あなたであれば例え涙の一滴でも(05)




5、不透明Buddy

 人の波も程よく、酒と料理で賑わう裸喰娘娘の店内のカウンターテーブルには、いつもの見慣れた姿が二つ。カナメさんとアラド隊長その人だ。カウンターの中には今日の任務を午前で終えたチャックが、生き生きと料理を作りながら一緒に雑談に興じている。
 二人が今夜飲むということは知っていた。その場所が裸喰娘娘だということは、例によって、帰りがけ飲みの同行を誘ってくれたカナメさんをいつものように断った後に知ったことだ。先にエリシオンを出たその後、5メートルもあけず談笑しながら歩く二人の気配をずっと背後に感じ、まさかと思ったらそのまさかだった。

「お、メッサー。おかわりいるか?」
「いや、もういい」
「あいよ」

 用意された夕食を自室で食べると引っ込んで数時間、さすがにお開きしているだろうとトレーを返しにきた俺に、チャックが気軽に声を掛けた。もともと山盛りで作られた炒飯だけで満足だ。礼を言って下がろうとした俺に、チャックが当然のようにバナナ酒の入ったグラスを寄越した。飲んでいけ、というつもりだろう。
 二人が特にこちらを気にする風もないのに、一人だけそそくさと部屋に戻るのはさすがに自意識過剰だろう。「奢るぜ、ベイビー」とウィンクで決めてくるチャックに片眉を上げ、ひとまず礼を言って一人分間を開けてスツールに座る。

 カナメさんはつまみのクラゲには手をつけていないようで、かぱかぱと水のようにバナナ酒を流し込んでいるようだった。対してアラド隊長は、酒を飲むよりクラゲにパクついている方が多い。シェアという面ではお似合いの関係性だ。
 ちびりとグラスを舐めたとき、隊長が気遣うような声音で言った。

「そういえば今日は朝から少し掠れてるなと思っていたんですけど、それ風邪ですか? リーダー」
「え? そうですか?」

 ごくごくと喉を鳴らしてグラスを傾けていたカナメさんは、その指摘に喉に手を当て、あー、と小さなハミングをしてから首を傾げた。風邪? いや、昨日も今朝も、そんな様子はなかったはずだ。もし今喉の痛みがあるとしたら、……汗の処理を甘くしたかもしれない。俺のせいだろう。なんとはなしに聞き耳を立てる形で気にしていると、カナメさんは原因を探るように唸りながら首を傾げた。

「んー……昨日いっぱい声を出したからかもしれません」
「ぶふっ!」

 あっけらかんとした彼女の返しに、思わずグラスのバナナ酒をカウンターに噴いてしまった。

「メッサー? おいおいどうした、大丈夫か」

 盛大に噎せた俺の背中を、振り向いたアラド隊長が慌てたようにポンポンと叩く。

「大丈夫です、すみません。噎せました。チャック、何か拭くものを貸してくれ」
「はいよ〜。どうした。詰まったか?」
「問題ない」

 本当は大アリだ。カナメさんが何を指してそう言ったのかはわからないが、素直に考えればそれは昨日のことじゃないのか。声――自覚はある。結局あの後ほとんど一睡もしないまま、互いの身体を貪って打ち付けてぐちゃぐちゃに絡み合っていた。良すぎて、どうにかなるかと思った。途中何度も咽喉を搾るような高音を出して果てた彼女を揺さぶる動きを止められなかったことも覚えている。可愛くて、いやらしくて、待って、と止める声ですら熱情にまみれて聴こえて唇を貪りながら何度も何度も中に果てた。

「メッサー君、大丈夫?」

 隊長の影からひょこっと顔を覗かせたカナメさんは、言いながらまたグラスを唇につけた。

「……カナメさん、飲みすぎでは」
「平気よ。まだまだ全然。チャック中尉、おかわりいいかしら」
「飛ばしますねー」

 そう思うなら薄めるか何かしろ。カウンターに視線を飛ばすが、チャックは肩を竦めて軽く流す。そういえば前に、酔っていても薄めるとカナメさんすぐわかるんだよ、とボヤいていたことがあったような。酒に強いとはいえ酔わないわけでもないのに厄介な客だ。

 咽喉の他に、どこか具合が悪いところはないだろうか。

 気づいたら朝だった今日、ほとんど無言で支度をして仕事に向かった。
 寝不足なのに妙に目が冴えていたのは、彼女のすべてが頭から離れなかったからだ。フライトのない日で良かったと思う日がくるなんて、自分で自分が信じられないくらいだ。
 気持ち良かった。ずっと本当はそうしたかった。隅々まで、中まで全部俺だけのものにしたかった。全部認める。
 その結果に万一のことがあればどんな責任でも俺は取る気でいたのは間違いがない。
 けれど、彼女は――カナメさんにとって、その万が一は絶対に望ましいことじゃないこともわかっている。
 むしろ汚点だ。若い頃の過ちとして流せるかは人によるだろうが、きっと彼女は抱えると思った。俺のせいだ。何も知らなかった彼女を練習に付き合うような顔をしていいように自分の色に染め、自分の感情を優先して避妊もせずに、制止を振り切って中を全部好きにした。

 考えた末、俺の取った行動はたぶん不誠実を働いた男が、辛うじて誠意ある行動を起こすとしたら考えうる最良の対応だったはずだ。いわく、事後の薬を処方してもらい彼女に渡した。医務官にはさんざん釘を刺され、好奇の目でさらされたが自業自得だ。口が避けても相手を黙秘した。
 タイムスケジュールから彼女の休憩時間を割り出し、廊下の端に引き寄せて手早く説明する。「なに?」ときょとんとしている彼女の手にそれを渡し、申し訳ありませんでした、二度としません、むしろちょうど良い機会なのでこういう関係を解消することも視野に入れて――ETCETC。「わかった」と言ったカナメさんは俯き加減であまり表情は見えなかった。事後の処方薬は効果までの時間が決まっていると医務官に言われたことを伝えるも、カナメさんはもう一度「わかったわ」とだけ言って、素早く踵を返してしまった。

「メッサー君は咽喉平気?」

 それから帰り掛けに声をかけられるまで会うこともなく、その時はもういつもの職場会うカナメさんだったはずだ。なのに、なんだ? カウンターに肘をつき、グラス越しに向けられる視線も台詞も、挑発めいて聞こえる気がする。

「……全く問題ありません」
「ふうん。強いのかしら」

 カラン、とグラスを揺らして氷を鳴らす。風邪の心配をしているわけでないことの知れる言い回しは、絶対にこの場に適していない。案の定何かを察してちらりとこちらに視線をくれたアラド隊長は、あえて口を挟まない立場を貫く姿勢だ。

「なになに、死神様、カナメさんと発声練習でもしてたの?」
「するか。不要だ」

 対してチャックは、わざとおどけて見せることで、二人に落ちそうな不穏な沈黙を打破する方向に進んだらしい。パイロットに発声練習など必要ない。カナメさんをあえて視界から外してチャックに向き直った俺に、だよなーと語尾を伸ばした相槌をくれる陽気さに救われる。けれどカナメさんは、それで流すつもりはなかったようだ。

「本気じゃなかったってことかしら。あの声全部演技だったの?」
「……あの、カナメさ」
「良かったって、あれも嘘?」

 慣れた調子でカナメさんの手からグラスを抜き取ろうとしたアラド隊長から奪い返して、カナメさんは真っ直ぐに俺を見つめてきた。
 待った。待ってくださいカナメさん。それはさすがに誤魔化すのが難しい方向に進んでいる。あなたの想い人候補は、隣のその人じゃないんですか。
 さすがのチャックも口を挟むのを諦めて、すっと水掻きのついた手を広げて小さくハンズアップの姿勢を示す。

「メッサー君だって知らない声出してたのにあれ全部嘘だったの?」
「何を――落ち着いてください。飲みすぎだ」
「酔わなきゃ、もう無理だもん!」

 シン、と一瞬店内が静まり返った。
 勢いに任せて強く置かれたグラスが、ごとりと鈍い音をカウンターに響かせる。けれども当の本人はそれ以上暴れるでもなく俯いたまま微動だにしない。酒場でのこんな喧騒は慣れている酔客のおかげで、すぐさまざわめきを取り戻した店内に内心でほっと息を吐きつく。

「――あの」
「慣れてない方がいいとか、慣れてると楽とか、どっちでもいいとか、もう、どうすればいいのかわからないんだもん……」

 震えるようなその声は今にも泣きそうに聞こえた。
 そういえば彼女とこんな関係になった夜も、そんなことを言っていたなと思い出した。相手の男にまた何か言われたのだろうか。昨日のあれは、だから、発散したかったとかそういう――
 昨日の彼女のスケジュールを頭に描いてみれば、ワルキューレのレッスン以外での接点はおそらく幹部ミーティングくらいだ。だとしたら、まさかその相手の男は――

「メッサー、おまえ……」
「隊長、カナメさんに何を言ったんです?」
「そこ俺か!?」

 思わず声が低くなる。ついでにうっかり隊長に一歩詰め寄ってしまったせいで、上からメンチを切るような体勢になってしまった。ガタリとスツールを後ろに引いた隊長の身体がカナメさんにぶつかりそうで、腕を引こうと思ったら、避けるように身を捩られたせいでこれもつい胸元を掴んでしまった。
 慌てたようにチャックが俺達の近づいた距離の間に手を入れて引き離すようなジェスチャーをする。

「待って待って。俺の店で暴行事件やめてくださいよ〜? とりあえずカナメさんは、ほら、お酒回ってますね。二階で休んできません? 今日ハヤテいないんでそこでもメッサーの部屋でも」

 どうどう、と何故か俺にばかり顔を向けて言いながら、チャックはまだ俯いているカナメさんにも声を掛けた。
 だが俺の部屋なんて冗談じゃない。一言言い掛けたところでようやくカナメさんが顔を上げた。どこかぼんやりとして見える表情でゆっくりと俺に視線を合わせる。

「すごくよかったって、いったくせに、ばか」
「カナメさ」
「よかったの私だけじゃない。メッサー君ばか。サルマワシ!」
「さ、さる……?」

 さっきより直接的に非難するカナメさんの口からよくわからない単語が出てきた。
 はっきりと険の乗った眉間は俺に向けられているから、たぶん良くない言葉のつもりなんだろう。さりげなく席を離れたアラド隊長が、自分のグラスとクラゲを持ってカナメさんの反対隣に移動した。
 そのせいではっきりと姿を表したカナメさんは、胸元の一部に小さな開きのある、けれども首元まできっちりあるお気に入りらしいいつものインナーに珍しく薄手のカーディガンを羽織っていた。それがどうしてかなんて、彼女が首を動かした時ちらりと覗いた赤い跡のせいですぐにわかった。

「死神様、なにしたの――いや、なんか大体わかったけど」
「勝手にわかったことにするな」

 酔っ払いの戯れ言を真に受けないでほしい。少なくとも酔っているカナメさんは、今、おそらくアラド隊長のことを忘れている。素面に戻った後で、自分の言動で傷つかせたくはない。幸せの邪魔をするのは本心ではない――カナメさんの幸せが俺にとって嬉しいかどうかは別問題だ。
 けれどカナメさんはチャックにはてと首を傾げて見せた。

「……? あそぶひとのこと、サル……コマ、マワシ……?」
「ああ、そりゃ『スケコマシ』ですかね。メッサー、おまえコマシてたのか」
「まさか!」
「まわされました」
「まわっ、してません! してないでしょう!」

 とんでもないことを言い出した。それだとほとんど犯罪だ。
 いや、違う。そういうことを言いたいのではなくて。俺達がそういう関係だとバレて困るのはあなたでしょう。
 そろそろ本気で止めないといけない。俺が自室に戻るだけではすまなさそうな展開に、俺は意を決してカナメさんに歩み寄った。

「カナメさん、飲みすぎです。送ります。送りますからもうそろそろ帰った方がいい」
「今日は誰とするの?」
「す――し、しません、何も、誰とも」

 きっと睨み上げてくるカナメさんの頬は適度に酒に染められて、潤みを帯びた瞳が昨日の夜を頭のすみにチラつかせる。俺の答えにムッと寄せられていた眉が急に下がったかと思ったら、カナメさんはくるりと後ろのアラド隊長の方を振り向いた。

「たいちょう、めっさーくんが、うそつきです……」
「すみませんねえリーダー。あとで叱っておきますんで、もっと言ってやってください」
「アラド隊長!」

 酔っ払いだとわかっているだろうに煽らないでほしい。そもそもあなたに構ってもらいたいんじゃないのか彼女は。そう思うのに荒げた声と同時に、そのまま隊長の方へ行ってしまいそうなカナメさんの腕を掴んで引き寄せてしまった。
 他意はない。ただ、早く女子寮に送っていかなければと思っているせいだ。
 けれどカナメさんは大人しく腕を引かれたかと思うと、そのまま俺の胸にぼすんと顔を埋めてしまった。にやりと口角を上げた隊長と、今にも口笛を吹き出しそうなチャックの視線が痛い。と、カナメさんはその格好のままシャツに口をつけたままで呟いた。

「慣れてないと面倒とか、慣れてない方が喜ぶとか、本当はどっち?」
「うわー……」
「チャック、違う。カナメさん、一般論です。帰りましょう」

 軽蔑の眼差しで口を開いたチャックを一瞥してカナメさんの両肩を軽く掴んで離させる。

「じょうずになった?」
「カナメさん、送ります」
「へた……?」
「さいこうです。てんさいですね。さすがです。帰りますよ」

 先程よりも呂律が甘い。
 寄り掛かっていた身体を離されて、肩を掴む俺の手首にカナメさんが両手を掛ける。アルコールが回っているからもっと熱くなっているとばかり思った指先は意外に冷たく、僅かに震えている気がした。
 カナメさんの瞳が大きく揺らぐ。

「よかったの、ほん、ほんとう……?」

 どうして――
 なんで、そんな顔をするんです。
 不安で不安で仕方がないとでも言うかのように。

 そんなの、良かったに決まっている。
 いつも、本当に、どうしようもなく離れがたいほど――

「メッサー」

 言葉を失って立ち尽くしてしまった俺を、アラド隊長が静かに呼んだ。一瞬その存在を忘れていた自分を後悔しても遅い。軽口でも応戦できなかった時点で関係を肯定したも同義だ。どうすればいい。
 そう思っていると、カウンター越しにチャックも静かな声で隊長に続けた。

「部屋、女子寮戻るよりここのがいいだろ」
「ちゃんと話してこい。一旦寝かせて酔い冷ますのでもいいから」
「ですが」
「営業妨害だっつってんの」

 水掻きを大きく広げてシッシッと手を振るチャックに連れ立つきっかけを貰う。
 カナメさんを促すと、俺の腕にしがみつくようになった彼女を支えるようにゆっくりと歩きながら自室に向かったのだった。


******


 月明かりしか照らすもののない自室で壁についた室内灯のスイッチを入れようとして、けれどカナメさんに腕をしっかりと取られて阻まれた。

「ごめんね」
「カナメさん?」

 少しはっきりとした発音に戻ったカナメさんが、俺を掴む腕にきゅっと力を込めた。

「ごめんなさい……バディ、やめるって言わないで」

 震えるように呟かれた声は腕につけられた顔のせいでくぐもって聞こえる。どうしてそんなことを言い出したのかわからずに、俺はカナメさんの俯く頭を反対側の手でポン、と撫でた。一瞬びくりとした彼女がますます俺にしがみついてくる。小さな子供のような仕草に愛しさが込み上げて、つい髪をすくうように何度も撫でた。
 むしろそれは俺が言うべき台詞だろうに。

「言いません。あなたを守るのは俺がいい」
「……」

 けれどカナメさんはゆるりと視線を上げて、まだ不安そうな瞳に俺を映した。今にも泣き出しそうに瞬くから、思わず溢れてもいない涙を拭いたくなる。頬に伸ばし掛けた手をなんとか押し留め、俺はカナメさんを自室のベッドに座らせた。
 今度はおとなしくついてきた彼女は、促せば勧めるままベッドにこてんと横になった。布団を掛けると縁に鼻をつけ、すうっと大きく息を吸い込む。それからホッとしたように表情を緩めた。

 ――誤解、しそうになる。そんな表情。

 男の部屋で、男のベッドで、それをされたら誰でも悦ぶ。
 くだらない自分の思考を追いやるように目を伏せて、俺は立ち上がった。

「……隊長に誤解されないよう、俺からもちゃんと言っておくので安心して眠ってください」
「隊長とメッサー君が一緒に寝るの?」
「……どうしてそうなりました?」

 発音はしっかりしてきているが、思考はいろいろ混濁しているに違いない。
 おかしな発想をした彼女は、むくりと上半身を持ち上げた。

「私が一緒に寝たい」
「……そうですね」

 やはり彼女の想い人は確定か。
 人のベッドに入り込んでおきながら求める彼女にツキン、と痛みを訴えかけてきた胸を無視して、俺はカナメさんをもう一度ベッドの中へと誘導した。と、彼女の手が俺の袖口をクイッと引っ張った。

「隣、きて?」
「わかりました。呼んできます。少し待っていてください」

 あの調子だともしかしたらスルメを食べ終えたらさっさと帰ってしまいそうだった。フロアの方へ意識をやろうとした俺に、カナメさんは更に強く俺の袖を引いた。

「メッサー君、早く、寝よう?」
「……俺ですか?」

 間違えているのだと思った。背格好は似ても似つかないだろうに、と。
 けれども俺を見つめる彼女は呼び間違えではなく、真っ直ぐに俺を正面から見つめていた。

「早く」
「……」
「メッサー君、来て?」

 ベッドの中で俺の袖を持ったまま、カナメさんが壁側に寄る。
 強くない力だというのに、身体が引き寄せられるように彼女の横に滑りこんでしまった。それでも気持ち的に少しだけ間を開けたままでいると、カナメさんはそれ以上は強く何かを言うことはなかった。
 それからどれくらい無言でそうしていただろう。
 寝てしまったかと思った頃、カナメさんがぽつりと呟くように口を開いた。

「私ね、昨日、……本当に良くて」

 何がと聞く必要はない。
 黙っているとカナメさんは顔をベッドシーツに押し付けるように動かした。

「メッサー君のはウソ、だったんだよね……」
「どうしてそうなるんですか」

 あれだけしたのに。
 良くなくて、まさか朝まで抱き潰すなんて出来るわけがない。

 心のどこかで最後になるかもしれないと感じた恐怖を見ないようにしたせいで、余計激しくしてしまった。少し前から互いにつけるようになっていた跡だって、俺より断然カナメさんの身体に多い。まだ慣れきらない彼女にそうさせる間もなく、良すぎた俺が食い散らかしてしまった証拠だ。

「よかった?」
「最高だったと言いました」
「本当?」
「はい」
「好きになってくれる?」
「はい――はい?」

 まだシーツに顔を埋めたままで言われた言葉を聞き返す。好きに――なってる。とっくの昔に。それこそ初めて会ったときからもう何年も。けれどそんな粘着じみた想いを知らないはずのカナメさんは、もぞもぞとシーツから少しだけ顔をずらして、横目でそっと俺を見た。瞳が月明かりを反射して濡れるように煌めいている。
 泣いたのか? なぜ?

「……男の人は気持ちいいと好きにもなるって。身体からも本気になれるって、雑誌にあったの。メッサー君は、そういうタイプぽいんじゃないかってクレアが言ってて、そうなのかなって」
「クレア? は?」

 答えられずにいると、カナメさんは思いもよらない人物の名前を出した。クレア・パドルか? その名前は知っている。ワルキューレの初期メンバーで、カナメさんの友人だ。今は異動で地球支部にいると聞いているが、休暇でこちらを訪れた彼女とはカナメさんの紹介で何度か顔を合わせたこともある。
 仲が良さそうだとは思っていた。今のメンバーとはまた違った絆が、二人の間には確かにあるように感じていた。けれど、なんだそれは。いったい彼女と俺についてどんな話をしていたのか、今の流れではさっぱりわからないことばかりだ。
 呆けていると、カナメさんは少しきちんと顔をあげ、身体を横に向けて寝直した。まだ間に距離はあるが、潤んだ視線はしっかりと俺を捉えている。

「昨日、気持ち良かった? だいぶ慣れてきたと思うんだけど、メッサー君はどのくらい慣れてるのがいいの? 慣れすぎはダメって、どのくらい?」
「待って…待ってください。だいぶ酔ってる。その話はまた今度にしましょう」
「酔ってるけど、お酒の力を借りてるだけだもの。誤魔化さないで。ちゃんと答えて」

 そんなことを聞いてどうするつもりだ。
 俺の好みとカナメさんの想い人の好みを重ね合わさられるのはゴメンだ。
 相手はプレイボーイなんじゃなかったのか。
 だから初めてを適当に後腐れのないバディにやって、それなりに経験をつんでおきたかったんだろう。慣れた所作に他の男の影を感じるかどうかなんて人それぞれで、俺自身、付き合ってきた女にいちいちそんなことを気にした覚えもない。お互いそれなりの経験があることは別に非難することではないからだと思っていた。

 慣れてる方がいいと思うのは、そういうことを第一目的として付き合った場合だ。
 面倒臭い気遣いをすっ飛ばしてさっさと済ませてしまいたいのに、妙にもったいぶられたら萎えるというのは、たぶん男の正直なところで、プレイボーイならそういう一面はあり得るという話だ。別に、カナメさんに対してどうこう言ったつもりはない。
 むしろ好きな女は慣れていなければいないほどいいい。
 面倒がどうのと思う以前に愛しくて愛しくて、大切に自分だけの色にどっぷり染めてやりたくなるのだということを、俺は彼女で初めて知って、それから思い知らされている。

 だがそんなことを言ってどうする。

 答えに窮している俺の胸に、カナメさんの細い指先が伸びてきた。
 シャツを怖々といった動きで小さく握る。

「私は――……私は、気持ちいいからだけで、あ、ああいうこと、本当はしたくない……好きだから、好きな人に好きだからされたい。身体だけでもいいなんて嘘。心もほしい……」

 そうだろうなとは思っていた。
 熱心に男の喜ぶことを勉強しようと頑張っていたのは、ひとえに好きな男の為だったと知っている。誰彼かまわずセックスだけをしたい女なら、きっと俺は選ばれなかったか、もしくは大勢のうちの一人だった。
 けどカナメさん。こういうことは俺ではなく、好きな男に言うべきだ。
 セフレめいた関係の男に、今更本当はあなたとしたいわけじゃない、と告げるのはルール違反だというものだろうに。
 彼女の指先を取ってシャツから離させる。と、カナメさんは俺の指の間に指をぐっと絡めてきた。唇を噛んで、それから俺をじっと見つめる。

「他の人にもあんな……あんなことするんだって思ったら、すごく嫌で、苦しくて、メッサー君、今、ああいうことする女の人どれくらいいるの?」
「…………は?」

 眉間に寄せられた皺は、今までどんな難しい任務を与えらえても見たこともないほど深くなっている。意図を掴み損ねた俺の口から間の抜けた声が出てしまった。

「いいって思ってた。それでも、あの時だけは私だけだからって。でも、もう、やっぱり無理って」
「カナメさん」
「ああいう表情も声も全部、絶対、誰にも見せたくなくて」

 混同、しているんだろうか。
 彼女の好きな相手への熱い想いと。
 ああいう表情? されたのか? 抱かれた? いつの間に。それで振られた? だから昨日俺にあんなことを許したのか?

「………………重い?」

 なんて、羨ましいんだろう。
 狙ったような完璧な上目遣いで瞳を潤ませるカナメさんに、小さく首を横に振ることで精一杯だ。

「本当?」
「……自分だけがいいなんて、男は、普通喜びます」

 相手の男がどうかなんて知らないが、カナメ・バッカニアにここまで言わせる男が彼女を袖にするなら、ジークフリードで消し飛ばしても許されると本気で思う。私怨と言われようが知ったことか。銀河の女神にここまで想われて、泣かせるなんてどうかしている。全宇宙の敵だ。屠って何か問題あるか。

「メッサー君も?」

 彼女の口から名前が呼ばれて、意識が現実に引き戻された。
 俺が、何か関係あっただろうか。カナメさんの俺の手に絡む指先が、きゅっと白くなるほど力を込めた。

「メッサー君は男の人だから、身体だけでもいいのかもしれないけど、その、でも、そういうの一人だけにって、だから、つまり……」

 もごもごと口中で言葉を選ぶカナメさんの声はだんだん尻すぼみになっていく。多分に彼女は誤解している。俺は別に性欲だけを求めて色んな女と一夜を過ごしたりしていないし、彼女に伝えたことのほとんどは世の遊ぶ男にありがちな一般論だ。俺に限定していえば、好きな女性に手練手管を求めはしないし、出来ているからといってそれが悪いとも思わない。身体だけがいいとも思っていないし、そもそもあなたは別次元だ。
 カナメさんがこの関係を清算したいなら仕方ない。けれど、そんな尻の軽い男と思われたままでいるのは嫌だった。

 俺は、――あなただから、したかった。

「俺は」
「メッサー君が好き」

 突然のことに思考が止まる。
 酔っているから、記憶の混同、色々な可能性が、真っ直ぐ俺を見ているカナメさんの瞳で全て打ち砕かれていく。

「…………」

 カナメさんが、俺を、好き?
 まさか。だって、あなたはプレイボーイが好きだったんじゃなかったのか。
 相手の男が初めての女は面倒だと言っていたから、俺で慣らそうと思ったんじゃなかったのか。俺はそんなことを言った覚えがない。だから――いや、でも――もしかして何か勘違いを――

「ごめんなさい」

 理解が追い付かないでいる俺の指から、カナメさんは絡めた指を引き抜いた。そうしてむくりとベッドの上に起き上がる。

「カナメさ」
「やっぱり帰る」
「待ってください」

 俺の足元を跨いで行ってしまおうとするカナメさんを慌てて呼び止めた。けれどこちらを見ようともしない。

「頭と酔いと醒ますから。今の忘れて。ごめんね」
「忘れません!」

 ベッドを下りかけたカナメさんの手首を掴んで引き寄せる。
 たぶん、自分で思うより慌てていたせいで強く掴んでしまったのだろう。キャッ、という短い悲鳴と共に後ろ向きで倒れ込んできた彼女をベッドの上で抱き留める。

「メ、メッサー君――」
「本当に?」
「え?」

 やっぱり嘘とでも言われたらどうなってしまうかわからない。
 心臓がうるさい。全身がおかしな期待で震えるほど熱くなる。
 同時に、おかしな不安も込み上げて、吐き気がしそうなほど寒いような気にもなる。
 初めて戦場の空に出たときと似ている。けれどあの時は上官が、仲間が、そこかしこにいてくれた。今は独りだ。
 俺はカナメさんを後ろから抱いたまま、深く息を吸い込んだ。腹に溜め、ゆるゆると吐き出すように言葉を乗せる。

「あなたの好きな相手は、俺なんですか? 酔った勢いでも誰かと間違えているわけでもなく?」

 これが最後だ。
 違うなら違うと。間違えたのなら酔いのせいだと笑ってほしい。それでもう二度とあなたを煩わせたりしないから。
 最後になるかもしれない彼女の柔らかさを忘れまいと回した腕に力が入る。と、カナメさんはその腕を驚くほどの力強さで振り払った。逃げられる――未練がましくそう思ってしまった俺の振り払った腕の中で、けれどもカナメさんはぐるりと身体ごと反転させて俺に真正面から向き直った。

「だから好きって言ったでしょう! そんなこと間違えない!」

 バチン、と両頬を叩くように挟まれた。いつもは垂れ目がちな瞳で睨みつけるカナメさんが、柳眉を吊り上げ肩を怒らせている。はっきりとわかる怒気を纏って俺を見るカナメさんは、それでも今にも泣きそうだった。

「メッサー君が誰でも良くても、私はメッサー君じゃなきゃやだって」
「好きです」
「メッサー君、ひど、い…………え?」

 限界はもうとっくに超えていた。間違いじゃないならもういい。もう、あなたを手離してあげられない。
 今度は俺から彼女の両頬を挟み込む。音はさせないけれど、カナメさんが俺の頬にするより強く、しっかりと包み込んで、何度も形を確かめるように親指でその輪郭を撫でる。
 ぱちぱちと目を瞬かせているカナメさんの額に額をつけて覗き込むように視線を合わせる。

「好きだと言いました。ずっと、俺にすればいいのにと思いながら抱いていた」

 好きな男に抱かれたときに俺とのことを思い出して、いっそ物足りなく思えばいいのにとすら思っていた。女神の願いを叶えるような顔をして、不誠実極まりないことだ。

「誰の為に、そんなに一生懸命男の喜ぶことを練習したいのかと。相手の男が心底羨ましくて仕方なかった」
「…………メッサー君の、好みがわからなくて、だから、……初めては面倒って言うの、聞いちゃったから」

 いつだ。そんなこと血気盛んな昔の任務地でならまだしも、ラグナに来てから話題にすらしたことはない。

「でも、だから他で済ませるとか、考えたけど出来そうになくて」
「出来なくて良かったです。やめてください。俺で良かった」

 とんでもない可能性をさらりと口にしたカナメさんに、胃がギリギリと音が鳴るほど締め付けられた。変な方向で解決しないでくれて本当に良かった。いや、この関係もだいぶ歪だったとは認めるが、初めてが面倒だなんて言った覚えは本当にないから絶対に誤解だ。そんなことで済まされてきたら、自分が一生許せない。

「それいつの話ですか」
「……多分、新統合軍の人が合同訓練の挨拶に来てたときだからだいぶ前」

 その言葉にふと思い当たることがなくもなかった。
 デルタ小隊がワルキューレを守る立場にいるという話になったことがあった。イイ女に囲まれていて羨ましいだのといった話題を振られることはよくあることで、その時もおそらく俺は適当な相槌を打っていた。彼女達が馬鹿にされるような方向に転じれば適宜応じるが、世の男どもの素直な感想にいちいち目くじらを立てても仕方がない。そのくらいの分別はある。

「メッサー君、初めては面倒だよなって言われて、ああって」
「絶対に誤解です」

 そこははっきりと否定しておく。
 おそらくカナメさんは話の流れが大分抜けている。

 確かに女性の話題にはなった。ワルキューレと付き合えるだのなんだのという話になって、ハヤテ・インメルマンの事実があるので変に否定もしないでいた。相手のパイロットもそれなりに常識を弁えた人物で、羨ましいだのなんだのと言いつつ、結局恋人のいない一般人はプロの手に身を委ねるしかないなという笑いに変えて話していたのだ。
 その中で、恋人でも何でもない一夜の相手がもしも初めてだなどと三流小説にありそうな展開があったらどうする、と誰かが言い出して、そんな場面で困ると誰かがそう言った。だよな、と同意を求められたのを思い出す。確かにそんな店でそんな状況で、そんな子がやってきたら双方困るだろうなと思ったから頷いた。それだけだ。イフもしもの与太話だ。
 まさかカナメさんが聞いていたとは思わなかった。

「そんなことで女性を見たことはありませんし、俺は、あなたがあなたであるだけでいい」

 そもそもカナメさんの経験の有無など、こうなるまで知らなかった。

「慣れてても慣れてなくても、あなたがいい」
「メッサー君……」

 小慣れている云々の話は、完全に誰か他にいると思っていた彼女の想い人へのあてつけだった。
 ぼろりとカナメさんの青い瞳から零れた涙が月光に照らされてあまりに綺麗で惜しくなる。頬に零れた滴を親指の腹で拭って、目尻に唇を寄せてちゅっと吸った。驚いたように身じろいだカナメさんが俺の頬から手を離し、代わりに彼女の頬を包む俺の手首を掴む。

「――と思っていましたけど、やっぱり俺にだけ慣れてください。俺にだけ感じて、俺のことだけ考えてください。……ほら、俺の方がよっぽど重い」
「……っ」

 こんなことを本当はずっと考えていた。知らなかったのはあなただけだ。
 こんな男でもいいんだろうか。自分で言うのも何だが、かなり粘着質なタイプだと思う。あなたを欲しいと思ってから自覚したから間違いない。
 それでも、あなたが俺でいいというのなら、もう何にも遠慮も自制も多分で出来なくなるだろう。

「気持ち悪いですか」

 何度も瞬く瞼に溜まらずキスを落としてそう聞くと、カナメさんはふるふると小刻みに首を横に振ってくれた。それから、

「きっ、気持ち、いいです……っ」
「…………」

 何を言い出すんだこの人は。
 こんな場所で、階下に誰がいるかわかっている状況で、抱き締めてしまいたくて仕方なくなるようなことを、そんなに簡単に言わないでほしい。

「……気持ちいいことしますよ」
「いっ、今!? で、でもあの、下に隊長とかチャック中尉とかいるし……!」

 その彼らの前で大暴露をかました張本人がどの口でそんな事を言って照れるんだ。ここにはいない彼らの動向を思い出したように気にし始めたカナメさんが、わたわたと辺りを見回して、それから内緒話をするかのように声を潜めた。

「メ、メッサー君がしたいなら、その、い、いいけど……声、我慢できるかな、……が、頑張るね?」

 やめてくれ。可愛すぎて対応に困る。

「駄目です。俺が我慢できない」
「え、わ、きゃっ――」

 簡単に応えてくれようとしないでほしい。ちゃんと舵を取ってくれないと、俺はもう調子に乗る自信しかない。
 後ろに倒れ込み反転させて乗り上げる。そのまま唇をぱくりと塞ぐだけのキスをして、俺は隣に横になった。

「……メッサー君?」
「今夜はここまでで」

 カナメさんの肩を抱いて髪を撫でる。少し緊張を孕みながら、それでもこんなに穏やかな気持ちで彼女と隣り合える日が来るだなんて思わなかった。

「明日の朝、ちゃんとやり直していいですか」

 身体を求めるだけじゃない、気持ちの通った関係になる。その為のけじめをつけたいと思う。今更といわれようと、そうしたい。
 身体をいくら繋げても手すら繋いでいなかったから。
 そういう些細な触れ合いを当たり前にさせてほしい。

「何を?」

 俺の勝手な決意を知らないカナメさんが、きょとんという擬音が似合いそうな表情で首を傾げた。その頬に落ちた赤い髪を耳に流してやりながら、多分勝手に顔が緩む。

「恋人への告白を」
「こ――っ」

 今度はこちらが呆けてしまうほど言葉に詰まったカナメさんが、月明かりでもわかるほどに一瞬で真っ赤な顔になる。どうしてそこでそんなに照れた。してくれた告白は、たぶんあなたの方がもっとずっと直接的で情熱的ですらあったのに。

「や、やり直すの? え? うん、ええと、うん……」
「俺が勝手にしたいだけなので、あなたは気にしないでいただければ」
「無理。だってそんなの嬉しいじゃない……無理……」

 両手で顔を覆いながらそんなことを言われるこちらの気持は、きっと考えていないに違いない。照れて震えているらしいカナメさんを腕の中に抱き寄せながら、込み上げてくるどうしようもない愛しさが胸にせり上がる。
 明日の朝もこの愛しさがあるのだと思える幸せを、どうやって彼女に伝えよう。


【Fin.】

お互い想う相手は他にいるんだろうなーと勘違いしたまま、身体の関係だけ続けてる不毛なメサカナ。
オムニバス的に書いているので、時系列は1〜5のとおりですが、へ〜そういうことがあったんすね〜くらいの気持ちで読んでくださるとありがたいです。