嫌いの権化かと黎深は言いたくなった。
これ以上百合にばかりされてたまるか。

「黎し――、ん」
睨んだまま距離を縮める。
軽く合わせただけの唇を離し、百合に覆いかぶさるようにして見下ろすと、黎深のぬばたまの黒髪から拭いきれていなかった雫が落ちた。
「ん……つめたっ。……黎深、髪まだ濡れてるよ?」
「お前が拭けばいい」
「無理。――今は、もっと、濡らしちゃう」
百合の指が黎深の頬に添えられた。そうして頬をすべり、こめかみをなぞり、流れた髪を耳の後ろに梳き入れる。
かち合う視線が求めるように、自然と黎深を近寄せた。
「……別にいい」

そう言って黎深が百合の頬に触れた途端、百合の動きがピタリと止まった。
「百合?」
細めかけていた目蓋を上げると、百合が何かを考え込むように片眉を上げていた。
「優しすぎる……。君、浮気してた?」
「――黙れ」
何故そうなる。空気を読め。
百合が聞けば、絶対に黎深にだけには言われたくないと憤慨しそうなことを本気で思って、黎深は百合の口を強引に塞いだ。
「――っ……」
唇の端から漏れる息すら、角度を変えて嫌味なくらい執拗に残らず塞ぐ。
口腔に酒の含むほろ苦さと絶妙な甘み、それから首に絡んできたしなやかな腕の熱に侵されて、黎深は頭の芯から痺れるような酔いに任せた。





あ、あげてから気づいた入れ忘れ補足。
百合は紅家傍流の奥様方から「してあげると喜びますのよ殿方はオホホのホ」的入れ知恵されたっつーお話の予定でした。
すいません尻切れ〜。


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