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やっと、はじまり 目覚めて、最初に見える光景は単純だ。
代わり映えのしないいつもの木の天井板は、丁度枕元の真上に亀裂のような染みがある。自分でつけた記憶はないから、おそらくこの部屋の前の持ち主か、はたまたその前の持ち主がつけた傷なのだろう。 俺はゆっくりと目を瞬いて、それからまだ重たい瞼に拳を押し当てた。少し冷たい指先の部分が気持ち良い。 シーツの中で伸びをして、ふと、違和感に気がついた。 というのも、いつもは伸びをした腕がベッドの頭側に取り付けている簡易棚に当たるはずで、それが何故か当たらなかったからというごく些細な違いからだ。寝返りを打った夜中、布団の奥に深く潜り込んだりしたんだろうか。 それにしては見える天井の位置が同じで、それが妙に頭の中を静かにさせた。 「……」 だが正体不明の違和感など些細なものだ。早朝まだ起ききっていない頭は夢と現実の狭間にいる。 体調は悪くない。風邪ではないなと安堵して、俺はむくりと体を起こした。ベッドの端から足をおろして── ──おろそうとして、床に届かない自分の足に俺は悲鳴を飲み込んだ。 *** 廊下を走る俺の姿に行き合った数人がぎょっとした顔を向ける。気づいてはいたが、それにかかずりあっている暇はない。 何故こうなってしまったのかはわからない。だが、まずは一刻も早く現状を把握する必要があった。 自分一人で部屋に籠っていればどうにかなる問題ではない。 目で見える範囲の体の異変を確認して、壁に掛かった鏡──にはまるで届かなかったので、机に備え付けられた椅子を押して運んで上に乗った。そうして映った自分の姿に、俺は今度こそはっきりと声を出していた。 「なんだこれ……」 知らない声は、思った以上に高く響いて、呆然としているはずの台詞は妙に上滑って耳に届いた。まるきり子供の声だ。変声期もきていない、むしろ男女の別もつかない頃の、それは幼児の声だった。 鏡の中には一人の子供が映っていた。 淡い金髪の分け目は真ん中。丸い頬は、このとんでもない事態に青褪めているかと思いきや、血色の良いピンク色で、小さな手でひたりと触れれば紛れもなく感触は俺のものだった。顔の比率的に大きく見える瞳を瞬く顔はまるで── ――――そう、俺は子供になっていたのだ。 人はあまりに予想外の光景を目の当たりにすると、おそらくそんなに激しい言動は取れないものだ。 ということを、まさか自分の身に降りかかったらしいあり得ない出来事で確認することになるなんて、いったい誰が想像する? 小さくなった頭の中は、せめてもの救いで思考は放棄しないでいられるらしい。 どういうことかはわからなかったが、シャツもスラックスも身に付けているものはそのまま体にフィットしてくれている。 椅子の背に掛けたままだったジャケットとベルトは装着不可の大きさだったため、ほとんど非番の私服よりラフな姿のまま、俺は部屋を後にした。 最初は早歩きだった両足が、いつの間にか駆け出していたのが、実はものすごく焦っている証拠だとはわかっている。わかっているが、とにかく早く伝えなければいけないこともわかっていた。 けれども昨日までとは違うコンパスの長さと機敏性に欠けた二本の足では、上手く走れている気がしない。よたよたしているような……いや、それはあまり考えないようにしよう。まずは彼女に会わなければ。事実を伝えて指示を仰いで── 子供の足で普段よりずっと遠く感じる廊下を駆けて、見慣れた研究室の前までたどり着く。 ドアノブに手を掛けようとして、背伸びとまではいかないが腕をぐんと伸ばさなければ届かないという事実がつらい。だがこの部屋の中、一番奥の研究スペースに目指す人物がいるのだから仕方がない。 重い、だなんて感じたこともなかったドアを体全部を使って開けて、俺は転がるように中に入った。 今日明日と第四分隊第一斑に逼迫した案件はない。様子を視るべき被検体も今はない。だとしたら彼女は自室よりもこの場所で、完成間際の企画書にかかりきりになっているはずだ。 朝一番で顔を合わせ、珈琲を淹れる。おはよう、と、早いね、のどちらを言われるかくらいの違いしかなかったいつもと、けれども今日は俺の事情が違うのだ。 「おはようケイジ。ぶんたいちょうは、おくか?」 「おは――は!?」 今の自分より高く積まれた書類の山をずんずんと進みながら、今日は先を越されてしまった部下に声を掛ける。 なるべくキリリと言ったつもりだったが、子供の口ってこんなに呂律が回らないのかと思う程の舌っ足らずはご愛嬌だ。突然の子供の登場に、二度三度と見直してきたケイジは無視して、彼の答えも聞かず、俺は分隊長の部屋をノックした。 「すみません、ぶんたいちょう。しきゅうお話したいことが」 「あ、こら!」 硬直の解けたケイジが、机と椅子を回ってこちらに駆け寄ってくる。 思ったより早く状況を理解したようだ。そう、見慣れない人物はたとえ子供姿でも要注意するにこしたことはない。まして分隊長に絡むとなれば尚更だ。例えそれが原因不明で幼児化しているお前の所属する副長だったとしても。 反応の早さに心の中で賞賛を送り、けれども今ここで引き離されでもしたら面倒臭い。正直な問題に後押しされて、俺はまた体ごとでドアを押した。 「こら、お前何する気だ!」 「ぶんたいちょう、しつれいしま――」 ケイジの手が俺の首根を掠めたのと、内側からドアが引かれたのとは、ほとんど紙一重の差だっただろう。 「ケイジ? どうかした――」 「う、――わ!」 ほんの僅か先に開いたドアのおかげで、ドアノブに張り付いていた俺はよろけるままに彼女の体に飛び込んでしまった。 ――正確には、足元に、だが。 「おっと!……子供?」 「ぶんたいちょう!」 手を差し出して支えられて、顔を見上げたら思わず大きな声が出た。 しかし子供の声では、ものすごく会いたくて会いたくて仕方がなかったような声音になってしまった。いや、現状報告の必要があって、探していたし、会いたかったし、それは間違いじゃないんだけども。 この声と口調では、恋い焦がれた想い人を見つけたようにも聞こえてしまって少し困る。会えたという安堵からか、胸が詰まって視界が潤んでしまったのも、たぶん感性豊かな子供になっているからだろう。そうじゃなければ説明がつかない。 「ぶんたいちょう、あの」 「……うん? 君、どこの子?」 見上げられて呼ばれた彼女も、さすがに面食らった顔をして、それからひょいとしゃがみ込んで俺に目線を合わせてくれた。 「ケイジの弟?」 「違います。すみません、分隊長! こいついきなり入ってきて」 「ちがう、おれは――!」 彼女に問われて、ハッと我に返ったケイジが俺を引き離そうと手を伸ばす。 それから逃げるように身を捩ると、分隊長がいいよと制して、俺の頭をぽんと撫でた。 たまの悪戯で俺の前髪をくしゃりとやる手つきとは違い、加減した優しさを頭のてっぺんに感じる触り方だった。 完全な子供扱いを受けて、「ぶんたいちょう」と剣呑な表情を作って見せたつもりだったが、この顔では決まりが悪すぎる。はははと笑った彼女に、少し強めにまた頭を撫でられただけになった。 「じゃあ兵団の誰かの子なんだろうけど、迷子かな。君、自分の名前は言える?」 その質問を待っていた。俺はバッと顔を上げて、目の前の上官に掴み掛らん勢いで言った。 「おれです! モブリットです! モブリット・バーナー!」 「モブリット……?」 「はい!」 やっと本題に入ることが出来た。ドンと左胸に拳を当てて大きく頷く。様になるとかならないとかは二の次だ。 俺の真剣な名乗りを受けて、分隊長は大きく目を見開いた。マジマジと顔を覗き込む。 無理もない。こんな状況、俺自身が理解も説明も出来ないのだから。 けれども彼女は笑い飛ばすでもなしに真剣な表情で俺を見つめ、それから眉間に深く皺を刻み込んだ。 頭からどかした手をゆっくりと自身の顎につけ、考え込むように小さく唸る。 「ぶんたいちょ……」 「モブリット……の、隠し子!」 「ちがいます!」 残念な回答に俺は拳を握って全力で否定することになったのだった。 *** 「あの……ぶんたいちょう、おろしてもらえませんか」 「ん? 遠慮しなくていいのに」 「みんな見てますから!」 ――あれから。 事の経緯を説明しては見たものの、やはりというべきか、当然すぐに信じてもらえるわけもなく。 完全に疑いの視線以外を向ける気のないらしいケイジを頑として拒否していると、分隊長自らが俺の世話――というのは不服だが――を買って出てくれた。正体不明の子供を前に危険だと慌てるケイジにひらりと手を振って「彼の父親を探してあげればいいじゃない」と言った分隊長は、さっさと俺の手を取って研究室を出てしまった。 あいにく俺の父親は一般市民で、兵舎にはいない。 俄かには信じられない事態だがどうにか信じてもらわなければという思いから、手を引く分隊長と引かれて歩く俺に行き交う仲間達から好奇の視線が向けられても、一向に気にする素振りのない彼女へ何度も必死に説明はした。けれども「よし、じゃあモブリットを探してみようか」と言った彼女にひょいと抱きかかえられて兵舎内をうろついての今だった。 巨人への飽くなき探究心と好奇心の権化のような普段の言動も手伝って、傍にいるのがこんな子供姿では、全く釣り合いが取れていない。いや、取れないどころかおかしな噂話が俺の耳にすら聞こえ始めてしまっていた。 曰く「ハンジ分隊長に子供」「モブリット、いつの間に」―― 妙齢の女性が幼児を抱えて「モブリット知らないかな?」「彼に用があるんだけど」などと尋ね歩いているわけだから、その疑いはさもありなんか。だがあらぬ疑いがこれ以上口さがなくなってしまっては、分隊長に申し訳が立たない。 「恥ずかしい?」 きょとんとした顔で覗き込んできた彼女の腕から身を捻って下に下りる。 「おっと」 「あなたにおかしなウワサがたってしまいます」 「……それが理由?」 「ほかになにか」 憮然と見上げると、分隊長はふっと柔らかく微笑して、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。 「……真面目だなあ! 本当に君、モブリットみたいだ」 「ですからそのモブリットですとなんども――」 「うんうん、じゃあお父さん探し続けようか」 「だから――っ、ぶんたいちょう!」 ケイジほどあからさまではないだけで、彼女も大概信じてはいない。 ひょいと俺の手を取った分隊長と連れ立って歩きながら、がくりと肩を落とす。「君がモブリットだと言うのなら、まずは彼の不在を確かめないと。少なくとも君の仮定を証明する足掛かりにはなるだろう?」と最もらしい理論をくれはしたが、完全に父親候補として探しているのは明白だ。そこの潔白は信じてほしい。 「君、5歳くらいかなー」 「……そうみたいですね。おれもなんでこんなことになってしまったのか」 「5年前……あいつ、そんな素振りなかったのに……」 「ぶんたいちょう?」 「ああ、ごめんごめん。君のお父さんについて考え事を」 「だからちがいますって!」 彼女の中でかなり確定事項になりつつある言い方にすかさず否定を試みる。けれども、うんうんと笑いながら頭を撫でてくる分隊長が本当に信じてくれたかというと、かなり期待は薄い気がした。 だがこの反応はある意味予想の範囲内だ。逆の立場なら俺だっておそらく同じ可能性を考える。 突然分隊長によく似た子供が現れて「モブリット?」などと呼ばれたら――父親は誰だと混乱するだろう自分が容易に想像できてしまう。その子の年齢を考えて、自分が傍についた年数と比較して、記憶を必死に探る姿が見えるようだ。 その顔に見知った知人の面影はないかを確かめるし、彼女に良く似た面差しに泣けてくる――かもしれない――いや、違う。それは別に分隊長をどうと言っているわけではなくて、ただ、いつの間にという驚きや、何一つ知らされてこなかったという事実に対する遣る瀬なさや、そういう色々がこんがらがった結果であって、彼女がそれを望むなら俺は全力でサポートする。――だろうと思う。 「お父さんと似てるって言われるでしょ」 「ちちにですか? ――いえ、おれはどちらかというと、ははににてると」 「ふうん、お母さん似なんだ……?」 「――あ、ちがいますよ!?」 そんな噛み合わない会話をところどころで交えながら、何度もあっさり抱きかかえられ、もがいてはおり、手を繋いで見知った仲間へご挨拶――を繰り返して早二時間は経過したか。 途中「お腹空いたろう?」と手を引かれ立ち寄った食堂では、食べやすい大きさにパンをちぎってくれたり、スプーンの持ち方に苦笑しながら手伝ってくれたり――子供の手では食べずらいことこの上なかった――とごく自然な世話を焼いてくれてしまったおかげで、不本意な噂は限りなく広がってしまったようだった。声を抑えた囁きも、食事時の人数の多さではかなり大きく聞こえるものだ。 そんな口さがない噂話の中、いかにも子供好きといった体で相好を崩して近づいてきたのはペトラくらいだったが、「モブリットを見なかった?」という分隊長の問い掛けに、何を察したのか一瞬表情が固まって見えた。 「……この子、ハンジさんの」 「ははは、違うよ。モブリットのだ」 「ちがいますって」 「……似てますよね、すごく」 「おれは」 「そっくりでビックリしたよ」 「ですから」 「モブリットさん、最ッ低……」 吐き捨てるように言ったペトラの声音は、今まで聞いたことのない低さで、俺は思わず身が竦んでしまった。ははは、と軽快に笑う分隊長も子供の俺に向ける顔とは違って見える。いっそ冷気さえ立ち上って見えて、俺はぶるりと両肩を抱いて口を噤んだのだった。 そうして食事を終えて、しばらく。 少し休憩をしようかと言った分隊長に示されて、中庭のベンチに腰を下ろす。といっても勿論足はつかない高さで、彼女に抱え上げられる前に、自分で後ろ手をついて勢いをつけて乗り上がったのだ。 ぷらぷらと膝の下を遊ばせていると、横目で見ていたらしい分隊長がぶはっと笑って俺の頭を撫でてきた。 「な、なんです?」 「ごめんごめん。何だか可愛いなあと思って」 そう言ってぐりぐりと髪をかき回す仕草には確かな愛情が感じられた。 真っ直ぐ見下ろされる視線もずいぶん柔らかく、初めて向けられる類のものだ。 優秀な兵士の顔とも、尊敬する上司の顔とも、二人きりの時ごく稀に滲ませる女の顔とも違う表情に、小さな胸の鼓動が鳴った。 「そういえばお母さんと来たんじゃないの? お父さんに会いに来た?」 「だから」 「モブリットはそこかなー」 「ちがいますとなんどいえば!」 「お父さんの名前わかる?」 「もおおお!」 「……似てるなあ、本当」 「――っ」 ほとんど額のくっつきそうな位置でマジマジと見つめられて、抗議の声は詰まってしまった。 巨人の可能性や新しい仮定を語る時に似て、そこに優しさが溢れて見える。そんな愛おしげな視線を向けられれば、胸の高鳴りがまた一つ大きくなった。 「……こども、おすきなんですか」 今まで特にそんな話をしたこともないし、調査兵団の中にいて小さな子供と接する機会もとんとない。何だか今更の質問は秘密を暴いているような気持ちになって、もじもじと膝を合わせてしまう。ハンジさんは驚いたように目を見張った。 「――そんな話、モブリットともしたことないなあ」 「え?」 思わずといった風に呟かれた言葉は小さすぎて耳に届く前に風に消える。聞き返すと、ハンジさんは何でもないよと微苦笑を浮かべた。もう一度優しい手つきで俺の頭をくるりと撫でる。 「嫌いじゃないよ。君たちは大切な人類の宝だ」 「つまり……」 好きでもないということだろうか。 曖昧な言葉をそうとらえていると、ハンジさんがふと目元を下げた。 「……未来に繋がる希望でもあるんだよ。元気に強く生きてほしいと思っている。君達のような希望を生み、育てている全ての人を尊敬している。君の――ご両親のことも」 言いながら、何故か少しだけ細められた視線が切なさを含んで見えて、俺は無意識に彼女の頬に手を伸ばしていた。 一瞬泣いているようにも見えた眦をそっとなぞる。その指がどうしてこんなに小さいんだろうとぼんやりと思う。 何でそんな顔をしてるんですか。何か辛いことがありましたか。俺で良ければ傍にいますから。分隊長、いさせてください――…… 「……だいじょうぶですか?」 「え?」 「――……あ、わ! す、すみません!」 やけに高い子供の声と、眼前ではっきりと驚いた顔をしたハンジさんの様子に我に返った。 いくら子供の姿とはいえ、いきなり触れるのはいかがなものだ。 「すみません、ぶんたいちょう! あの、いまのは……」 「ハンジでいいよ」 なれなれしさに平謝りしていると、小さく吹き出したハンジさんが肩を揺らしながらそう言って、また俺の髪をくしゃりと撫でる。いいこいこ、という手つきがそのままぴったりはまりそうな暖かさに、おずおずと見上げると、さっきまでの切なさはすっかり見えなくなっていた。 「参った。君、本当にモブリットに似てる」 「だからそれは――……ぶん、ハンジさん?」 眉を下げて柔らかく目を細めた彼女が、俺の頬を優しい手つきでそっと撫でる。 「小さい頃こんな感じだったんだろうなあって想像できちゃうくらいだよ。遺伝子ってすごいね。髪も目の色も、おお、分け目まで同じだ! ――ふふ、でもほっぺたは君の方が可愛いけど」 悪戯に指先でつついて微笑される。 その目が、表情が、触れている俺を通して、別の誰かをみているようで、急に身体の中を風が吹き抜けていくような寒さを感じた。 ここにいるのに。俺に触れているくせに。似てるといって、知らない表情で、そんな顔で笑いながら、俺のことを見ていない――その事実に気づいて、更なる突風が急激に押し寄せてきて、胸が張り裂けそうになってしまった。 「だから、おれが……!」 「うおっ!? え、なになに、どうした!」 同時に、ぼろりと涙がこぼれた。 「えっ、ちょっと、え?」 急にボロボロと泣き出してしまった子供に、ハンジさんが狼狽した声を出した。あたふたと助けを求めて辺りを見回し、誰もいないことを確認して、また泣いている俺に視線を戻す。 泣くまいと目元に力を入れてぎっと睨み上げたつもりが、潤んだ視界で随分全体がぼやけて見えた。食いしばった奥歯がぎりりと鳴って、涙はおかしなくらい後から後からこぼれ落ちてきてしまう。まるで感情のコントロールがきいていない。 俺自身、こうして涙を流すことはもう随分経験がなかった。鼻の奥がじんとするような痛みも、記憶は遠い彼方のことだ。 それがどうして今、彼女の前でこんなことに―― 頭は冷静に羞恥心を促すのに、心の起伏が激しくて、流す涙は止まってくれない。本物の子供のようにしゃくりあげながら、どうにか腕で顔をこすり上げる。ぼやけた視界で、それでも真っ直ぐハンジさんを見上げ直す。 「……っ、だから、おれが、モブリットです!」 説得力の欠片もないな、と自分で思う。こんな言い方をする副長を彼女は想像もしないだろうから。 けれどもそう主張するしかない俺を困った顔で見つめていたハンジさんは、光明を見出したかのように笑顔を作って頭に触れた。 「わかったわかった、モブリットね!」 「あんた、ぜんぜん、しんじてない……!」 そんなおざなりな言葉を聞きたいわけじゃない。 風呂に入るよう呈した苦言に「ハイハイ、入る入る」と顔も上げず答えられた時よりもその場凌ぎが丸わかりの回答に、余計涙がぼろりとこぼれた。 彼女は俺を探している。 けれども、目の前の俺の事は見ていないのだ。 不意に、このまま元に戻らなかったら、という思いが足下を掬った。頭の奥がずきりと痛む。 戻らなかったら――そもそも戻れる保証など端からなかった――それでも、もしかして彼女が信じてくれたなら―― いや、信じてくれたから何だって言うのだ―― この身体じゃ馬には乗れない。立体機動だって不可能だ。 子供の駄々のような呼び掛けで、飛び出していってしまう分隊長を止めるなんて出来るわけがない。 こんな頼りない小さな手足で、到底傍にはいられない―― 絶望的な結論に行き着いて急に全身力が抜けた。 だらんと落とした両手がまるで自分のものではないように冷たくなっていく。それでも止まらない涙だけが、無駄な抵抗のように俺の頬をこぼれ落ちていく。 「……、……ット」 「――――」 微かに、名前を呼ばれた気がした。もうずっと彼女の口から呼ばれることはないと思っていた自分への呼び掛けのように聞こえて、俺は悄然とした視線を動かし、ついで不意に脇腹を抱え上げられて息を飲んだ。 驚愕に瞬いた瞼から溜まっていた涙が落ちて、視界が少しだけ明るくなる。その目に困惑したハンジさんの顔が映った。 「泣かないでよ」 自身の膝に抱えた俺にそう言って、瞼の上に戸惑う唇を落とす。 そのままこつんと額をつけて、ハンジさんは覗き込むように俺を見た。 「君が何者なのか、正直まだ判断はついてない。けど……知ってる人にすごく似てるとは思っているんだ。……そんなに泣かれると、どうしていいのかわからなくなる。いや、彼が泣いているところなんて見たことないんだけどね」 苦笑しながら涙の跡を指で拭う。 「泣かないで。男の子だろう?」 それから本当に途方に暮れたといった表情で、俺の小さな身体をそっと抱いた。 よしよしと背中をあやされて、視界がまたぞろ滲み始めてしまった。 逆だ。その背中を支えるのは、俺の手でありたいと思っているのに。 どうしてこんな、彼女の肩口に顔を埋めて、唇を噛みしめてこうしているんだ。 ――俺が、そうしたいのに。 本当は、俺が――俺が、あなたを。 あなたを、ずっと―― この想いはどうすればいい。 「――き、です」 「ん?」 今までずっと伝えきれずに逃げていた想いが、ぽろりと口をついて出た。これも子供のなせる技とでもいうのかもしれない。 ハンジさんがあやすように俺の顔を覗きこむ。 「すきです、ずっと、すきでした」 すごくすごく、あなたのことが、どうしようもなく。 ボロボロと涙を流しながら好きな女の膝の上で抱かれたまま、告白をするなんて思いも寄らないシチュエーションだ。けれどもこの姿がいつ戻るとも知れない今、言葉も想いも止まらなくなった。どうしてこうなったのかわからない。そう、何が起こるかわからないのだ。それはずっと巨人という外部の要因に寄るのだと思って――いや、思い込もうとしていたのだと気づいてしまった。 伝えることが全てじゃない。伝えない事が正しい事もあるのだとわかる。けれども今、俺を捜す彼女の心に、少しでも俺がいるのだと思った。伝えたい。あなたの心が知りたい。こんな抑えきれない欲望も、俺が子供だからだろうか―― 「ありがとう」 ハンジさんは驚いたように目を丸くして、それから不意にその眼を細めた。眼鏡の奥で柔く笑んだ表情が、苦笑ではなく緩んでいる。そうしてまた俺の頭を優しく何度も撫でてくれる。それは、あきらかに子供に対するものだ。 「ほんきですよ」 「うん、ありがとう」 「……」 くそう。 先程までとは少し違う、けれどもやはり子供に向けての真面目な返事に、俺は視線を下に落とした。 「泣いてる?」 「……おれじゃダメですか」 「はは、そういう台詞はどこで――」 言い掛けて、ハンジさんが言葉を切った。 俺の髪から手を退けて、少しだけ躊躇う気配の後に「モブリット」と名前を呼んだ。 上辺だけなぞるような声だったけど、もう一度彼女の唇から呼ばれた名前に、不覚にもまた込み上げてきそうになった。 「……ごめんね。君はいい子だと思う。好きか嫌いかの二択なら迷わず好きだよ。でもそういう意味じゃないんだろう?」 頷く代わりに顔を上げる。彼女は笑っていなかった。子供に向けるには場違いなほど、真剣な表情で俺を捉える。 それからゆっくりと口を開けた。 「大切な人がいるんだ。だから――君の気持ちには応えられない」 それは、明瞭な拒絶だった。胸の奥がどくりと鳴った。 いつから。いや、いちいちそんな話を打ち明ける義務は互いに勿論ないけれど、でも、そんな素振りただの一度も――いや、自分が気づかなかっただけなのか。 名前で上がったテンションが、涙と共にすっと引っ込んでしまった。 「……そ、それはだれで……あ、いえ」 それを俺が聞いていいのか。ぎりぎりの所で踏みとどまった俺に、ハンジさんがきゅっと唇を結んだ。それからそっと俺に触れる。 「君のお父さん」 「え――」 真剣な声音は決してふざけてはいなかった。 君のお父さん――それは、つまり、あなたは今、俺を誤解しているのだから、本当に、まさか―― 「――なんちゃって」 時間にすればほんの数瞬、絡んだ視線を慌てたようにハンジさんがくしゃりと表情を緩めて、グシャグシャと俺の頭を掻き回した。 「ん? あれ、これ君に言うのはまずいよな」などとブツブツ言いながら、頭をこね回す手の動きが激しくなる。それは今までよりも、ずっと、普段の俺に対する動きによく似ていて。 胸がきゅっと苦しくなった。視界が滲む。 本当ですか、本当にあなたは―― 戻りたい。戻りたい――どうか。 今すぐにこの人を抱きしめる腕が、手が、身体がほしい―――― あれだけ毎日傍にいて、いつでも出来ることを怠ってきたつけなのか。 もうわかったから。反省したから。もう逃げないと誓うからどうか―― その時だ。 ドン、と壁の向こうから聞きなれた衝撃音が聞こえた。 反射で振り向いた先に、赤の信煙弾がもうもうと空に上っていた。定期哨戒の兵士が行き合ったものに違いない。が、随分近い。 おそらく同時に見上げたハンジさんが、素早く俺を下ろして立ち上がった。 「――ハンジさん!」 「君は中に戻ってるんだ。一人で行けるね? 大丈夫、さっきの部屋まで行かなくても目についた兵士――ああ、この服を着た大人に助けを求めて。いいね!」 「まっ――、ダメです! おれも――……!」 伸ばした手が空を切った。彼女の背中が遠去かる。 短いコンパスを必死に繰り出して、しかし全く届かない。彼女のスピードにまるで。 絡んだ足が地面に跳ねて、俺は頭から転がった。構わず上げた視線の先に、遠く羽ばたく自由の翼。 届かない。届かない。追いつけない場所に行ってしまう―― 待ってください、俺も行きます。行きますから、一人で生き急いだりしないでください――――! ***** 目覚めて、最初に見える光景は単純だった。 代わり映えのしないいつもの木の天井板は、丁度枕元の真上に亀裂のような染みがある。自分でつけた記憶はないから、おそらくこの部屋の前の持ち主か、はたまたその前の持ち主がつけた傷なのだろう。 俺はゆっくりと目を瞬いて、それから飛び起きるように掛け布団を跳ね飛ばした。 ベッドの端から足をおろして──ひやりと冷たいいつもの床が俺の足裏にぴたりとついた。 鏡に映った顔は見慣れたいつものそれだった。 安堵よりも何よりも、焦燥が先に立つ。身支度もそこそこ自室を出ると、迷うことなく研究室に足を向けた。 ドアを開けるのに、体当たりは必要なかった。腕も届くし、ドアノブを回せばガチャリと開く。 見回した室内にケイジの姿はまだないようだ。 確認した時計はいつも通りの時間を刻み、予定通りなら彼女はこの奥にいるはずだ。こんもりと積まれた書類の山に囲まれながら「おはよう」と言う。俺は珈琲を淹れて彼女に渡し―― 「あれ、モブリット」 一歩踏み出した掛けた背中に、耳慣れた声が飛び込んできた。ボサボサの頭をいつも通りに適当に結び、眼鏡の奥できょとんと明るい色の瞳を瞬かせて俺を見ている。その視線が少しだけ上を向く形で見上げていて、俺は身体の向きを変えた。 彼女の後ろ手にドアの閉まる音がする。 「早いね。ん? 何、どうかし――」 「……!」 その音とほとんど同時に歩み寄った彼女の身体を抱き締める。 身長差のほとんどない、それでも俺よりはやはり細身の身体は腕を回せばその中にきちんと収まってしまう。それに言いようのない安堵と愛しさがこみ上げて、回した腕に力がこもる。 「……おはようございます」 「お、おおう!? え、お、おはよう、モブリット」 髪を梳いて耳朶に寄せた頬が彼女の熱を感じる。 ああそうだ。本当にずっとこうしたかった。 戸惑うハンジさんが、少しだけ俺を押し返して、それでも緩まない腕に何かを察したのか、ポンポンと背中に腕が回った。 「どうかした?」 声音が甘い。それだけで鼻の奥が痛くなったのは、まだ少しあの頃の感覚が抜け切れていないのかもしれなかった。 「夢を……」 「夢? 寝覚め悪かったの? 怖い夢だったんだ?」 言い掛けて続かない言葉をハンジさんが拾ってくれた。揶揄ではなく、本当に心配してくれているらしい口調がいつになく耳に届き、甘い疼きに足下から絡め取られる。 怖いなんてものじゃない。あなたに届かない悪夢だった。 まだ続きを言えないでいる俺の背中を撫でる手が優しく上下に動いて、それからととんと叩かれる。 「あ、ねえねえ。私も何か変なの見たかも」 「……分隊長も?」 それで少しだけ腕を緩めて、しかし決して離さない距離で、俺はハンジさんを覗き込んだ。 視線の合った彼女がごそごそと腕を移動させて、俺の頬にそっと触れる。 様子の違う俺を労るように何度か撫でて、それから困ったように眉を下げた。 「笑わないでよ?」 「はい」 「……モブリットに隠し子がさあ」 「いませんから!」 思わずもう一度強く抱き締めてしまった身体に大きな声で否定して、俺はぶるりと頭を振った。 いったいどこまでが夢だったんだ。 でも今は、繋いだ身体の温もりが、これが現実だと教えてくれる。この感覚は本物だ。思い出せば冷や汗と吐き気を催しそうな絶望感を払拭して、俺はハンジさんの耳元にそっと唇を寄せて呟く。 「俺も、変な夢を見ました」 「……うん。どんな?」 「笑わないでくださいよ?」 ケイジ達がやってくるまでそう時間はない。 うん、と頷いてくれた彼女の頬に両手を移して、一世一大の告白の為に、俺は息を吸い込んだ。 【Fin.】 |