君と恋するコーヒーブレイク2




端末の画面上に表示される地図を頼りに道路を渡り、郊外に見える公園を反対に曲がってしばらく。
事前に言われていた通り、瀟洒なレンガ造りのアパルトメントが現れた。
メインストリートから少し離れているものの道幅は広く、平日の昼間、就学前の子供達が笑い合う声が聞こえてくる。空は少し雲が厚いが、おかげで初夏の日差しが和らいでいた。

『少し古いけど治安も良いし、部屋も広くて悪くないよ』

そう評していたハンジは正しい。
程好く歴史の感じる建物の佇まいが明るい住宅街に気持ち良く溶け込んでいて、彼女の好みにも合致している。ここを見つけた時の様子を想像してつい緩んでしまった口元を誰にともなく片手で隠して、モブリットは教えられた番号の部屋の前で立ち止まった。
ナナバは先に着いているはずだ。
そもそも今日の予定は店でのナナバの発言が原因だった。
曰く、「この子の部屋、本当に本気で酷いから」。
仕事の忙しさと生来の気性が相俟って、引越からまるで整理整頓が進んでいないのだと嘆くナナバに、ハンジが「別にいいじゃん困ってないし」と唇を尖らせて抗議していた。
「私が泊まれるスペースくらい確保してよ」
呆れたナナバの言葉にハンジがそれならばとニヤリと笑い、「片付け手伝ってくれればいいよ」と鼻を鳴らしたのを受けて、「モブリットの休みいつ?」と当然のようにそう聞かれたのは数週間前のことだ。
力仕事要因として呼ばれたモブリットと二人の休日が重なった直近が今日で、初めて訪れた部屋の前で僅かに高鳴る胸を息を吐くことで落ち着けながら、モブリットは来客を知らせるクリーム色のブザーに指を伸ばした。

ハンジがこのアパルトメントに越してからもう三ヶ月が過ぎているそうで、モブリットが付き合い始めた時にはちょうどその最中だったことになる。
誤解から端を発した店内での大告白以降、交際はそれなりに順調だ。
元々常連だったハンジの来店が特に増えるということはなかったが、それでもカウンター越しのやり取りはずっと近く、交わす視線も言葉も格段に甘さを増している。
店が混んで忙しい時は会話こそそこそこに、コーヒーを片手に店を出るハンジへ視線を送れば、ちゅ、とキスを投げてくれることもあった。予定を合わせて二人で何度かデートもしたし、三度目の別れ際には駅のホームでキスをした。
なんだか照れるね、と笑った彼女が可愛くて、そのまま少し深く口付けた結果、電車を一本遅らせてしまったのは今でも反省するところだ。
だがそうはいっても互いになかなか忙しく、会える時間は限られていて、昼間の逢瀬はおそらくギリギリ片手で足りる。
その分仕事帰りが合う時は食事をして駅まで送り、ハンジが出張や仕事で泊まりが多くなれば、電話越しに「おやすみなさい」と囁く頻度は割と高い方だろう。いい大人の進展としては比較的穏やかな気がしないでもないが、駅までの道で繋がれるようになった手に、電車の乗り遅れの一件以来自重して、それでも別れ際の触れるだけの甘いキスに、耳朶に囁かれるおやすみの声に、実は今でもモブリットは緊張している。

「おー、モブリット! いらっしゃーい! 迷わなかった?」
「大丈夫でした。良いところですね」
「でしょでしょ!」

得意満面にヒヒッと笑う今日のハンジはご機嫌なようだ。こういう時の彼女は本当に無邪気な顔をする。
自分のお気に入りを理解してくれたという喜びと、お気に入りを自慢したくてたまらないといった表情で、思わず抱き締めてしまいたくなる。
そもそも感情豊かなハンジだが、それでも付き合い当初はそれなりの距離を感じることもあった。その彼女から、気の置けない友人であるナナバに向ける類の衒いのない笑顔を向けられるようになっただけで、モブリットの心は躍り出してしまいそうだ。

「どうぞ、上がって」
「ナナバさんは奥ですか?」
「――あ、それがさ、あの子急に来られなくなっちゃって」
「え」

ここまで姿の見えなかった彼女の友人の所在を聞いて、モブリットは勧められるまま踏み出していた足を思わず止めてしまった。急に、来られなくなった……?

「シフト読み間違えてたんだって。さっき連絡きてごめんって。言い出したのナナバなのに、二人だけじゃ一日で片付けなんて終わらないかも――って、モブリット?」

ということは、この部屋に一日二人きりでいることになるのか。それはいいのか。女性の部屋にいきなり男が――いや、でも俺は一応彼女の恋人で、それでもデートはまだ片手の数で、そんな関係でいきなり部屋には、……いやでもキスは拒まれないし、そろそろもう少し踏み込んだ関係に――違う違う、そうではなくて。
今日は単なる手伝いだ。そもそも彼女にそんなつもりはないはずなのに何を考えているんだモブリット・バーナー。急がば回れ。せっかく手にした関係を失うくらいなら一年何もなくてもいい――は、言い過ぎだが。

そんなことを頭の中で駆け廻らせていたモブリットを覗き込むようにして、ハンジがにやりと片眉を上げた。

「なに、ナナバいないのそんなにショック?」
「ち、違います――!」

急な近さに、頬がしゅっと熱を持つのが自分でもわかった。からかわれた。ハンジへの好意を見透かされてからというもの、何くれとなく彼女に纏わる情報を提供してくれていたナナバとの関係を誤解されていたのは、もう随分前になる。わかっているくせに、珍しくそんな揶揄をしてきたハンジの言葉を否定して、モブリットは咳払いを一つした。そんな彼をじっと見つめてハンジは「そう?」と口元だけで笑うとさっさと背中を向けてしまった。

「あの、俺、本当にお邪魔していいんですか?」
「なんで? 入ってよー。日当たりも良いんだよ。どうぞどうぞ!」

生真面目な表情で確認するモブリットに振り向いたハンジが、可笑しそうに笑いながらモブリットの腕を引いた。我が城を早くとせがまれる無邪気さに負けて、自分の葛藤に苦笑するしかない。改めてお邪魔しますと告げると、ハンジがより一層嬉しそうな顔になった。
二人きり――今日は、これからハンジの部屋で二人きりだ。
こっちだよ、と先を歩くハンジの背中を見つめながら、改めて心中で一人ごちて、モブリットは急激に高鳴ってきた心臓をそっとシャツの上から宥めつけようと苦心した。


******


――結論として。

初めての恋人の部屋に二人きりという浮き足だったモブリットの緊張は、リビングのドアを開けた瞬間、全てが杞憂に終わることになった。
ソファに座って、まずはコーヒーでもと言われたら――などの甘い幻想は、目に付く辺りが腐海かと見紛うばかりの荒れ具合で、一気に霧散してしまったのだ。

「な、な、何で足の踏み場が獣道なんですか……!」
「え? 私の導線?」
「そういう事を聞いているんじゃありません!」

汚れているというわけではない。ゴミはゴミ箱。基本はある。ただ本が、資料が、メモの山が。どこに何が置かれているのかは家主も本当に全て把握出来ているんだろうかと疑ってしまうほど散乱しているだけなのだが、それがひどい。
加えて所々、点在して見えるくたびれた衣服は、絶対洗濯されるべきだ。……下着とかあるのか、いやいやそれはさすがに。

「ハンジさん、この部屋で捨てていい資料はありますかっ」
「え、基本ダメ!」
「例外はあるんですね。わかりました。とりあえず床と机の資料とメモ書きをまとめます。選別は後で! あなたは洗濯物をまとめて洗う!」
「はいはーい!」

寝る時なんかどうしてるんだ、と一瞬思ってしまったが寝室は別だろう。向けそうになった意識を目の前に戻す。ゲストルームはないそうだから、ナナバも言っていた通り、友人の一人が安心して床やソファで寝られるくらいの場所の確保を念頭におけばいい。
何故だか楽しそうに「これは?」「あっちは?」と聞いてくるハンジに指示を出しつつ、モブリットはせっせと書類をまとめて掃いて拭いて、整頓に心血を注ぐことだけに集中したのだった。

「おおー……!」

そうして見違える程板張りの床が出現した自身の部屋を隅から隅まで見回して、ハンジが感嘆の声を上げた。

「すごい、部屋が広くなってる!」
「元からこの広さなんです。毎日整理整頓を心掛けてさえいれば……!」

部屋が広いと言っていたのはあなたでしょうが、思いながら額に手を当てるモブリットにはまるで構わず、ハンジはきょろきょろと視線を輝かせている。
まとめて仕舞って捨てて片づけて、掃いて拭いて、洗濯して。ゆうに三時間は経っていた。言い換えれば、三時間でどうにかなるのに、何で今日までしてこなかったんだという事に言及してはきっといけない。

「あーうん、へー、そうだね。すごい。モブリット手際いいなあ!」
「誤魔化さないで下さいよ。とりあえずこれからは読んだ本を出しっ放しにしな――……、」

ため息と共に言い掛けたモブリットのシャツが、くん、と引かれる。え、と思う間もなく唇に軽い衝撃があった。

「っ!?」

すぐに離れてしまった感触に顔を上げると、目の前でハンジが悪戯の成功した子供のようにモブリットを見上げていた。ぺろりと舌を出してはにかむように笑う。

「ふへへ、ありがとうモブリット」
「…………どういたしまして」
「コーヒー淹れてくるから、座ってて?」

リビングでつい先程まで本と洗濯物で埋もれていたソファを示して、ハンジはキッチンへと姿を消した。
二人掛けにしては余裕のある大きさのそれは、引っ越し祝いにナナバとミケがくれたのだそうだ。ベッドを買う前はよくこれに世話になったなあと言っていた焦げ茶色の皮張りのソファは、座席部分に同系色の布地でストライプ柄のクッションが一つ置かれている。大きめで、確かにごろりと横になるには枕として重宝しそうだと考えて、けれども家主がベッドを買って以降、座るという本来の用途より、おそらく書棚かチェストのよう役割だったことだろうとモブリットは頬を緩めた。
出しておいてというハンジの指示通り、邪魔にならないよう、ソファの端にまだ数冊積み上げている本はあったが、少し形の崩れていた中のビーズを簡単に整えてその横に置く。
そうして反対の端に座ったモブリットは、改めて部屋を眺めてみた。
東に大きな窓があり、南が腰の高さで出窓になっている。空気の入れ換えで開け放した両方から空気が流れて心地よい。ほとんどが本と植物といったシンプルなハンジの部屋は、彼女自身の拘りと身軽さにとても良く合っていた。
時折のぞく収納箱の青いドット柄やピンクチェーンの飾りが付いたボールペン等はおそらく貰い物だろう。物に頓着した様子のなかったハンジとの数える程のデートを思い出して推測しながら、モブリットは目を細める。
例えばここに、大きなピンクのハート柄のカーペットを送ったら、「ええーこれ?」と言いつつ敷いてしまうんだろうか。触り心地が悪くなければきっと敷いてくれてしまうんだろうな。それで「次からはきっと一緒に見に行こうよ。君のセンスは信用できない」くらいは言われそうだ。

「なに? 何か面白いものでもあった?」

膝に片腕を立ててぼんやり外を眺めながら笑っていたモブリットへ、キッチンから湯気の立つマグカップを二つ持って出て来たハンジがそう言った。
大分進めていた妄想を慌てて打ち消し、姿勢を正す。
ことん、とローテーブルの上にマグカップを置いたハンジが、モブリットの隣に座った。
余裕のあるソファの上で、モブリットに触れないまでも、少し動けばシャツが重なり、間にある空気を介して互いの体温が伝わりそうな距離だった。
心臓が小さく甘く跳ねる。

「す、座り心地いいですね」
「ソファ? うん、寝心地もいいよ。ナナバ達がこれなら横にもなれるだろうって選んでくれたんだ。さすがに連日だと身体が少しだるくなるけど」
「いや、ちゃんとベッドで寝てくださいよ」
「寝室は本当にベッドだけだからこっちで何かしてるとつい。本当は書斎用みたいだったんだけど、どうせ置き場が足りなくなるかなって思って、そっちを寝室にしたんだよね。そしたら寝るだけの為に行くのが面倒になっちゃって。――あ、でもベッドの上に本は……出してるけど今は寝られるよちゃんと!」

どんな言い訳だ。
何も口にはしていないモブリットの表情から、若干の呆れを感じ取ったのだろう。本当だよと息巻いたハンジに、何なら後で見てみてよとまで言われて苦笑する。

「信じますって」

ここに来て最初に目にしたリビングの様子から、本心では20%くらいで信じている。
――というか、そもそもそういうことでなく。
例えモブリットが信じなくても、初回に寝室はマズいだろう。そういう事にも頓着しない様子のハンジに、実のところ自分はどういう存在なのかとそんな懸念が頭を擡げた。安心安全? そんな勇気のない男? 傷つけるつもりは毛頭ないが、正直どこまで許されるのか――

「信じてないだろ」

うっかり無言になってしまったモブリットを、下から覗き込んできたハンジはむっと眉を寄せていた。
苦笑して、モブリットはマグカップに手を伸ばすことで、やんわりとハンジから距離を取った。不満げに見つめてくる彼女に「美味しいです」と笑うと、何ともいえない顔で口を噤んだハンジも、マグカップに口をつける。
いつもは仕事柄提供することの多い自分が、休日の昼下がり、こうして淹れてもらったコーヒーを飲むということが、とても贅沢だと思う。それもハンジ手ずからのコーヒーは、また格別だ。

さてこれからどうするか。

マグカップの半分くらいまで飲んでしまったコーヒーを机に戻しながらそう考え出したタイミングで、側に置かれていたクッションを抱いた彼女が、モブリット、と名前を呼んだ。片膝を立てて、クッションにもたれ、ハンジがふわりとした笑顔を向ける。

「本当に助かったよ。引っ越してから結構経つのに、なかなか片付け進まなくてさ」
「途中で読み出すからですよ。基本は本関係ばかり散乱してたんですから。それと洗濯はこまめにしましょうね。これから暑くなりますし」
「あー……うん、気に掛けるよ。で、呆れた?」
「少し」
「えー、じゃあまた溜まってももう来てくれない?」
「そ……っ、溜まること前提ですかっ」

また唇を掠めた時のような瞳でくすくす笑われて、モブリットは顔を逸らした。全くこの人は何だってこう無防備に心を揺さぶってくるんだろう。
休日に二人きり、初めての恋人の部屋で、ソファに並んで座りながら、肩の付く距離で談笑する。
腐海を見るまで、そうなったらどうしようと緊張していたシチュエーションが遅ればせながらやってきたことを改めて自覚して、モブリットは軽く目頭を押さえた。

違う、何を考えているんだモブリット・バーナー。
本当ならここにナナバがいるはずだった。いつも何だかんだと緩衝材のように気遣ってくれていた存在を思い出して、気持ちを落ち着けようと努力する。
ふう、と小さく息を吐くと、ハンジが苦笑したのがわかった。
そんなにおかしな表情をしていただろうか。
ちらりと盗み見てみると、す、と伏せられた視線に睫毛の陰が落ちていた。

「何か、モブリットせっかくの休日だったのに、つき合わせちゃって本当にごめんね?」

笑ってはいるがこちらを見ないハンジが、心底そう思っているように見えて、モブリットは思わず盗み見た彼女からも視線を逸らしてしまった。
せっかくの休日だから――滅多に合わない休みだからこそ。
こうして過ごせる理由が出来てモブリットは本当にとても嬉しかった。デートもままならない関係から、一足飛びに自宅訪問はすこぶる緊張したのは事実だが、けれどもナナバが来なくてもいいのに、と彼女の親友に対して――それに今までの恩に対しても酷い事を身勝手に考えてしまったくらいには、二人きりになれたことが自分は嬉しかったのに。
やはりハンジは違うのだろうか。
本当に部屋を片付ける荷物運びを部屋に入れたくらいにしか思われていないのかもしれない。自分と違い、緊張のきの字も見あたらない様子のハンジに、モブリットは「いえ」とだけ短く答えた。しばらく二人で沈黙して、「お役に立てたなら良かったです」と今更のように続けた台詞は、情けなく聞こえていないといい。けれどモブリットの心配はどうやら杞憂に終わったようだった。

「でも参ったよね。言い出しっぺのナナバは急に来れないとか言い出すし!」

クッションを腕に抱えながら器用にマグカップを傾けるハンジが、カップの縁をかちりと噛みながらでそう言った。言い出したくせにー、と分かりやすい文句を二回繰り返して、モブリットにも同意を促す。
それは正しい。けれども妙に上がったテンションでそう何度もナナバの不在ばかりを嘆かれると、自分は来なくても良かったのにと言われているような気になってきてしまった。
モブリットはあえてそれには答えず、テーブルの上のマグカップに指をかける。

「……本当に仲が良いですよね、ナナバさんと」
「ん? うん、まあね。ナナバとは付き合い長いし。――ああ、彼女とはサークルで知り合ったんだよ。その頃から美人で気さくで、あの子、ちょっと天然タラシなとこあるだろう? 男女問わずもてて人気があったんだ」
「ああ、何だかわかります」

その頃のハンジはどうだったのだろう。教えてくれるハンジの昔話のナナバよりそちらに気を取られながら、モブリットは簡単な相槌を打った。
ナナバはいわゆる男装の麗人のような人気を博していたに違いない。ハンジも同系統の人気があったと思うのだが、このままの彼女なら自分の人気にはきっと頓着していなかったことだろう。今より少し幼い輪郭のハンジを想像していると、ふと横顔に視線を感じた。振り向くと、ハンジがじっとこちらを見ていた。
学生時代の彼女を勝手に想像していたせいで緩みそうになった――いや、おそらくかなり緩んでいた――頬を慌てて引き締めて、最後のコーヒーを煽るように飲み干せば、ハンジがお代わりを聞いてくれた。
大丈夫です、と礼を言うと、何故かハンジは少し黙って、それから気を取り直したように自分も前に視線を戻す。

「……だからミケがかっ浚っていった時には、大騒ぎだったんだよ。私もちょっとだけ嫉妬したり」
「ハンジさんが?」

思わず目を瞠ってしまった。
物にも人にも、あまり頓着する姿が想像出来ない。ああでもやはり、特別な存在はあるんだな、そこにどうすればなれるだろう。
ハンジがあからさまな苦笑をモブリットに向けた。

「私だって人並みに嫉妬くらいするよ」
「あまり想像出来ませんね」

親友に彼氏が出来て嘆く姿は、まるで想像したことがなかった。けれどもモブリット自身のハイスクール時代、普段と同じように帰り支度をした結果、恋人と一緒に帰るからと放置された出来事が走馬燈のように一瞬頭を過ぎって、なるほどと一人ごちてみる。友達の幸せは幸せだが、少し複雑な嫉妬心も芽生えてしまう。人間とは不思議なものだ。
そんなことを取り留めもなく考えていたからか、ハンジの言葉を聞きそびれてしまった。

「――のことは想像出来たのに?」
「え?」
「――何でもない」

聞き返したが、ハンジは言うと自分のカップに残っていたコーヒーを煽るように飲み干した。

「あの」
「ねえ、これからどうしよっか」

こつん、とやや乱暴に思える手つきで空になったマグカップをテーブルに戻して、ハンジが話題を変えた。ワントーン上がった口調に違和感を覚える。が、それが何だかいまいち掴めないまま、モブリットはハンジの言葉を反芻した。
これから、そうだ。ずっと部屋で過ごすには、少し長い時間かもしれない。

「――あ、どこか行きたい所ありますか?」
「うーん、すぐには思いつかない。モブリットは?」
「すみません、俺も特には……」

本当ならナナバと三人、もっとワイワイふざけながら片付けて、時間がかかる予定だったのかもしれない。それに彼女がいれば会話ももっと弾んだだろうし、カードゲームという手もあった。二人でチェスは出来るだろうが、初めて過ごす恋人の部屋で場繋ぎのようなゲームは空しい。
今更言っても仕方がないが、外に行くという選択肢を考えて来ていなかったモブリットは、完全にノープランだった。デートとは違うが、ある種のダメなエスコート具合に内心で自分に呆れながら、ふと思いついて顔を上げる。

「ああ、そういえばシーナ・パークの池にカルガモの親子がいるそうですよ!」
「見たいの?」

一瞬ぱちくりと目を瞬いて、ハンジが表情を和らげた。
間違った選択肢ではなかったようだが、少し子供すぎたかもしれない。くすくすと笑うハンジに慌てて、モブリットは目の前でばっと手を振った。ハンジの部屋に行くという話が決まってから、周辺情報の一端として、駅からここへ来る途中に見えた公園の情報をくれたのは例によってナナバだ。

「あ、いえ、違いますよ!? あの公園、天気が良ければ散歩にも丁度良い場所だって、この前店でナナバさんが言って――」
「曇りだよ。午後から雨が降るって予報で言ってた」

赤くなってしまった顔で口にした言い訳を、ハンジが硬質な声で遮った。
今度はモブリットが目を瞬く番だった。
ハンジの顔から笑顔がすっとなりを潜めていた。何かマズいことを言っただろうか。何とはなしに聞くことが出来ず、モブリットは窓の外に視線をやった。

「……本当だ。傘忘れてきました」

天気予報は見て来ていない。出掛けが晴天だったせいで、道すがら出てきた雲にも日除け効果くらいにしか考えていなかった空は、確かに灰色がかった雲が大分厚くなっている。夜になる前には降り出しそうだ。

「そうだね。降る前に帰る?」
「え?」

いっそ無表情にも取れる顔で言ったハンジは、クッションをモブリットとの間に戻した。まだ片膝は立てているが、視線をくれないままに口早に続ける。

「ごめん。傘まだ一本しかないんだ。帰るなら早めがいいよ」
「あ、あの――!」

言外に帰れとあからさまに告げられて、モブリットは思わずハンジへ身体を向けた。
何かおかしい。どうして急に。
ふいと横を向いたハンジの肘が、積み上げていた本にぶつかる。届くはずのない距離を咄嗟に手を伸ばしたモブリットは、やはり同じように本を取ろうとしたハンジの上でバランスを崩し、覆い被さるような姿勢になった。
不慮の事故による接近に、ソファの上で二人の視線が交錯する。

「あ――」
「……モブ」
「す、すみません!」

乗り上げていた身体を慌てて起こし、モブリットはハンジを引こうと手を差し出した。振動で崩れた本が床に落ちる。

「大丈夫ですか?」

しかしハンジは床上の本を見ることもなく、モブリットをじっと見つめて、それから僅かに眉を寄せた。
差し出された手を取ることもなく、さっさと自分で身体を起こす。所在なさげに腕を引っ込めるモブリットを窺うように目を細め、がしがしと頭を掻いた。

「……モブリットってさあ、本当に私を好きなの?」
「は?」
「好き、は好きなんだと思うんだけど、それどういう好き?」
「あの、ハンジさん……?」

最初は下から睨むように、次に答えのないモブリットに苛立つように顎を突き出し、思わずジリとソファの上で後退ったモブリットを試すように身体を寄せる。

「私はさ」
「わ、」

身を引くモブリットの肩を押して、ソファの背に凭れさせると、驚いた声を上げた彼の顔の両側に、ハンジはとんと肘をついた。

「こういうシチュエーションになったら」
「え、ちょ」

息がかかる。

「こういうことしたくなる好きなんだけど」
「――……」

それはごくごく軽い唇への襲撃だった。
密度で言うなら、片付けのお礼にとされた不意打ちのキスの方が、よっぽど強く重なっていた。いつもの別れ際のキスの方が、もっと戯れの色が濃かった。
だがこれは――何かを堪えるような、溢れるような。ハンジの唇が震えているのかと錯覚するほどひっそりと重ねるだけのキスだった。
すぐに離れてしまった唇の意図を考えようとした矢先、ハンジがやはり何かを含んだような視線で、小さく息をこぼした。

「……さっき」
「はい」
「ナナバだったらこうしてた?」
「は――あ?」

何故そこで彼女が。
これもいつもの揶揄の延長のつもりだろうか。それにしてはハンジの視線は真剣だ。まるで、あの日、告白の時、彼女を好きなのと聞いた視線とよく似ていた。

「え、あの――」
「あー……」

ぽかんと口を開けてしまったモブリットをしばらくそうして見つめたハンジは、やおら呻くように天井を仰ぎ、そそくさとモブリットの上から退いた。
先程よりも少し端に寄って背中を向ける。

「ごめん、今のナシ。忘れて」

こてんとソファの背に頭をつけてこちらを見ない。

「……それって」
「言ったろ。私も人並みに妬くんだって」

不機嫌というより戸惑いの気配を色濃く感じる背中が、居心地悪そうにもぞもぞと動く。さすがに例の誤解が続行していると本気で思っているわけではなかったが、自分から話題を振ってきて、こんな帰結に持ってくるのはずるい。
好きだとは言われたし、デートもする。電話をして手を繋いで、それでもまだ自分ばかりが好きなのだと、どこか勝手に思っていた。それこそあの時ナナバが声を掛けてくれなければ、もっとずっと見つめているだけの想いだった自覚がある。だから余計に、ハンジが自分に緊張するなど実は考えてもいなかったのかもしれない。告白に告白で応えてくれたということを、おそらく軽く考えていた。うっかりといった感じで本音を漏らして、こちらを振り向けなくなってしまっているらしい可愛い恋人を、モブリットは今改めて知ったと思った。

「ハンジさん」

じわりと胸に沁み出してくる感情で、鼓動が大きく鳴る。全身で痺れるようにハンジを感じる。キシ、と音を立てたソファと沈みこむ重心で、モブリットがハンジの傍に寄ったのはわかっただろう。

「好きです」
「うん」

見てくれない恋人の髪を後ろからそっと掬って耳に掛ける。ぴくりと反応を返しつつ、まだ俯き気味の彼女に緩む口元を隠せない。モブリットは少しだけ強引にハンジの腕を自分に引いた。抵抗のない体がこちらに向く。その頬に触れる。

「ハンジさんが好きです」
「う――、ん……」

言葉を途中で飲み込んで、モブリットはキスをした。
最初は軽く、啄むように。何度も合わせては離してを繰り返し、それから口唇を割っていく。少し後ろに逃れそうになったハンジの後頭部に手を回して倒れすぎるのを支えながら、ソファの背に頭を緩く押しつけてやる。逃がすまいと片肘を顔の横についたモブリットに唇をなぞられて、ハンジが甘い息をこぼした。

「こういうことをしたくなる好き、ですよ」
「え、あ、うん――」

どこか惚けた返事をくれるハンジが潤んだ瞳でモブリットを見つめていた。好かれている、とはっきりわかる。たぶん今、自分も同じ瞳をしているからだ。ハンジの中に映る自分を確かめようとより顔を近づけて、ほとんど無意識に艶めく視線にうっそりと細める。
――と、ハンジの身体がずるずるとソファに沈み込んだ。

「わ、とと、ハンジさん――?」
「……ごめん。ちょっと、恥ずかしくなってきた」

驚いたモブリットの下、不自然にソファの背で身体を滑らせたハンジが、言いながら両手で目元を覆う。隠し切れない頬が急に赤い。なんて事を言い出すんだ。キスじゃない。寄り添えた心の距離が恥ずかしくて目を合わせていられない、なんて、大好きと言われるよりも胸がずっと熱くなってしまうじゃないか。
ダメか。このまま襲ったらダメか。人としてダメか。
――いや、ダメだろう。
瞬きの間に目まぐるしく葛藤した理性の勝利を知らないハンジが、唸りながら小さく呟く。

「あなたが、変な顔するから……」

変な顔。変な顔。同じ顔を、あなたもばっちりしていましたよと、目隠しをしたままのハンジに内心だけでそっと告げる。少し楽しくなってきた。衝動を抑えることで沸き上がってきた甘やかなくすぐったさを感じながら、モブリットは沈みこんだままのハンジからそっと距離を取った。

「ハンジさん」

優しく名前を呼ぶと、おずおずと指の間から視線だけで問い掛けてくる様子に、眦が下がってしまう。これがついさっき強引にキスを奪った人と同じなのだから、たまらないというものだ。
可愛いとは思っていたし、綺麗な人だとも思っていた。
更にこんないとおしさまで追加されては、彼女の意向に添うしかない。

「このまま進めるのと、カルガモを見に行くのと、どっちが良いですか?」

降り出す前に帰るという選択肢は、もう少し後で増やそうと思う。首を傾げて促すとハンジが一瞬言葉に詰まった。僅かでも、詰まってくれたのが嬉しいと思う。

「カ、カルガモ行こうか……!」
「見たいんですか?」
「先に言ったのモブリットだろう!?」

やはり予想通りの選択をくれたハンジは、けれども緊張が解けきってはいないらしい。今度こそ破顔したモブリットは、「なんだよ」とトーンの上がった彼女の手を引き立ち上がらせた。

「傘、貸してもらえます?」

手を繋いで玄関へと向かいながら聞いたモブリットに、拗ねたように唇を尖らせたハンジが、シューズボックスの横に掛けてあった黒い傘に手を伸ばし掛け、ふとそのまま引っ込めてしまった。
キーフックから鍵だけを取って、部屋を出る。

「あれ、傘は」
「モブリット、明日休みだっけ」
「いえ、でも夕方からですけど」
「私休み」
「?」

廊下を進み、エレベーターホールは使わず隣の階段を二人で下る。
ガラス張りのエントランスの向こうを、学生らしい自転車が数台風のように通るのが見えた。ドアに手を伸ばしたハンジの横から先に押してハンジを通すと、ありがとうと振り返ったハンジが手を差し出した。繋いだ指先が自然と絡む。

「午後までには乾くと思うよ、洗濯物」

厚くなりつつある雲の間に、まだ青空と陽光の眩しさを感じられる空を見上げて行きながら、ハンジがぽつりとそう言った。

「……」
「……」

シーナ・パークへは確かあの角を右に曲がる。緩やかな坂道を下っていけば開けた門が見えるはずだ。
降り出したならカルガモの親子はどこで雨を凌ぐのだろう。それとも悠々とそのまま優雅に泳ぐのだろうか。羽毛は雨を弾くらしいから、濡れてもそれでいいのかもしれない。午後に乾けばそれでいいとハンジが選択肢をくれたように。

「……早く、雨降りませんかね」
「カールーガーモー!」

思わず正直な願望を呟くと、繋いだ指を強くしながら、少し先行くハンジがぶはっと吹き出した。耳の先が少し赤い。指の先からじわじわとこみ上げてくる熱にモブリットも浮かされながら、繋ぎ返した手を振って歩く。
もう一度この坂を登る前に雨に降られたら、きっと二人で駆け抜けるのだ。期待と想像で笑ってしまったモブリットを、同じ笑顔でハンジも振り向く。

「カルガモいるかな」
「いますよきっと」

少しだけ早足になってしまったのはどちらが先か。
遠くで雷鳴が轟いたことに、モブリットも、そしてハンジも、もう言及しなかった。


******

大人な二人のおままごとみたいな関係の終焉――になりそうでそのまま雨降らなかったら、微妙な空気のまま帰る破目になってしまうので降ってあげてほしいです雨。