男と女と上と下




もうこのドアを開ければ自室というところで、突然名前を呼ばれたモブリットは動きを止めた。
途中で何度か仮眠を取っていたとはいえ、ほぼ徹夜の数日がようやく終わり、班員それぞれに労いの言葉をかけた後で解散をして、今日は久し振りにベッドで眠れる日になるはずの夜だった。
声の主は見ずとも分かる。
まさか自分の部屋が汚すぎてベッドが書籍に埋もれているとかそういうことだったりするんだろうか。
随分緩みだしていた頭でそんなことを考えながら振り向くと、思った以上に近い場所に彼女はいた。

「分隊長?」

モブリットにしては珍しく、もしそうなら、今夜はこのまま自分の部屋になだれこんでもいいくらいの気持ちはあった。そうして翌朝彼女の部屋に二人で戻り、小言を言いつつ片付けるのでも別にいい。
そう思ったのは、たぶん五分も前ではなかったと思う。

「――あの、これは一体どういう状況でしょうか……」
「ちょっと確認したいことがあって」

ぎちりと後ろ手を縛られベッドの上に転がされて、息を吐く間もなく背中に乗り上げたらしい上官で恋人でもある女の気配に、モブリットはマットに顔半分を埋めたまま、首だけ捻って口を開いた。

「それで何でこんな、ちょ、どいてもらえませんか」

返事も待たず、ほとんど拉致監禁の勢いで部屋に押し入ったハンジは、そのままの勢いでベッドにモブリットを押し倒していた。いや、正確には組み敷いていたというべきか。
真っ当な意見を下手に伝えたモブリットは、しかしまるで退くつもりはないとでも言うかのように、どこからともなく取り出した紐で、ハンジに後ろ手を縛り上げられてしまった。

「ちょっと、ハンジさん!?」
「まず質問が先だ。モブリット、上と下、本当はどっちが好き?」
「何ですかそれ――……」

質問の意図がまったくもって理解できない。
よしんば今すぐの回答が必要な事柄だったとして、この格好に意味はあるのか。いや、たぶんないだろう。
だからまずは背中からどいてもらいたい。
けれど、顰めた眉を見もせずにハンジはモブリットのシャツを乱暴にズボンから引き抜いた。
突然衣服の下に入り込んできた外気に肌が震え、モブリットはビクリと肩を跳ねさせる。

「え、あ、あの、そういう意味、です?」

そのまま背中をまさぐられ、くすぐったいような緩い刺激に惑わされているような気持ちが頭を擡げてくる。
モブリットは僅かに身を捩ることでその感覚を逃がしながら、自分に乗り上げたままひたひたと肌を見聞するハンジの真意を探ろうと試みたが、やはりどうにもわからないばかりだ。

「で、どっち?」

モブリットの質問に明確な答えはくれないまま、ハンジが再び質問を重ねた。
その手が前に回されて、後ろからシャツのボタンをひとつふたつと外していく。けれど俯せのままの身体では、さすがに全てを外すことは出来ないらしい。諦めた手がモブリットの腰に戻ってきたかと思うと、おもむろにズボンの前へと回されて、ホックに指が掛けられた。勢いで腰もぐっと持ち上げられて、モブリットは抵抗を示しつつ思考がぐるぐる唸り始める。

「ど、どっちって、ちょっ、と、ハンジさん?」

そういう意味でいいなら、どちらも嫌いなわけがない。正直、時と場合と気分による。
普段はどんなに引き留めようとも、隙を見てすかさず人の制止を振り切って行こうとする分隊長が、声を殺しきれずに必死でしがみついてくる姿というのは正直男として本当にクるものがあるし、おそらく自分にしか見せないだろう悪い女の顔をして人の反応を伺いながら、そのくせ情欲に濡れた顔で見下ろされるのもたまらない。
けれども今この体勢で下手なことを言おうものなら、何をされるかわかったものではなかった。
本能的に危険を察したモブリットが、上に乗るハンジを退かそうと身体を跳ね上げる為に力をこめる。

「そんなの上に決まって――」

――ああ、でも。
モブリットの脳裏にちらりと数日前の夜が浮かんだ。
腰を痛めた自分を気遣い、慣れない動きで一生懸命してくれた彼女は、本当に、ものすごく可愛かった。
もしかしてこの質問は前回の行為に関係しているのだろうか。
咄嗟に口を噤んだモブリットの頭が疲労と興奮で回転を速める。
その間もホックを外し終えたハンジの手が、下着の上から際どい部分に触れようとするのをどうにかこうにか躱しつつ、モブリットは一か八かの賭けに出てみることにした。

「……下も、良かったですけど」

上と言い掛けた言葉を訂正すれば、何故だか後ろでハンジの動きがピタリと止まった。

「……」
「……」

そうしてしばらく。
待てど暮らせど背後からは、完全に音沙汰がなくなってしまった。
おそるおそる首だけ捻ってハンジの様子を伺ってみれば、何故だか絶望にまみれた表情でモブリットを見下ろしている姿がそこにあった。

「――……あ、あの……?」

どうやら答えを間違えたらしい。
上下への質問は、この間の晩とは関係なかったということか。ならハンジは一体何を聞きたいのだろう。
実験には何も問題はなかったはずだ。プライベートか? いや、そちらも問題は特になかったとモブリットは思っている。なら何だ。上か下か? 立体機動の新しい連携にそんな指示は思い出せない。
全く身に覚えも記憶もなさすぎて、モブリットの頭の中を疑問符が飛び交い始めた時だった。
無言の落ちた室内で、ハンジの手がズボンの袷からゆるゆると退く。

「ハンジさ――」

と思ったら、背中のシャツをぎゅっと掴まれ勢いよくエビ反りにされて、モブリットは悲鳴を上げそうになった。

「イッ!?」
「下がいいとか経験済みかよ!」
「け、経験させたのアンタですけど!?」

何が何やらわからない。
後ろ手に拘束されて上に乗られ、下半身を悪戯に遊ぼうとした恋人に、突然何かの犯人よろしく反り返されて意味のわからない詰問をされているこの状況だ。
これで意味がわかるなら頭がどうかしていると思う。

「まっ、待ってください。ちょっ、と、この体勢本当にキツい……ッ」

ギリギリと締め上げるように持ち上げられていた上半身が自由にならない。

「あの、だから、ちょ……とっ」

このまま自分を落とすつもりかと薄くなりかけた意識を漠然と危惧していたモブリットから、ハンジがいきなり手を離した。

「なんってことだ!」
「ぶふっ!」

おかげでどうにか意識は取り戻せたが、代わりに思い切りベッドマットへ鼻が強か打ちつけられる。
クッション性などほとんど飾りの兵団ベッドに、何の受け身も取れず打てば少し涙も出そうになるというものだ。が、さすりたくとも自由のない後ろ手では何をどうすることも出来ず、やはり馬乗りになられたまま、モブリットはどうにか息を整えた。
もう一度気を落ち着けて、ハンジに話を聞かなければ。
そう思うモブリットの耳に、後ろに乗ったハンジから何やらぶつぶつと呟く声が聞こえてきた。

「いやそりゃあ私が架け橋みたいなものかもしれないよ? しれないけど、それはそれだろ……まさか、いや、仲が良いのはいいことだよ? いいことだけど、……でも何もそっちの方まで仲良くならなくたって良かったじゃんか!」
「ちょっと待ってください。何の話を」
「……から」
「はい?」
「いつから!」

いつからって、下になった日が、ということか?
確かにこの前が初めてじゃないし、ハンジとの付き合いもそれなりに長い。だけど最初に彼女が上に乗った正確な日付など、モブリットは覚えていなかった。自分の落ち度ではないと思う。おそらく世の大半の男性は覚えていないだろうし、女性だってそうじゃないのか。そもそもそんなことを思い出させてどうするつもりだ。

(待て待て待て。だからこれは何の質問なんだ? まさか記念日を忘れたお仕置きとか――……まさか。ないな。それはない。ハンジさんが今更そんな馬鹿な。ない。じゃあ何だ?)

いつもの突拍子もない思い付きだと無視するには、ハンジの顔が真剣すぎる。
むしろ苦しげに歪められているようにも見えて、戸惑いながらモブリットは必死で頭を捻って逃げ道のありそうな答えを口に乗せてみた。

「だ、だいぶ前から、でしょうか……?」
「昔からか―――!!!」

だがまた回答は外れたらしい。
言うなり両手で頭を抱え天井を仰がれて、モブリットの方が天を仰ぎたい気分になる。
何だ。何が正しい答えだ。正解はどこだ。
乱暴に髪をかき乱すハンジに、モブリットはどうすればいいのか、やはり全くわからなかった。
しかしこれ以上振り向きたくとも、背中に乗られたままでは動くこともままならない。鍛えた両太腿でしっかりホールドされた身体はもどかしいくらい自由が利かず、モブリットは出来うる限りの筋肉を使って後ろを伺いながらハンジに声を掛けた。

「ハ、ハンジさん!? 何なんですかちょっと!? どうしました?」
「遊び? 本気?」
「だから何が――」
「――モブリット」
「は、はい!」

急にハンジの声が沈む。
と思ったら、背中全体にくたりとハンジの重みが掛かった。
肩甲骨の辺りに額をぐりぐりと押しつけられ、何だかよくわからないが、やたらと幼く感じられる行動だ。
甘えているのとも違うようだが、言葉にならない感情の出口を全身で考えあぐねているようにもとれる。

「……ハンジさん?」

名前を呼んでも、背中に頭をつけたままのハンジから返事はない。
状況は何一つ変わっていないというのに、普段はしないそんな態度が妙に可愛く感じられて、モブリットはおとなしくベッドに俯せで押し倒されたまま、次の言葉を待つことにした。
せっかくなら胸の上で抱き締めさせてくれればいいのに。存分に甘えてくれたらもっと良いのに。

「……モブリットってさ」
「はい?」

しばらくしてハンジがむくりと起き上がる気配がした。

「実は最初から二股掛けてた?」
「――はあ!?」

けれど青天の霹靂とも言える突然の確認に、モブリットは思わず素っ頓狂な声を上げて再び首を後ろに反らした。
少し捻った気がしないでもないが、これを流しては沽券にかかわる。
せめて仰向けの状態なら、はっきり目を見て言えたのに。
もどかしさに歯軋りする思いを堪えながら、モブリットは語気を強めた。

「そんなわけないでしょうが!」
「じゃあ途中からか……」
「ですから途中も何も、俺はあなたしか――」
「いいやもう。身体に聞く」
「は!?」

いったい今夜の会話のどこから浮気がどうのという話のつもりだったのか。モブリットにはわからない。
ただハンジがそれを何かの例えや冗談で言っているのではないということだけが辛うじてわかった。
モブリットの質問に全く答えるつもりのない手が、再びするするとシャツの中へと侵入を始める。そうして先ほど外したホックの中、さらに奥へと入り込む――

――のかと思っていたら、いきなり臀部の方へと回り込まれ、モブリットは今度こそはっきりと悲鳴を上げた。

「ちょ、ど、どこを触って――ハンジさん!?」

下着の下、乱暴に固い尻をまさぐるハンジの表情は全く見えない。
ちょっと待て。これは待て。いや、待ってください。いきなりどんなプレイを始める気ですか。

「ま、待ってください、ハンジさん!? ちょっと!?」

とりあえずそこを退いてほしい。
それから色々――話す前に、そこ、その触り方を止めてください。何のつもりかわからないけど、いきなりそこを広げないで――

「ハ、ハン」
「大丈夫、リヴァイより良くしてあげるから」
「は? 兵長? がどうかし――って、まっ」
「はい、力抜いてー」
「っ、わ、ちょっと!? 待って、待ってくださ――えええええ!?」

ジタバタと抵抗する身体をしっかりと組み敷いたハンジの声が、まるで舌なめずりでもするかのようにモブリットの耳を刺す。
そうして最愛の女に自由を奪われた哀れな男の手が痕を残して解放されたのは、朝焼けの気配が昇り始めた頃だった。


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悪乗り2。
暴走するハンジさんを書きたくなりました。