木製の扉を叩く音にも金属のノブを回す音にも、何の反応も返されない。
………また逃げられた――――?


 ハート・ブレイク

いちいち「入ります」と形式に従って一声掛けるのも億劫だ、と部下たちが談笑していたのを、形だけでも敬意を表するようにと指導したのは、果たしていつのことだっただろうか。
懐かしく思えてきて、つい眉間に皺が寄ってしまう。
そして彼の場合、大抵の他の上官たちと違い、ノックに対して8割方まともな返事を返さない。
ありがたいことに(というか当然あるべき姿のはずだが)職務を忠実にこなしているときは、集中力の賜物か、部下たちが書類を数百枚程度増減させていても一向に気にしない――というか気付いていない。さらに脱走している時はいわずもがな。
従って彼がノックに反応するときといえば、幸か不幸か在室中で暇なとき(2割弱)に限られる。

「――……入ります」

それでも部下たちに「敬意を払え」と注意した手前、声をかけないわけにもいかない。
そう思い返事のない執務室の主へ、諦めの音色を色濃く響かせたリザの目に飛び込んできたのは質素で、だが威厳を醸し出すのに成功している佐官用マガホニーのデスク――と、この部屋の意外に几帳面な持ち主にしては珍しく、まるで今抜け出しましたといわんばかりに斜め横を向いたままの姿勢で、止まっているいかにも偉そうな黒い革張りのオフィスチェアだった。
やはりというか、そこに彼の姿は見つからなかった。

「…………」

眉間を押さえて入りかけて、ふとリザは足を止めた。
リザの知る限り、通常彼は脱走を図る際でもすぐに部下たちからの追っ手が掛からぬように、脱走の真実をできるだけ長く隠匿すべく、書類は外見だけでもまとめ、椅子も机もきちんと整頓してから実行する傾向にある。
普段しないことをそうしてするものだから、部下たちにはコンマ1の世界で知れ渡る事実だということを、当の本人は気付いていない。わざわざリザが教えてやるつもりもない。
だが、今回の不在は妙だ。
そうして不要な策略を練る上官にしては、あまり類を見ない逃走の仕方のような気がする。


咄嗟に何か罠でも仕掛けたのではないかと警戒した。
軍内の執務室で、しかし彼ならこういう下らない些事を結構本気でやりかねない。
無駄に頭が切れて錬金術さえ使えてしまう彼にかかれば、一般人には何もない簡素なこの執務室でさえ、面白ビックリ発明をする上で、かけがえのない原材料の宝庫になってしまうのだろう。
本当に無駄だ、とリザは思う。
無駄に歳をくってる所為で、子供の冗談では済まされない危険性もあるではないか。


かわいそうなことに、ついうっかり暇を持て余した(それでも書類の山は未処理だ)上官のもとへ
追加書類を運ぼうものなら、新技の焔だといって自慢の金髪を軍人刈りにまでカットせざるを得なくされるほど、髪の毛を焼かれたハボックや、頭から濡れ鼠にされたフュリー曹長、たった一歩を無防備に踏み込んだがために、顔面に板切れをダイブさせてしまったブレダ少尉など、被害は微笑ましいが、職場での上官の行いとしてはあまりに稚拙で威厳のそがれる悪戯が実際にあったのだ。
それも一度、業を煮やした部下たちの訴えによって、リザが控えめでささやかな愛銃による苦言を呈したことで、事態は快方に向っていたように思えたのだが、油断は出来ない。
そう思い、辺りを見回し一歩、また一歩と歩を進めたが、特に何も起こらなかった。
しかし――――

「――――」

ちょうど死角になっていた来客用のソファの上で何かがごそりと蠢いたとき、ほんの少し、息が止まるかと思った。
衣擦れの音がするまで気付かなかった――いや、思いもしなかったというべきか。
そんなところに、ロイが丸まっているなんて。

「な――何をしてるんですか」

意表をつかれた彼の出現によって、声音がおかしなトーンになっている自覚はあったが、仕方ない。
だが、ロイの口はだらしなく開け放たれたままで、リザの問いに答える気は更々なさそうだった。
爆睡だ。
熟睡、などではなく。これは間違いなく。
よほど疲れているのだろうか。
しかしこんなところで正体を無くして眠るというのは決して褒められた行為ではない。
というか問題だ。
仮にもアメストリス国軍大佐が。執務室で。
他者の侵入にも気づかず、口から涎を垂らして眠りこけるなどあってはならない。
せめて仮眠室で眠ってくれればいいものを。
リザはとりあえずこの現状に眉を顰めながら、無抵抗なロイのシャツの袖口で光る涎を拭ってやった。

「……私が刺客だったらどうするおつもりですか」

だらりと重力に従って落ちてきたロイの腕を持ち上げる。

「…………ん」

と、漸く彼の口が動いて開いたままの唇が閉じられた。鼻の奥が詰まったような音が漏れる。
外部から与えられた皮膚刺激によってこのまま覚醒するかと思ったが、どうやらそのつもりはないようだ。

「――ちょ」

かわりに寝心地のいい体勢を求めて体位変換をはかったらしいロイは、リザが戻す為に掴んでいた腕を取り戻すと、逆に彼女の右腕をぐっと抱きかかえるようにして寝返りを打った。

「たい――っ!」
「――うん」

何が「うん」だ。
いきなり片腕だけ抱きこまれた所為で前のめりになったリザの顔は、ロイの寝顔に今にも張り付きそうな距離になっている。わざとなら、怒鳴りつけて突き飛ばして、その両手に聖痕でも刻んでやろうかとも思ってロイを見たが、
思いがけず間近で見るロイの睫毛が黒く長くて、息を吸い込んだ口からリザの口からは、怒声の変わりに溜息が零れた。

「んー……」

その微風を受けたロイの眉がピクリと動く。
しかし起きはせずに、さらにぐっとリザの腕が引っ張られた。

「……抱き枕?」

二の腕部分まで這い上がってきたロイにされるままでいたリザの頭に、ふとその単語が浮かぶ。
何故だかズリズリと這い上がってくる理由は、おそらく抱き枕として女の細腕では微妙に安定感が悪いからだろう。

「お幾つですか……」

微苦笑しかけて、

「ちーっす大佐いますー?……って中尉!!!?」

ノックもせずに入ってきたハボックに大声で呼ばれた。
流石にこのボリュームでは否が応でも起きるだろう。腕も放される――しかし、リザの思いとは裏腹に、ロイはさらによじのぼり気味にリザの腕を抱きかかえたままでぐぅ、と唸った。

「――黙れハボック……ノックぐらいしろ」

目も開けず覇気のない、だが不機嫌な声でロイは漸く覚醒した。

「いや、つーか何してんスか大佐! 中尉、無事ッスか!?」
「……中尉? 彼女がどうかした――」
「はい?」

ハボックがやけに慌てた様子で後ろ手に執務室のドアを閉めた。
その音に返事は消されてしまったかもしれない、とリザは少し懸念した。が、どうやらロイの耳には届いたらしい。
リザの腕を掴むロイの体がぴくりと反応を示し、眉根を最大限に寄せて起き上がりながら、重たい瞼を開けた。
その間も腕の自由を奪われ、無理な姿勢で引っ張りあげられたリザは、よろめいてソファの背凭れに片手をつく形で、何とか自分の体をとどめることに成功した。
掴まれた右手は、自然ロイの両足の付け根に置かれてしまう。

「ちゅ……君、ここで何し――――ってうおっ!!!」

至近距離での質問にリザが答えようとした途端、ロイが悲鳴じみた声をあげた。

「き、き、み……な……な……?」
「書類を取りに伺いましたら、熟睡中に大佐が私の腕を抱き枕と勘違いされて現在に至ります。
 ――触れられて困るのでしたらそろそろ放していただけますか?」

私も大いに困っています。
そう知らせるために、少し首を傾げて見上げる。
するとロイの口はパクパクと酸素を求める魚のように無意味な開閉を繰り返して、奇妙な呼吸音だけがしばらく聞こえた。
無意識にだろう、先程よりがっちりと抱え込まれている自分の腕を半ば強引に引き抜こうともがいたリザの手は、余計な刺激をロイに与え、そこで漸くロイは彼女の腕を解放した。

「あー…えーと……無理矢理とかなわけじゃないんスね?」
「ええ、違うわ。ハボック少尉」
「さわられたさわられたさわられた中尉にさわ……っ」

二人のやり取りに安堵の息を吐いたハボックに微笑みかけて、リザはすぐ側でブツブツ呟く声の方へと、鋭い視線を投げかけた。
見ると、ぴったりと両膝を合わせ、両手で顔を隠したまま俯く上官の姿が目に入る。
何だというのだその態度は。
まるで無理矢理リザに触られた被害者のようだ。
そんな思春期の少年のように純情ぶってどういうつもりだ。
心にむくりととげが生える。

「不可抗力です。仕方ないじゃないですか。
 私の感触がお気に召さなかったのなら、ハボック少尉にでも触りなおしてもらえば――」
「――ごめんだ!!!」
「俺もッス!!!」

慌てて股間を押さえ込んだロイを怜悧な視線で射抜いて、リザは立ち上がると執務机に向った。
机上にある数少ない処理済の書類だけを持ってドアに向う。

「残りもお早く」
「あ、ああ」

まだ動揺を隠せないでいる前屈みの上官に、リザはとげが成長するのを感じた。

「触ったぐらいなんですか」
「な」
「握ってないだけマシでしょう?」
「ち――――!」

中尉、と。
悲鳴に似たロイの絶叫は扉の向こうに。
ドアを完全に閉めてから、いけない退室の挨拶を忘れたわ、と気付いたけれど
リザはそのまま歩き続けた。
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