無自覚テンプテーション(03)




 ケイオスの制服から私服に着替えて、一階職員エントランスに続くエレベーターへと向かっていたカナメは、到着待ちに特徴的な髪のシルエットを見つけて思わず足を止めそうになった。ヒールでないのが幸いだ。カツカツと響く音も聞こえないだろうから、今のうちに廊下を曲がろう。そう思い、幾分気配を殺してやり過ごそうとした瞬間。

「――カナメさん」

 突然振り向いたメッサーにはっきりと名前を呼ばれて、カナメは曲がりかけていた軌道を修正する羽目になった。彼のところまではまだ多少距離がある。ライダースジャケットにいつものナップザックを肩に掛けた姿を見れば、どう考えてもこれから帰寮するつもりだろう。

(先に行ってくれないかな)

 ついそんなことを思ってしまったカナメが故意に歩調を緩めれば、メッサーの後ろでその意を汲んでくれたかのようにエレベーターが到着した。どうぞ、と手振りで示す。けれどメッサーは何を思ったのか、エレベーターに向き直ると先に行くよう促してしまったようだった。伝言をお願いしたかったんじゃないのに。ライブの時は、アドリブにも最高のパフォーマンスで応えてくれる彼は、どうして戦闘機を降りるとカナメに冷たくなってしまうのだろう。何度考えても答えは出ない。
 乗っていたケイオスの職員から距離のあるカナメにも「お先です」などと声が掛けられ、慌てて頭を下げ返す。そうしてエレベーターのドアが静かに閉まり下降を始める頃には、カナメはメッサーのすぐ前まで到着してしまった。

「……お疲れ様、メッサー君。今日はもう上がり?」
「はい。お疲れ様です」
「先に行って良かったのに」
「あなたが見えたので。迷惑でしたか?」
「そんなことは……」

 ある。察してほしい。というか見えたから何だというのだ。
 言葉を濁したカナメをどう思ったのか、メッサーは何も言わずにエレベーターの呼び出しボタンをタップして、さっさと扉に向き直ってしまった。仕方なしに、カナメもその横に並ぶ。

「……」
「……」

 待っていてくれたというのなら、挨拶以降の会話の一つもくれたらいいのに。理不尽な文句だとわかってはいるが、居心地の悪さについそんなことを思ってしまう。エレベーターの到着まで短くはない時間が無言のまま過ぎていくのがなんとはなしに耐えられなくて、カナメはそっとメッサーの顔を盗み見た。
 精悍な顔つきはいつもどおりで、カナメが居ようが居まいが何も気にしていないように見える。何か用があったわけでもないらしい彼が、どうしてエレベーターを一つ乗り過ごしてまでカナメを待っていてくれたのかわからない。
 仕事終わりが一緒になったからといって、食事に行ってくれるわけではまさかないと思う。

「新人君とうまくいってる?」
「……ハヤテ・インメルマンですか?」

 とりあえず当たり障りない会話くらいならいいだろうか。
 そう思い、最近アラドが直々にスカウトしたという少年を話題に出せば、メッサーの顔がほんの僅かに顰められた。珍しい。カナメが例の少年に会った回数はまだ数えるほどだが、歯に衣着せぬ言動が目立っていたから、きっといろいろ大変なのだろう。
 カナメは思わずくすりと笑ってしまった。

「大変なんだ?」
「それなりに」
「そっか」
「はい」
「……」

 それがいけなかったのだろうか。
 会話のついでとばかりにこちらを見下ろしていたメッサーが、カナメからエレベーターへと視線を戻してしまった。笑ったのはバカにするつもりではなかったけれども、不快に思わせてしまったのなら申し訳ない。でも言ってくれなければわからない。
 ツキン、と鈍い痛みを感じた胸を誤魔化すように、カナメも前を向いた。エレベーターの音が近づいてくる。

「……ハヤテ君、調整は上手くいってるってチャック少尉が言ってたんだけど、腕はメッサー中尉もお墨付きなのかしら」
「悪くはないと思います」
「メッサー君がそう言うなら、きっとすごいってことよね。アラド隊長の目にも狂いはなかったってことかな」
「そうですね」
「そっか」
「はい」
「………」

 そうしてまた沈黙が落ちる。カナメは何だかここから走り去りたくなってきた。
 やはりメッサーにはカナメとの会話を続けるつもりなどないのだ。ならどうして待ったりなんかしたんだろう。さっさとさっきのエレベーターに乗ってくれれば良かったのに。いっそカナメの方が用事を思い出したと言い訳を作って時間をずらそうか。そうだ。そうしよう。カナメは意を決して顔を上げた。「そうだ」の「そ」の形に唇を動かした時、これまでずっと無言だったメッサーが「あの」と呟くように言った。

「今朝の件ですが」
「――今朝?」
「裸喰娘々での話をされていたときのことです」

 まさかその話題を持ち出されるとは思っていなかったカナメは、思わずメッサーを仰ぎ見た。エレベーターの到着を待っているとばかり思っていたのに目が合って、それにも驚く。
 カナメは慌てて顔の前でぶんぶんと勢いよく両手を振った。

「そ――それはもういいのっ! というか、本当に何も覚えてなくてごめんなさい!」
「いえ、それはむしろ良かったですが――ではなくて」

 言葉の途中でエレベーターの到着を告げる電子音がした。途切れた会話の中に、シュン、と空気を切る軽やかな音が聞こえドアが開く。中は無人だった。緊張と安堵を同時に感じる。
 先に一歩を踏み出したメッサーが静かにドアを押さえてくれる。今更これには乗らないとも言えずに、カナメは小さくありがとうと礼を言ってエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる。と、すぐにメッサーが言葉を続けた。

「そのことに関して、といいますか、付随する全ての俺の態度が悪いとアラド隊長から指導を受けました」
「……アラド隊長から? な、何を?」

 また思いも寄らない人物の名前が飛び出しては、嫌な予感しかしない。メッサーに嫌われているのではないかと悩み相談めいたことをしていた自覚はあるし、今朝もそれとなく言っておくようなことをアラドは確かに言っていた。そこからの今でメッサーがこんなことを言い出すなんて、どれだけのことを言ったのか。
 想像もしたくない気分だが、恐る恐る上目遣いで見上げたカナメを、メッサーはひどく微妙な顔で迎えてくれた。ぐっと眉を寄せようとして、辛うじて踏みとどまっているような――あまり好意的な表情にみえないことは確かだ。

 やはり自分は嫌われている。これはもう間違いない。
 カナメの疑問が確信に変わる。

 早く到着してと願いながら、カナメは一歩後ろに下がった。背中を壁につけもたれながらそっと目を閉じる。もう何も聞きたくない。メッサーもそうだろうと思ったから、会話は不要だという意思表示のつもりだった。
 けれど、メッサーは後ろに下がったカナメを追うように身体の向きを変えた。

「俺の態度で不快な思いをさせてしまっていたなら申し訳ありません」

 その言葉にカナメはぐっと唇を噛みそうになって何とか堪えた。
 アラドは、本当に彼に何を言ったのだろう。ゆっくりと目蓋をあけたカナメのすぐ前で、メッサーは生真面目な表情の中に戸惑いを浮かべた瞳で見下ろしているではないか。そんな顔になるくらい不本意な謝罪を無理強いするなんて、部下との関係が悪くなってしまうだけだ。メッサーに嫌われるのは自分だけで十分なのに。
 チリチリと胸の奥にくすぶる痛みを感じて、カナメはそっと下を向いた。

「カナメさん? 大丈夫ですか?」

 その態度に、メッサーが心配そうな声になる。大丈夫なわけがあるか。嫌いだけれど態度に出してすみません、などと面と向かって言われたら、誰だって不快だ。仕方がないとわかっていても傷つく。正直かなり泣きそうだ。
 そのくせ本気でカナメを気遣うような口調に聞こえるのだから、メッサーの誠実さは性質が悪い。カナメは目蓋を閉じたままで声を低めた。

「不快って何が? メッサー君、私に何か悪いことした?」
「ですから、その……」

 メッサーのたじろぐ気配がする。口ごもるくらいなら最初から言わなければいいのにと思う。心配しなくとも、もう二度と誘わない。39回目は絶対にこないから安心してほしい。

「私が食事に誘っていたことなら、それはメッサー君が謝ることじゃないわ。アラド隊長が何を言ったのかわからないけど、行きたくないのに無理する必要なんてないもの」

 メッサーは悪くない。だから謝る必要もない。しつこく誘った自分が悪い。
 そう言いたかっただけなのに、必要以上に棘のある口調になってしまった。ハッとして口を押さえるが、言ってしまった言葉は元に戻せない。

(あーもう……)

 なんてことだ。自分で自分に追い打ちをかけた。嫌われる要因を増やすなんて馬鹿でしかない。
 情けなさにますます泣きたくなって、カナメは俯いたままの前髪をぐしゃりと乱した。

「カナメさん?」

 嫌味な言い方をしてしまったというのに、相変わらずメッサーの呼び声は優しくカナメを気遣っていて、更に鼻の奥まで痛くなってくる。
 ゴウンゴウンと下に向かうエレベーターの音に紛らせて小さく鼻を啜り、カナメは息をついた。それから前髪の乱れを整えるようなふりをして顔を上げる。
 面と向かってわざわざ言いたくもなかっただろう本音をメッサーがくれたのだ。今後のデルタ小隊の仲間としての活動の為にも、カナメも真摯に向き合わなければ。
 心配そうな顔で自分を見つめるメッサーに、カナメは微笑んでみせた。

「……いつも声をかけてごめんなさい。迷惑だったよね。もうしないから安心してね?」
「いえ、迷惑だなんて――」
「無理しなくていいよ、メッサー君。大丈夫」

 ふふ、と笑えばメッサーの眉が寄った。
 何が彼にまたそんな顔をさせたのだろうと考えて、カナメはふと気づいてしまった。もしかすると生理的に受け付けないというやつだろうか。だとしたらもうどうしようもない。そう考えれば合点がいくことがいくつもあった。
 目をすぐに逸らすのも、直視に耐えられなかったからだ。
 それならこんな狭い空間に二人きりになるのだって苦痛なことだろうに。生理的嫌悪感は本能だ。ラグナ名物のウミグモはとても美味しいけれど、見た目がどうしても無理な人に無理強いは出来ないし、味の良さが見た目で減点されることだってあるはずで――メッサーにとって、カナメはおそらくそういう対象だということだ。
 それなのにこうして話をしようとしてくれるメッサーは、なんていい人なんだろう。苦手なウミグモを目を瞑って一生懸命咀嚼しようとしてくれている。

「……メッサー君は優しいから。困ってるのかもって思ってたのに私がしつこくしちゃって、だから言い出しにくかったんだよね」
「え?」
「ごめんなさい。本当に困らせたかったわけじゃないの」

 申し訳なさでいっぱいになりながら、カナメはぺこりと頭を下げた。優しいメッサーが言葉を選ぼうとしてくれている気配を察して、苦笑が漏れてしまいそうになる。そういうところも不快かもしれないが、そこは大人として見逃してほしい。
 なるべく顔を見せないようにエレベーターの床を見つめながら、カナメは続ける。

「本当に一度一緒にご飯食べたいなって思って、他意はなかったんだけど。もう少しメッサー君と仲良くなりたかったっていうか……仲良くって子供じゃないのにね。ごめんなさい」
「違」
「メッサー君はちゃんと任務をこなしてくれていたのに、私が勝手に距離を詰めようとしちゃってた。反省してる」
「カナメさ」
「メッサー君」

 断られ続けた理由は理解した。反省した。だけどこれだけは譲りたくないという一点を伝えるために、カナメは意を決して顔を上げた。ずいぶん久し振りに合った気のするメッサーの瞳は、彼がいつも楽しそうに飛んでいる空と同じ綺麗で深いブルーだ。
 吸い込まれそうだなんて一瞬でも思ったことを知られたら、きっともっと嫌われそうだから秘密にして、カナメはメッサーを真っ直ぐに見つめた。

「だから、――もう誘ったりなんてしないから、私のこと嫌いでもいいから、ワクチンライブの時はやっぱりこのまま私のパートナーでいてくれないかな。お願いし」
「嫌いじゃありません!」
「――へ?」

 誠心誠意を込めて言い募っていたカナメは、メッサーの声に驚いて、それから間の抜けた声が出た。彼が怒鳴るのを初めて聞いたかもしれない。驚くカナメの前で、メッサーは自分の口元を押さえ、戸惑いを隠さず視線を何度か彷徨わせている。

「違う。……違います。俺はあなたを嫌いなわけではく――」
「……そんなに無理しなくても、私は大丈夫だから」
「本当に違います! そう、思わせる態度をしていたとアラド隊長にも指摘されて、そんなつもりは、その、本当に――」
「メッサー君?」

 押さえた手の下でもごもごと口を動かしているメッサーの声は聞き取りにくい。続きを待っていると、エレベーターの足下が重力を思い出したかのように重くなり、次いで軽い衝撃と共にシュン、とドアの開く音がした。外に待ち人はいないようなのでしばらく待つも、メッサーからの言葉はない。

「……出よっか?」
「……」

 開閉ボタンをずっと押しているわけにもいかずそう言うと、メッサーは無言のまま黙ってカナメの横に並んだ。また二人の間に沈黙が落ちる。
 職員用のエントランスを過ぎると、警備員が二人の姿に敬礼をくれた。それにぺこりとおじぎで返したカナメの横で、メッサーはきっちりとした返礼をした。
 手にしていた帽子を少し深めに被って、もうすっかり日の暮れた外へ出る。長くはないがやけに気詰まりのする帰路で、やがてメッサーがぼそりと口を開いた。

「食事を気にかけていただけているのは嬉しいです。本当に。ただ、実際フライトログの整理を先にしておきたかったり、支部で待機をしている方が性に合っていたり――この辺りは少し複雑なので省きますが」
「……うん?」

 よくはわからないが、仕事を優先したいということでいいだろう。慎重に言葉を選んで話しているらしいメッサーは、そこでふと口を噤んだ。立ち止まるのかと思ったが、一瞬歩調が少し緩んだだけで、またすぐに歩き出す。

「あとは、たとえば、……アラド隊長がいらっしゃるなら、むしろ俺はいない方が良いのではというのが正直なところでもありますし」
「どうして?」

 意味がよくわからない。言いにくそうなメッサーに、カナメはきょとんと目を瞬いた。アラドがいたらメッサーにとって何か不都合があるのだろうか。むしろいきなり自分と二人になるよりも、気心の知れたアラドが一緒にいた方が来てくれる可能性が上がると思っていたくらいなのに。
 けれど今度こそ足を止めたメッサーは、まじまじとカナメを見下ろしてきた。疑念と困惑を浮かべたような瞳の中に、不思議そうな顔をした自分が映っているのが月明かりと街灯のおかげでよくわかった。

「……失礼を承知で聞きますが、カナメさんは――……その、隊長をお好きなのでは?」
「好きよ? でもそれと今のって関係あった?」
「……」

 食事に誘われるのが嫌だという話をしていたのではなかったのか。
 益々意味がわからなくて、カナメは首を捻った。
 プライベートで上司や同僚と繋がりを持ちたくないというタイプはたまにいる。それでいうならレイナはその典型だった。マキナによって徐々に心を開いていくまでは本当に頑なで、どうすればいいだろうかとチームリーダーとして苦心したものだ。美雲は繋がりを嫌っているわけではなさそうなので別として――メッサーは。彼も殊更嫌がっているだけのタイプには見えないのだが。

(なんでアラド隊長?)

 そもそもカナメと一緒のテーブルにつくことがないだけで、裸喰娘々でチャックの弟たちと食事をしている姿は何度か見たことがあるし、アラドとだってついこの間も二人で食事をしたはずだ。
 どうしてメッサーはそんなことを聞くのだろう。
 さすがのカナメも仕事を抜きにして、わざわざ嫌いな人物を食事に誘ったりはしない。アラドはいい意味で人生の先輩で同士で飲み仲間で――彼はメッサーにとっては直属の上司になるわけだが、その辺りはカナメと似たようなものではないのだろうか。

「メッサー君もアラド隊長のこと好き、……じゃないの? あ、あれ? もしかして私変な事聞いちゃった? だ、だだだ大丈夫よ! 隊長には言わない! 内緒にしておくから!」
「違います。誤解です、カナメさん。自分も隊長のことは好――いえ、尊敬していますが」

 思いついてしまった可能性に慌ててグッと両手に拳を作ったカナメの手を、メッサーはすっと右手を前に出して止めさせた。その言葉にホッとして、カナメは胸を撫で下ろす。
 違ったのなら何よりだ。
 カナメは安堵に瞳を細めた。緩めた拳を自分を見つめているメッサーの手のひらに当てて小さく微笑む。

「良かった。デルタ小隊の暗部を覗いちゃったのかと思っちゃった」
「……」
「メッサー君?」

 ふふっと肩を揺らしたカナメは、黙ったままのメッサーに気がついた。
 じっと自分を見下ろしたままの彼を覗き込む。

「――! す、すみません」

 その瞬間、メッサーは弾かれたようにカナメから離れた。
 カナメの拳が当ったていた手のひらを自分の胸板に押し付けるようにして、思い切り顔まで背けられる。
 ああ、まただ。
 また調子に乗って、自分は距離を計り間違えた。
 メッサーは優しいのだということを、うっかりすぐに忘れてしまう。
 優しいから、どんなに苦手な相手でも真正面からきちんと対峙しようとしてくれるし、話をしようとしてくれる。嫌いではないと言ってくれたのは、きっとカナメへの気遣いなのに。
 カナメは離された拳を自分の胸元へ引き戻すと、にっこりと笑顔を向けた。

(やっぱり顔のせい? それとも笑い方? ……そうだとしたら、もう本当にどうしようもないなあ)

 鳴かず飛ばずのアイドル時代でも、それなりにアンチファンというのはいたし、理由もなく毛嫌いされたことがないとは言わない。そこそこ傷ついたし、悔しかったし、腹立たしいと思うことだってたくさんあった。けれどメッサーにそうされると、なんだろう。今までとは違う想いが込み上げてくる。どういうわけか胸の奥がズキズキと痛い。
 女子寮に帰ったら熱いシャワーを思い切り頭から浴びて、ソファに座ってお酒を飲もう。一人だけど、今夜はボトルをあけてもいい。キュルルは抱き枕代わりに大人しくしていてくれるだろうか。柔らかい温もりに触れていたいから、出来れば大人しくしていてほしい。

「じゃあ、メッサー君。私こっちだから」

 笑顔のままで踵を返したカナメに一拍遅れて、メッサーが慌てたようにカナメを呼んだ。

「送ります!」
「大丈夫。一人で帰れるから」

 声と顔だけはきちんと笑ったまま、カナメは後ろを振り返らなかった。
 寮までそれほどの距離もないし、今夜は月明かりも大分眩しい。むしろここから裸喰娘々までの方が距離があるのだ。女子寮まで会話も続かないような同僚の為に足を運ばせ、遠回りをさせたくはない。
 歩調を緩めないカナメに、けれどメッサーは大股で隣に並んだ。なんなんだと更にカナメの足が早まる。 

「送らせてください」
「いいよ」

 アラドに何を言われたのか知らないが、ここまでしてくれなんて頼んでいない。

「危険です。もう遅い時間ですし」
「いつもとそんなに変わらないから」
「いつもは他にいるじゃないですか。アラド隊長とか」
「そうだったかな」

 それがどうした。ミラージュと一緒に帰ることだってある。でも一人の方が圧倒的に多い。
 まるで今までも気に掛けてくれていたみたいな言い方をしないでほしい。優しくしないで。

「カナメさん」
「おやすみなさい、メッサー君」
「送ります」
「平気」
「ですが」
「いいから!」

 思わず大きな声が出てしまった。
 遠くに聞こえる潮騒の合間を縫うように響いた自分の声に驚いて、カナメは足を止めた。口を押える。

「……カナメさん?」

 メッサーも驚いたのだろう。普段の彼からは想像も出来ないような小さな声で、恐る恐る名前を呼ばれた。
 やってしまったとカナメは思った。
 昨日からもうずっと、カナメはやってしまってばかりだ。早く軌道修正しないといけない。チーム活動はバランスが大切なのだから、せっかくまとまっている一角を自分の自制が足りずに崩すなんてあり得ない。
 落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせるように口中で静かに呟いて、手の下でゆっくりと口角を持ち上げる練習をする。小さく呼吸を落ち着けて、カナメはくるりと振り向いた。

「――本当に、大丈夫だから。無理しないで。ね? 私が勝手にメッサー君と一緒にご飯でも食べられたらなって思ってただけで……迷惑がられてるって本気で思ってなくて、考えが浅かっただけ。メッサー君は何も悪くなんかない。苦手とか嫌とか人それぞれだもの。隊長に何を言われたのかはわからないけど、そんなことメッサー君は全然気にしなくていいんだからね。もうっ」

 腰に手を当て、わざと頬を膨らませてメッサーを見上げ、カナメははっきりと後悔した。
 一瞬きちんと合った瞳を、メッサーは困惑気味に逸らしたのだ。話し方――それとも仕草か。何が、彼にそんな不快感を与えるのかわからない。もう、本当にわからない。

 カナメはメッサーを嫌いではない。顔も声も口調も、ちょっと素っ気なく感じる態度も全部含めてメッサーが好きだし、出来ればもう少しくらい仲良くなりたいと思っていた。それでも相手がここまで自分を嫌っているなら、この距離はきっと永遠に縮まることはないだろう。何も言わずこのままもう一度踵を返して、明日からまたデルタ小隊とワルキューレとして、きちんと大人な距離を取ればいい。メッサーも、それで今までと同じように接してくれる。

「……ただ、出来れば、ひとつだけ、教えて?」

 そう思うのに、カナメの唇が小さく震えるようにそう言ってしまった。
 湿った潮風が夜の闇にまぎれて頬を優しく叩いたせいかもしれない。同じように揺らされた髪を片手で抑えて、ついでに少し下を向く。
 メッサーが自分の顔を見なくてすむように配慮したつもりだったが、アスファルトの地面をじっと見つめていたら、何だかじわりと視界が滲んできた。ともすれば声も震えそうになるが、潮騒が誤魔化してくれることを願うしかない。

「目も合わせていたくないくらいメッサー君に嫌われるようなこと、したかな。ずっと考えてるんだけど、どうしても、思いつかなくて。見た目かな。それなら……ええと、不快な思いをさせていたらごめんなさい。違うなら、出来れば直す努力はしたいから、もしよかったら教えてほしいなー……なんて」
「ありません!」

 女々しいほど縋っているな、と、どこか冷静に思っていたカナメは、鋭く言葉を遮られて驚いた。  
 思わず顔を上げると、溜まっていた涙が頬を一筋伝った。滲んでいた視界が瞬きと共にクリアになる。気づいたカナメが慌てて目を擦る前に、メッサーの指が頬に触れた。軽く曲げた人差し指の背が眦を優しく横に撫で、親指の腹が流れた涙の跡を拭い取ってくれる。

「……違います。本当に嫌っているわけじゃない。俺は――……」
「メッサー、くん?」

 そこまで言って、メッサーは言葉を飲み込むように一度大きく息を吐いた。頬を拭った指先を握り拳に隠して、真っ直ぐにカナメを正面から見つめ直す。

「カナメさんに直す場所なんてない。顔も身体も声も歌も性格も、どこも全部完璧です」
「え? あ、え、ええと、あ、ありがとう……?」
「……目を、逸らしたのは、その、だから――」

 メッサーの切れ長の瞳が惑うように細められた。カナメから視線を外して、もう一度戻り、彷徨うように辺りを逡巡させてまた戻る。
 そうして、随分と小さな声でメッサーは言った。

「あなたが眩しくて」
「眩しい……?」

 小さいけれど聞き間違いではないはずだ。
 メッサーは苦悩するかのように眉を顰めて「はい」と頷く。

「以前から少し、その傾向があるとは思っていたんです。それが、昨日裸喰娘々で酔ったあなたと話をしている時から、その傾向がより顕著になってきた気がして」
「眩しさが増した、ってこと?」
「……はい」

 眉間を揉み込み、それから再びカナメを見つめたメッサーは、本当に何か眩しいものを見たときのように目を細めた。けれども今度はカナメから視線は逸らさない。

「パイロットにとって目の疾患は致命的です。ですが医学的にも原因の特定は出来ないと言われ、疲れ目ではないかと。ただ、やはり、あなたが――あなただけがすごく、眩しくて、つい」

 目を逸らすことが多くなってしまったのだと本当に申し訳なさそうな顔をされて、カナメはふるふると首を横に振った。そんな事情があっただなんて知らなかった。

「じゃあ今朝のも?」
「昨日の今日だからでしょうか。とても眩しくて――すみません」
「……今も?」

 離れた方がいいのか、それともこのまま傍にいていいのかわからなくて、自然と下からそっとメッサーを伺うような格好になる。メッサーが拭ってくれた涙はもう乾いていて、時折吹く風がその跡を優しく撫でていく。少しだけ乱れた赤い髪を片手で抑えて、カナメはじっとメッサーの答えを待った。

「…………そう、ですね。すみません。あまり俺を見ないでください。本当に眩しい……」

 そんなカナメを目を細めて見つめていたメッサーは、ややもして、困ったように眉を下げた。その表情は初めて見た。苦笑じみてはいるが、向けられた笑顔にカナメの心臓がとくんと鳴った。

「嫌っていたわけじゃない、の?」
「違います」

 メッサーは即答して、カッと目を見開いてくれた。
 釣られて目を丸くしてしまったカナメにまたすぐ目を細めはしたが、やはり逸らしはしない。本当に嫌われてはいないのだとわかって、カナメは試しに一歩メッサーに近づいた。

「このくらいの距離にいるのは?」
「……問題ありません。ただ、少し鼓動が早くなる気はします。が、こちらも医学的な問題ではないと医療チームから報告を受けています。デルタ2としてのパフォーマンスにも何ら支障はありません。むしろフライト時はあなたがよく見えますし、身体もよく動きます」
「そっか。良かった」

 何か特別な病があったわけでないのなら、まずは一安心だ。
 ケイオスの医療チームが診たのだから、症状はあれど大きな問題はないのだろうと納得して、カナメは今度こそ安堵の息をついた。
 けれど個人が眩しく見えるなどという不可思議な現象を、そのままにしてもいいのだろうか。任務に差し支えないとはいえ、何とか出来るものならしてあげたい。
 それに、とカナメは思った。

(アラド隊長は、このことをご存じよね。それなのにメッサー君の態度を指摘したのかしら……)

 だとしたらメッサーが可哀想だ。好きでそんな態度になっていたわけじゃないというのに。
 カナメの中にふつふつと想いがこみ上げてくる。
 どうにか出来ないか。治療――というのも病気ではないのだからおかしな話だが、何か、自分に手伝えることは――

「あ」
「カナメさん?」
「……いわゆるショック療法は?」
「ショック療法?」

 思いついた妙案に、カナメは両手を胸の前でぱちんと打った。

「その現象、いまのところ私にだけなんでしょう? それなら一緒にいる時間を増やしてみることで、慣れることができるかもって思ったんだけど。……どうかな」

 症状が悪化する可能性がないとはいえないが、今こうして話してくれるメッサーは、眩しさを最初から意識さえすればだいぶ真っ直ぐにカナメを見てくれている。慣れる可能性の方が断然高いと踏んでの提案だ。
 メッサーも同じことを考えたのだろう。しばらく思案するように片手を口元に当てていたが、「なるほど」と小さく頷いた。

「カナメさんの負担になりすぎない程度で、時間のある時に――」
「任せて!」

 その症状で苦しんでいるのは自分だというのに、すぐにカナメを気遣う台詞が出てくるメッサーは本当に優しい。そんな彼の力になれるなら、こんなに嬉しいことはない。
 カナメはやる気に満ちあふれた笑顔で、ばん、と胸を叩いて見せた。
 その態度に一瞬目を丸くして、それからふと瞳を緩めたメッサーが、また若干眩しそうな顔になる。

「今もやっぱり眩しい?」
「……」

 気づいたカナメがまた一歩近づいて、下からメッサーを覗き込む。
 今度はあからさまに逸らされたが、事情がわかれば辛くない。彼の症状を治したいという使命にかられ、カナメは少し踵を浮かせてメッサーの両頬をぐっと挟んだ。メッサーが息を飲む。

「ちゃんと見て。眩しい?」
「……眩しい、です」
「夜目が利く感じに似てるのかな」
「いえ」

 もっと近くで見ることが出来れば、メッサーの瞳で何か変化が現れていればわかるかもしれない。
 無意識に背伸びをして顔を近づけたカナメの手に、メッサーが上から包むように手を置いて、ゆっくりと頬から離させた。それでもじっと見つめ続けていると、カナメの視線から逃れるように目蓋を閉じて、掴んだカナメの手を確かめるように指でなぞる。それから、ゆっくりと目蓋を上げたメッサーの瞳が、カナメを真っ直ぐに捉えた。

「あなただけが、輝いて見える」

 カナメの背にある月明かりに照らされたメッサーの瞳は眩しそうに細められ、昼間は綺麗な青い空色の瞳が淡い白と夜の空の色を反射して、その中に自分の赤い髪が鮮やかに映り込んでいるのが見えた。
 メッサーの瞳を通して見える月光が、カナメの視界でチカチカと弾けるように瞬いた気がして、カナメは咄嗟に顔を伏せた。

「カナメさん?」

 大丈夫ですかと心配そうなメッサーの声に平気と答えてもう一度顔を上げ、カナメはやはり視線を逸らした。掴まれている手から血流が巡りを良くして、目の中の毛細血管を刺激したのかもしれない。自分の視界がパチパチと炭酸が弾けているみたいだ。メッサーがなんだか眩しい。

「……移るのかしら」
「え?」
「ううん! 何でもない!」

 ぼそりとこぼしてしまった呟きを拾おうと屈み込んできたメッサーの顔が近くなる。眩しさが増した気がして、カナメは咄嗟に後ろに足を引きかけた。が、ただでさえおかしな症状で不安だろうメッサーを、自分がもっと不安にしていたら意味がない。
 メッサーが離しかけた手を、今度はカナメが繋ぎ返す。

「よしっ。じゃあ、これから出来るだけ毎日時間を作って、お互い目を見て話すところから頑張ろうね、メッサー君!」
「よろしくお願いします」

 繋いだ両手を上下に振ると、メッサーが律儀にぺこりと頭を下げる。
 それからほんの僅かに柔らかく微笑を浮かべて顔を上げたメッサーが、先程よりも目映く見えてしまっていると気づかれてはなるものか。
 何故だか逸り始めた鼓動を完璧な笑顔の裏に隠して、カナメは「よろしく」と答えたのだった。






                                    【 END 】

前回のお話の翌日のお話。