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手のひらに乗る想い 2. 会いたいと思う時ほど、なかなかその人に出会わないものだ。 壁外調査から帰還後の兵士達に与えられる束の間の休息は今日で終わる。だというのに、リヴァイは未だペトラに例の結果を伝えられていなかった。 一言も言葉を交わす間がなかったわけではない。 隊員食堂で同期らしい仲間と談笑しながら食事をしているペトラを見た。廊下をすれ違い様、こちらが気づくより早く小走りで駆け寄ってきた彼女から「おはようございます」と挨拶をされた。返した返事に、それだけでふわりと周りを巻き込むような笑顔を寄越したペトラへ、その時に話してしまえば良かったのかもしれない。けれどすぐ後に会議が控えていたし、何よりほんの一瞬、朝の太陽を見るように目を細めてしまった間に、ペトラがぺこりと頭を下げて、楽しそうに踵を返してしまったのだからどうしようもなかったのだ。 会議で供された紅茶は、あれから少しだけ注意深く飲んだつもりだが、やはり違いはわからなかった。相変わらず美味い。それだけだ。 そもそも例の事柄は、上官として絶対に伝える義務があるわけではない。戦場での会話など、ペトラも覚えていないかもしれない。 「――クソが」 ハンジがあんなことを言ったからだ。 だからこんなに気になっているのだくだらない、リヴァイは自分にそっと吐き捨てて、今日中に切欠が向こうからやってこなければ、そういうものだと思うことにした。 ***** 休暇最後の夕食を終えたリヴァイが、呼ばれたエルヴィンの執務室で打ち合わせを終えたのは、そう早い時間ではなかった。各自見廻りの要員以外は自室にいるかと思う頃合いに、廊下の窓から見慣れた頭が見えた気がして、リヴァイはじっと目を凝らした。 「――何してんだ」 それは、どう見てもペトラだった。 まだ肌寒い風はない。そうは言っても何故この時間に、彼女が外にいるのだろう。誰か人待ちでもしているのかと、辺りに送った視線は夜の静寂しか捉えられず、リヴァイは階下に足を向けた。 明日からまた通常業務が開始となる。今日は早く休むべきだろう。 掛けるべき上官としての台詞を頭の中で無意識に反芻しながら、リヴァイはその背に歩み寄った。 「おい」 「――リヴァイ兵長! 何かありました?」 屋外に置かれたベンチにすわり、夜空をぼんやり見上げているペトラに声を掛ける。振り返ったペトラはリヴァイの姿を認めると、驚いたように目を丸くして、それからすぐさまパタパタとリヴァイに駆け寄ってきた。 踏み出しかけていたリヴァイの足が行き場を失い、仕方なく、ほんの数歩で立ち止まったまま、ペトラがやってくるのを待つことにする。 「お疲れさまです!……団長との打ち合わせでしたか?」 「そんなところだ」 とん、と敬礼を仕掛けた彼女を目線で止めさせて、リヴァイはペトラの背後を見遣った。 「何してる。もう寝てる時間じゃねえのか」 「そんな子供じゃないですよ」 背後の誰かを伺ったつもりで言ったリヴァイの言葉に、ペトラは僅かにぷうと頬を膨らませた。その反応は子供だろう。表情に変化を見せないまま笑ったリヴァイの視線を追ったペトラが、ええと、と少し言葉を濁した。 「星を、見ていたんです」 「星?」 確かに夜空を見上げていたらしかった先程の様子を思い出して、リヴァイは天に視線を投げる。薄曇りの空に掛かる深蒼の雲が、所々闇を裂くように風に流れて、その隙間から星が僅かに瞬いている。あまり観測に有利な条件の空だとは思えなかった。 「さっきまではもう少し晴れて、たくさん見えていたんですよ?」 「ほう」 リヴァイの心を読んだかのように、慌てて付け加えるペトラは、それから同じように夜空を見上げた。隣で先に星を見飽きたリヴァイはペトラに視線を流す。が、一心に見上げているらしい彼女がそれに気づく様子はない。 「お前、そんなに星好きだったか」 「え? あ、いえ――実はよくわかりません」 「わかんねえのに、こんな時間に一人で見てたのか」 「ええと……あの、何となくぼんやり……?」 やっとで空から視線を戻したペトラが、そう言って首を傾げた。そんな風に語尾を上げられても、リヴァイにわかるわけもない。まさかぼんやりしていたら星が出てくる時間になったとか言わないだろうなと思った感情が眉間の皺を深くして、その様子にペトラがまた少し慌てて手を振った。 「あ、あ、違いますよ!? 空を見たら星があって綺麗だなあってぼんやりしちゃっただけで……兵長そういうことありません!?」 「ねえな」 素気なく言うと、ペトラがしゅんと肩を落とした。 リヴァイにとって空は空だ。果てなく続くその先は、地下から覗けば地上を想起させる象徴で、今は壁の向こうが事実あるのだということを実感させる象徴にすぎない。瞬く星が目に入れば素直に綺麗だと思いこそすれ、魅入って時間を忘れるほど見上げる習慣はリヴァイにはない。 それよりも、とリヴァイは肩を落として、それでもまたおずおずと空を見上げ直したペトラの様子をじっと見つめた。 ぼんやりとこんな時間に夜空を見上げる気になったのは、やはりあれが原因ではないのか。 明日から過去を振り返る時間のないほど日々の訓練に戻るのだ。ゆっくりと記憶を振り返り、悼み、思いを馳せていられるのは、今日をおいて他にない。 「落ち込んでんのか」 「……へ!?」 何を、と言わずそう告げると、ペトラはわかりやすく狼狽した。 普段これだけ明け透けに感情を動かすくせに、あの時はそれを隠し通した。それは壁外という特殊な空間であったからだとも言えるし、動く感情の種類が違ったからだとも言える。兵士としてのペトラは結局正しく動いたということだ。それが何故だか胸に蟠ったのは、ただ自分の方だけだったのかもしれない――その考えが杞憂であったと、ペトラの今の表情で確信し、リヴァイは小さく息を吐いた。 「別に間違ったことは言ってねえし、お前が間違ったことをしたとも思ってない」 やはり何をと言わずぼかした言い方をして、けれどもペトラはおそらく同じ情景を思い浮かべているとわかった。短い沈黙をおいて、言葉を探すように両手を前で何度も組み替え、ほんの僅かに唇を噛んだ。 「……はい。わかっています。あの、落ち込んでたわけじゃないんですけど、――そんな風に見えてましたか」 「いや……。クソ――エルドの奴が」 少なくとも気づかなった自分をではなく、気づかされた原因を言うのが癪に障って、浮かんだ名前を口に乗せる。と、ペトラが目を丸くした。 「――クソエルド!? オルオじゃなくて?! え、え、何したんですか、エルド!」 エルドには悪いことをした。濡れ衣めいた発言のせいで、信じられないというように首を振ったペトラは、今にも代わりに謝罪でもしそうな勢いだ。 片手を振って否定を示す。 「違う。ペトラ、少し黙れ」 「……あ、す、すみません!」 反射だろう、胸に右手を当て掛けた手首をとって下ろさせると、ペトラは一瞬きょとんと目を瞬かせ、それからぼっと頬を染めた。 口中でもごもごと「すみません」と呟く彼女を解放すれば、リヴァイが触れた箇所を上から隠すように左手で触れる仕草をされて、何とはなしにリヴァイは眉根を僅かに寄せた。 「落ち込んでないなら何だ」 話題を戻すと、ペトラは一瞬ぴくりと肩を揺らして、窺うようにリヴァイを見た。だがその視線の意味も、新兵と違い、今更怯えているわけではないと知っている。不機嫌に見えるだろう自覚はあったが、だからリヴァイは何も言わず、無言でペトラに続きを促す。 ペトラは口にし掛けて上手い言葉が出てこない自分に困ったように眉を顰めて、それから何故か少しだけ拗ねたように唇をツンと尖らせた。 「その、兵長は違うって仰ってましたけど、ただ、私はやっぱりそういうのがあると頑張れる気がしてしまって――無駄なことだってわかってるんですよ? わかってるんですけど――」 「違うとは言ってない」 「ええっ!? で、でも兵長くだらないって――」 「他人の物一つで生き死にがどうにかなるまじないに、効果があるとは思えねえっていう話だったろうが」 「違いま――……あ、あれ? そうで……ち、違いますよ!?」 眉根を寄せて言い放つリヴァイに流され掛けたペトラが、記憶を頼りに踏み止まる。コロコロと面白いくらい表情を変えてリヴァイに詰め寄ろうとする彼女を、悪い気にならない自分はペトラを憎からず思っている。ハンジに言われずとも、それくらいの自覚はあった。本人は隠しているつもりらしいが、ここまで明け透けな信頼を向けられて、絆されない方がどうかしている。 けれども、だからと言ってどうというつもりもない。 ただ、そうまで自分にベクトルを向けていた部下が、実は他に心を預けようとしているらしいことが、多少なりとも面白くないというだけだ。 相談というわけでもないのなら、リヴァイから踏み込む領域でもない。 「あの指輪、奴の妻が礼を言っていたそうだ」 「へ? ――あ! よかった……」 取って付けたように本来の目的に話題を変えたリヴァイに、ペトラは疑う様子もなく、ほっと息を吐いた。 「兵長」 「何だ」 「……やっぱり、やっぱりですね。そういう相手がいるのって、枷になるかもしれませんけど、その――私はやる気にもなると思います」 「何か持ってるのか、お前も」 だが、ペトラの方から蒸し返した話題の中に、再び誰かの影を感じて、リヴァイは目を眇めた。 あの時、死地へ旅立った仲間の遺品を太陽の下に掲げたペトラは、その奥にはっきりと別の何かを見ているようにリヴァイには見えた。それを分かりやすく誤魔化されたのが、今でも蟠っている。ありていに言えば面白くない。何故――そう思うのかは、つまりある種の独占欲というやつだ。少なくとも何度も同じ班に選抜し、戦果を上げて、生き残ってきた仲間としての信頼と、成長を見てきた年長者としてのそれでもあると思っている。 その大切な部下が、どこの馬の骨ともわからない輩にまじないを掛けられそうになっているのを、見極めようとして何が悪い。 「え? ――あ、いえ。何もないので、いいなって思っちゃったというか」 まるでペトラを見れば相手がわかるとでも言いたげに剣呑な目つきで見つめるリヴァイに、しかしペトラは虚を突かれたように目を瞬き、それからふるふると首を振った。 視線がすっと下に落ちて、沸いた言葉が溢れるようにぽつりと呟く。 「……そういう交換が出来るって、この仕事にも理解があってこそというか、私も、その、続けたいですし、そういう関係になれるってすごいなって思ってしまって、そういうの、交換してもらえたら私もその人の為にというか、その人が、私を生きる理由にしてくれたらすごく嬉しいなって、思って、だから――その――……」 「……」 「す、すみません!」 確定した相手はいないらしいが、どうにも憧れだけで言っているとは思えない言い回しに、リヴァイの眉間が深くなる。片恋いの相手を思い浮かべてでもいるのかと考えて、リヴァイの口から舌打ちが出た。途端に我に返ったペトラがハッとして顔を上げ、リヴァイと目が合うと見る間に顔が赤くなった。 「ペトラ――」 「すみません! 忘れてください! い、今のは、その、別に兵長の事を言ってるわけじゃなくてですね、その――」 「――俺の話か」 「ち――っ、違、え、ええと、違わ、違……っ、た、単なる物々交換いいなあという……、す、すすすすみません!」 茹だってしまうのではないかと思うほど赤面したペトラが、おかしな動きでリヴァイからじりじりと後退る。おそらく自分でも何を口走っているのかわかっていないに違いない。 まるで愛の告白めいた言い回しになっていることを悪戯に指摘してやれば、ペトラはがばっと深く深く頭を下げた。 本当に生き生きとよく動く表情と感情だ。それが少し羨ましい。 そして少し眩しくて、けれどもう少し、ペトラの感情を、動く変化を自分の傍に置きたいと思った。 これはリヴァイの私的な部分の独占欲だ。 「謝るな。何かしたのか」 「え、あ、いえ」 自覚はしている。 けれど、気づくものだと言ったハンジの言葉どおり、ペトラの微細な変化に意識を向けきってやれない自分では、ペトラの柔らかな部分を守ることは出来やしない。だから、せめて、近くに置ける今だけだ。 自分へ向ける敬愛を踏みにじらない程度の距離を詰めて、リヴァイはペトラを見下ろした。 「何でもいいのか」 「へ?」 その言葉に、真っ赤な顔のままペトラが間の抜けた声を出す。 「誰のものでも」 「――え」 一歩距離を詰めたリヴァイの影に、不思議そうに顔を上げたペトラがリヴァイを見る。大きな榛色の瞳の中に、不機嫌そうな男の顔が映りこんでいる。リヴァイはするりと自分の首元に手をやった。 わけもわからず見続けているペトラの前で、クラバットをするりと引き抜く。 「持っていろ」 「え――」 押しつけるように差し出すと、ペトラは反射的に受け取った。けれど半ば呆然とした顔のまま、手の中のそれとリヴァイを何度も交互に見遣っている。 目当ての男の物ではないだろうが、生を願うのが主眼なら、自分でも十分適うはずだ。 「これくらいしかねえ。他が良ければハンジあたりなら何か持ってんじゃねえのか」 「あの、へ、兵長……」 「いらんなら返せ」 「い――いりますっ! 欲しいです! これが……これ、良いんですか……?」 何故だか泣きそうに見える彼女に眉を寄せて手を出したリヴァイから、ペトラが慌てたようにクラバットを抱き寄せた。それからまだ不安げに揺らした瞳で、おずおずとリヴァイを見つめてくる。 「持ってろって言っただろうが。二度言わせんな」 「すみませ……」 本当に泣いてしまいそうに瞳を揺らして、しかしペトラの唇が可笑しな形につり上がってヒクつき始めた。真面目に引き結ぼうと努力しては、失敗しているとわかるその顔は、おそらく―― 「……おい、何笑ってやがる」 吹き出すというのとも違う。だが確かにニヤリと緩みそうな表情筋に、リヴァイは眉を上げた。柄でもないことを、とでも言うつもりか。クソが。そんなことは分かっている。 怪訝な視線で問われたペトラが、慌てて片手で口元を覆う。 隠しきれない頬の赤さに続きを待つと、手の下からもごもごとペトラが理由を言った。 「う、嬉しくて……」 「……」 その感情の意味は問わない。憧憬、敬愛、若者故の刹那の恋情。 リヴァイは静かに息を吐いた。ペトラが胸に抱き締める、もうペトラの物になったクラバットの先に触れる。 「すみませ――」 「ペトラ」 「ははははいっ!」 返せと言うとでも思ったのか。今度こそくしゃりと泣き出しそうに顔を歪めたペトラに、クラバットの上からとん、と指を置いて、リヴァイは眉を上げた。 「俺には予備が他に何枚もある。なくなりゃ新しく買えばいい」 「……はい?」 取り返すつもりなどさらさらない。 やって困るものなら端から差し出すつもりもない。 だからこれはもう全て完全にペトラのものだ。ペトラだけの物になった。 わけがわからないだろうペトラが首を傾げるのに舌打ちして、リヴァイは剣呑に顰めた眉間を近づける。ほとんど柄の悪いゴロツキが市井の女性に迫っているような図式だと思う。が、逃げないペトラはリヴァイの部下だ。 「そんなもん遺されても、俺はやる気になんねえからな」 リヴァイの言葉に息を飲んだペトラは、その意図を解したらしい。 きゅっと唇を噛んだ表情に満足して――しかし満足が顔に出ないいつもの無表情で息を吐いて――リヴァイはペトラを突いていた指を離した。 「お前が前へ進む方にだけ使え。どう使うかは知らねえが」 「はいっ!――いえあの、普通に持ってるだけですけど。でも嬉しいです。すごく……。ありがとうございます」 たかだか使用済みのクラバットを、何か崇高な神具のように胸に抱いたペトラの言葉が、震えている。目を瞑り、ともすればまた頭を下げそうな態度に、思わず伸ばし掛けた手を止めて、リヴァイはちっと舌を鳴らす。もうそれくらいでは動じなくなった目の前の部下をちらりと見遣って、リヴァイは「おい」とペトラを呼んだ。 「それとお前のも何かよこせ」 「は――て、え?」 満面の笑みで顔を上げたペトラが、そのままの顔できょとんと大きな目を瞬いた。 「何でもいい――……何だ」 固まってしまったかと思うような見つめられ方に気づいて言えば、ペトラが恐る恐るといった風に口を開く。 「あの、兵長が、――兵長も、持っててくれるんですか? その――どうして……」 「……そういうまじないがしたかったんじゃないのか」 「へ?」 羨ましいとペトラが言ったのだ。そういう相手と交換できれば、より頑張れる気がすると。――そういう相手、がどこの誰かは知らないが、送り合う特定の誰かがいないなら、それでも願い合う相手になら自分でいい。 彼女の未来を願う自分がここにいる。 「互いの無事をなんとか言ってなかったか」 「あ――はい、言いました!」 「忘れてんじゃねえよ」 忘れていたわけではないだろう。だが不機嫌な口調でそう言ったリヴァイに、思考が結び付かなかったペトラが、すみませんと言いながら慌ててドン、と胸の前に拳を当てる。 「でもその、兵長は私のでいいんですか?」 それでもやはりまだ微妙な表情でそう聞いてくるペトラに、リヴァイは「ああ」と頷いた。 「――いくら無事祈願と言っても、根拠のないまじないにあいつら全員と物々交換するつもりはないからな。ペトラ、お前が代表で何かよこせ――どうかしたか」 「あ、そういう意味ですか……」 「何だ」 「いえっ、光栄です!」 何やら肩を落としたように見えたペトラが、またぞろ顔を上げて、同時に体を隊服の上から慌てたようにまさぐり始めた。 ペタペタと自分の体を触れる度、青褪めていくのが手に取るように分かって、リヴァイは内心で息を吐いた。 どうせくだらないことを考えているに違いない。 指輪もピアスもつけていない。髪をまとめるほど長くもないので、シュシュやバレッタの類いもない。 オルオなら、リヴァイを模して付け始めたに違いないネックチーフを差し出せるし、うっかり噛みきった舌でも、やろうと思えば選択肢の一つになるのに。どうして自分に浮かばない。 おそらくそんなところだろう。 何でもいいと言ったリヴァイを困惑しきりの瞳で見つめて、ペトラはぶつぶつと呟き始めた。 「ええとええと……何か、軽くて邪魔にならなくて、私がいつも身に付けてるもので……」 そんなに悩ませるつもりではなかった。 何でもいいのだ、本当に。それを頼りに祈るつもりなわけじゃない。 ただペトラが――ペトラが望んだことだからと。 「別にないならないでかまわ――」 「舌……は、オルオだし、指じゃ困るし……他に、何か――」 「オイ――」 「――髪! 切りましょうか!」 「いらねえ」 切羽詰まったペトラの提案は勿論すげなく却下する。あまりに予想に違わない言葉に剣呑な視線をやると、さすがに残念すぎる提案だと気づいたのだろう。ガクリと肩を落としながら、ペトラが「ですよね」と泣き笑いで誤魔化した。 勢い込んで二つにむすんでいた手をぼとりと落としたペトラは、完全に詰んだと顔に書いてある。 リヴァイは呆れたようにペトラの短い髪先に触れた。 「それはお前についてこそだろうが」 「ふぉっ?!」 そのままゆっくりと頭を撫でて、指先でペトラの髪を摘まんでは流すを繰り返す。 固まるペトラの首筋に視線をやって、リヴァイはふと目に留まったそれに気づいた。 「……っ」 「おい、取れかけてるぞ」 「へ――」 そのまま肩に下ろした手で、ペトラの身体を軽く押さえる。 「これでいい」 何をとペトラが問うより先に、リヴァイは顔を近づけた。 硬直の解けないペトラの首筋に、リヴァイの黒髪がひたりと触れる。次いで鼻先、そして―― 「――へ、へいちょ……っ」 震えるペトラの声に乗って、リヴァイは犬歯を剥き出した。 プチッと小さな音を鳴らす。 「……ぷ、ぷち?」 「貰うぞ」 呆然と言ったペトラから手を離し、リヴァイは口元にくわえたボタンを見せた。ぱちくりと目を瞬いて、それから不思議そうに小首を傾げたペトラの手が、首元に上がる。そこに、ついているはずの第一ボタンの感触がなかった。 「軽くて邪魔にならなくて身に付けてたもんだろ?」 「……っ、そうですけど」 しゅっと赤く染まった首筋が自分のせいだと思えば、ふつふつと沸き上がってくる妙な嗜虐心に揺れそうになって、リヴァイはす、と視線を逸らした。手のひらに納めた小さなボタンが、軽く、しかし確かな存在感を主張してくる。これはもう、リヴァイのものだ。 「祈りや願いが無意味だと思うわけじゃねえよ」 ボタンを指の先で遊ばせながらリヴァイは言った。 「届くなら、俺は毎晩一万回でもこれに願う」 そんなことで失われる命が救えるのなら、リヴァイだけでなく、この世の誰もがそうするだろう。けれど現実は夢物語を許さない。選択はいつだって突然に、そして理不尽に運命を突きつけるのだ。 それを嫌というほど知っている。 このちっぽけなボタンとクラバットが、自分とペトラに壁外で効果をもたらすはずもない。けれど、そうと知っているはずのペトラが縋りたいという気持ちを否定したいわけでもなかった。 その祈りが、願いが、何かの奮起に繋がるなら、何千枚でもリヴァイはペトラにそれを贈る。 指の先でボタンを上に弾き、もう一度手中に納めるリヴァイの言葉を、黙って聞いていたペトラが小さく口を開いた。 「私は――私は正直祈りや願いが届くなんて思っていません。届かなかった現実が多すぎて、綺麗事だってわかってます」 「……」 思いがけない台詞に、リヴァイの返事が少し遅れる。 「でも兵長を見てると祈りたくなるし、希望を願いたくなるんです」 「……俺は神様でも何でもねえぞ」 「わかってます。そういうんじゃなくてーー」 随分崇高な立場に置かれたものだと眉間を寄せたリヴァイを否定して、ペトラは言葉を選ぶように、地面と空に何度か視線を往復させた。 「……壁の中に追いやられた人類の、きっとずっと持ち続けていた細い微かな希望を、しっかりと掴んで離さない強い意志と揺るがない想いを、抱いてもいいんだと。夢物語にならない未来があるということを、教わりました」 「……」 「私は、兵長の背中に憧れて、でも、兵士として追いつきたくて、それから、ちゃんと――」 澄んだ夜の空気が、榛色のペトラの瞳をやわりと美しく包んでいく。 自分にはない暖かな色彩を宿すペトラの目が、全てを包む柔らかな色の中に、夜の碧と星の瞬きと、そしてリヴァイを、ひたと映した視線が、リヴァイ自身に真っ直ぐに向けられる。 「あなたの近くで、あなたの支えになりたいと思います」 それは決意で願望で、どんな告白よりも真摯にリヴァイの胸を穿った。 手のひらに遊ばせたボタンから急激にペトラの熱が伝って、リヴァイはぎゅっと握り込む。 「……そうか」 他に何を言えばいい。 沸き上がる感情は、部下への想いと断定するには熱がこもりすぎている。だが、今この場の告白に対する答えとして、それでは足りない。 その先も前も、ペトラの全てに応えられる自分であろうとするだろう。確信めいた感情の行く末がリヴァイの目尻に乗って、自然細めた視線が鋭さを増す。 受けたペトラがおもむろに咽喉を鳴らして、恥入るように頬をしゅっと染め上げた。 「す、すみません! 偉そうなことをーー」 「ならいろ」 「え?」 交換した互いの想いが糧になるというのなら。 自分に希望を見出し、近くにいたいと望むなら。 「生きろ」 触れはせず、だが視線だけで伝わるように。 熱を込めたリヴァイの言葉に、ペトラが大きな目を、更に大きく見開いていく。 「お前の補佐はやりやすい。十分支えになっている」 だからいつまでも傍にいて、その目に俺を映して生きろ。 祈ることでも、願うことでも、何を変えられないとも知っている。 それでも想うことが許されるなら―― 「ありがとうございます……っ」 ぎゅっと指先が白くなるほど抱き寄せたクラバットを抱くペトラの声音が震えている。逸らされることのないペトラの視線に視線で返して、リヴァイも自身の手のひらに眠る小さな存在を、まるで祈りでも捧げるように、ぐっと強く握り込んだ。 【→3】 |