春告鳥の戀




特にこれといって決定的な何かがあったわけではない。
だというのに、何故か最近いつもこうだ。晴れることのない靄か霞のような苛立ちは、日増しに黎深の眉間の皺を深くしていた。
「……黎深」
「あ、兄上!」
その皺が劇的にスッと伸びたのは、大好きな兄に名前を呼ばれたからに他ならなかった。
「何かあったのかな。眉間がすごいことになっていたようだけど」
「眉間が?」
邵可の前でだけは年相応の幼さを感じさせる表情で首を傾げてから、黎深は思い出したように右手の人差し指で言われた箇所を揉み解した。

「――最近、私はどこかおかしいんでしょうか」
「うん」
いつも絶やさない微笑を浮かべた邵可が、弟の横にゆっくりと腰を下ろした。
「とりあえず落ち着いて。ホラ、お茶を持ってきたんだけど、一緒に飲まないかい?」
「……いただきますっ」
黎深は差し出された茶褐色の邵可特性茶を受け取ると、挑むように睨みつけた。一気に煽る。
本来濃緑色のはずの飲み物だが、ずっと戻ってきて欲しいと思っていた兄の愛だと思えば、喉の奥の苦さも頭の芯を揺さぶるような渋さも黎深は平気だった。むしろ嬉しい。

久し振りだったせいか、瞼の裏がじんわり濡れてきたような気がするのは、兄への愛と気合で誤魔化した。
物心ついたときから、邵可の淹れる茶は強烈だった。だからこのお茶を飲むと、本当に邵可が側にいるのだと思えて、黎深は嬉しかった。
ずっと、ずっと望んでいたのだ。邵可がまたこの紅家に戻ってきてくれることを。
いつも誰よりも一族のことを――自分達のことを考え、自身を犠牲にしてきた邵可が、薔君と可愛い姪っ子を連れて戻ってきたことは、紅家の思惑など端からどうでもいい黎深にとってはすこぶる喜ばしいことで、それ以上でも以下でもない。衝撃は『兄を女に盗られた!』くらいだったがそれも最初だけで、一目見た途端、文句のつけようのなさに閉口する他なかった。
だから邵可一家の帰郷に、黎深は喜楽以外のなにもないはずなのだ。
だというのにあのバカはあっさりと姿をけしやがって――。

「……しん、黎深」
「わ――っ、すみません兄上!」
ぐり、と眉間を邵可に押され、黎深は自分がまたそこに深い皺を刻んでいたことを知った。
「お茶、ちょっと苦かったかな」
「いいえ! ものすごく美味しかったです! 是非もう一杯!」
つい勢いでそう言ってしまいながら、黎深は誰にも打ち明けたことのない胸の内を口にした。
「その……ここのところ、妙に気分が落ち着かなくなることがありまして……原因は分からないのですが」
「……分からないの?」
「はい」

黎深の即答に、何故か邵可は苦笑して眦を下げた。それにまた黎深が首をかしげたのを見て、邵可は優しく黎深の頭に手を置いた。
他の誰がしても嫌悪感あらわにする黎深が、兄からのそれだけは大人しく享受する。
「じゃあ一緒に考えてみようか。黎深、君がそんな気分になるようになったのはいつの頃から? 正直に」
「…………一年と十………二ヶ月くらい、前、のような」
やっぱり。黎深の答えに邵可は軽く噴出しそうになるのを堪えた。頬が変な具合に引きつる。
二年前。それは邵可が薔君と娘とともにこの紅州に戻ってきたとき。そして譲葉が紅州を飛びまわり始めた時期だ。しかも意外にはっきりとイラつき始めた時期を把握しているくせに、それを結びつけて考えないあたり、黎深らしいといえばらしい。

「兄上?」
「いやいや。何でもないよ。ところで黎深、その二年前――と何か変わったところはない?」
「変わったところ……兄上がこうして戻ってきてくれました」
「それじゃあ私が君のイライラの原因かな。帰ろうか」
「ちちち違います兄上! それはいい方の変化です!」
わざと意地の悪い言い方をすれば、黎深が面白いように青褪めた表情で、ガッシと邵可の胸ぐらを掴んだ。慌てる黎深の手をゆっくりと外してやりながら、邵可は穏やかな口調で返した。
「なら別の変化は? 例えば何かがなくなったとか誰かがいなくなったりとか」
「何か」
「――ああ黎深。そういえばあの子は?」

そらとぼけた邵可の言葉に、黎深はピクリと体を揺らした。あの子ですぐにただ一人を思い浮かべたらしい黎深に、邵可は限りない成長を見つけて、自然と頬が緩んだ。
「いません」
「いつ帰るのかな。君たちを見ていてくれたお礼を言いたいんだけど」
「わかりません」
プイとそっぽを向いた黎深の横顔が拗ねている。むくれる代わりに引き結ばれた唇が黎深の苛立ちを表していて、邵可は今一歩、背中を押してやりたくなった。

「あの子がいないと君も玖狼も何かと大変だったろうね。あんなに優秀な子はそういないから」
「……。ふん。どこが優秀なもんですかっ。兄上はアイツを買い被り過ぎです」
「そう?」
「そうですよ! そんなに優秀ならなぜ今ここにいないんですか。自分の琵琶さえ置きっぱなしで家を空けるズボラさ。アイツにはそれくらいしかないというのに、到底信じられませんね。しかも玖狼の世話を他ならぬ兄上に任せられたというのに、それも放って――」
「君の世話も頼んだんだけどね。そっちも放られちゃったのかなぁ」
確信的な意地悪を呟くと、黎深が一瞬黙りこくった。

「……。紅州みかんの改良が楽しみだとか言っていたくせに見にも来ず中途半端なまま。意味不明です。おかげでみかんの日に食卓にみかんが並びません。いい迷惑です」
他の使用人に持ってこさせるか、自分で持ってくれば済む話だ。だいたい「みかんの日」ってなんだ「みかんの日」って。というかそもそも黎深の言い分自体が意味不明だということに、黎深自身はまったく気づいていないらしい。
「朝は気分と違う着物が出るし、湯殿から出たら布の位置が違うんです。取りずらいったらない。髪もこんなに伸びたというのに寄り付きもしない。いい度胸だ」
「黎深……」
邵可はさすがに苦笑いを禁じえなくなってきた。

黎深の説明を聞く限りで、これまでの二人のやり取りが目に浮かぶようだ。黎深の尊大な我儘のおそらく大部分を譲葉一人が負ってくれていたのだろうと思うと、本気で会ってお礼をした方がいいようにも思える。
譲葉に対する感謝と謝罪の気持ちを胸にしまい、邵可は黎深の名前を呼んだ。
「じゃあ君のイライラはあの子のせいなのかな。いっそ玖狼付きになってもらおうか」
「玖狼もいい歳です。そろそろ乳離れをさせるべきです」
君、玖狼より年上だよ? という台詞を邵可は苦笑で飲み込んだ。
「じゃあ迎えに――いやいや」
それはまだ、黎深にはハードルが高すぎるというものだろうと思い直し、邵可は言葉を変えた。

「文でも出してみたらどうかな」
「出しました」
「へ? え、あ、そうなの? 書いたの? ――君が?」
あまりに予想だにしなかった黎深の答えに、さすがの邵可も思わず口をあんぐりと開けてしまった。
あの黎深が。手紙を。自分で書いた。
すさまじい衝撃だ。成長というより進化かもしれない。新しい異種族への脱皮かと信じられない気持ちでいっぱいになったが、黎深は邵可に嘘はつかないし、つけない。
「まだ帰るつもりはないようです。玖狼のバカに仕事を押し付けられているとか何とか言い訳を返してきました。まったく、自分の能力のなさを棚上げですよ。ありえません」
「うん、ありえないね……」

まさかここまで二人の関係が――いや、黎深の感情が進展しているとは。
しかも譲葉からの返信内容を告げるときだけ、黎深の口にごく僅かな、邵可でなければ気づかないような笑みが乗っていたことに二重の意味で驚かされた。
帰れないという内容よりも、譲葉から返事がきたことに満足しているらしい黎深に脱帽する。
「そうでしょう!? ありえませんよね」
邵可の同意を得たと勘違いした黎深が嬉しそうに自分を振り返ったのを見て、邵可は最後の意地悪を口にした。

「私の名前であの子を呼び戻してあげようか」
「――」
半瞬落ちた黎深の沈黙と、無意識だろう僅かに寄った眉間に、邵可はごめんねと心の中で二人に謝罪した。黎深が何事もなかったかのように、悪巧みをする極悪人のような表情を浮かべて鼻で笑った。
「いいえ。兄上のお手を煩わせる必要はありません。いざとなったら私がみかん袋に詰めてでも連れ戻して土下座させてやります」
「そう」
ついつい兄心からいらぬお節介をやいてしまった。
邵可はそれ以上は言わずに、新しい茶褐色の澱んだ茶を、黎深の空いた湯飲みに注いでやりながら、話題を変えた。




2年間の百合不在時に手紙を書いたという黎深に激しい萌えを見出した正月深夜のロイホでした。

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