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雷鳴にかくして 昨夜の大荒れが嘘のように、執務室に誂えられた大きな窓からは、早朝の光が室内に燦々と降り注いでいた。 熱の残滓を何一つ感じさせないいつもの室内を見回していると、昨日のことが本当に夢のように思えてくる。何でもない日常の延長のような気にすらなって、ハンジは正面にあるソファに腰を下ろしかけ、ふと窓際にある壁につけて設置された机に視線をやった。その上に置いたままの書籍に気づいて動きが止まる。 (夢――……なわけあるかっ) その本は、昨日ハンジが例の地下古書店から受け取ったものの一冊に違いなかった。薄茶けた表紙がまるで昨夜の証人のように、こちらをじっと見つめているようで、ハンジは頭を抱えて蹲る。 埃臭い古書店の空気は簡単に思い出せるのだ。同時に、その後の自分とモブリットの行為まで。 (うおああおおお〜……!!) 可愛らしく赤くなるどころの話ではない。うずくまったまま、ハンジは脳内の混乱に奇妙な呻き声を上げた。 結局あのまま空が白み始めるまで、二人で絡み合ってしまった。 例の薬物を通常の使用例に従って摂取した場合でも、もってせいぜい二時間だと言っていた。それを遙かに凌駕した時間を経過して、どんな言い訳をしたところで何の説得力もありはしない。 何度か意識が飛んだと思う。 気がつけばすぐそこにモブリットがいて、優しいような強引なような動きでハンジを抱きしめていた。汗で頬に張り付いた髪を後ろに流すついでに耳朶をくすぐられ、目を合わせれば昂って、唇を奪ったのはどちらからかわからない。 欲望より体力が限界を迎えるまで触れ合って、しがみついて、強請って――風呂の用意をしてくれたモブリットにほとんど抱き抱えられるように入浴をすませて、ようやく意識がはっきりしてきたのはつい少し前のことだった。 脱衣所に着替えを用意してくれたらしいモブリットの姿は当然ながらなく、何とはなしに戻ってしまった執務室は、すっかりきれいに片づけられていた。 昨夜――いや、つい数時間前まで、自分はここで彼と―― (おああああー! いやいやいや、落ち着け。落ち着け自分。大丈夫だ。だってあれは薬のせいで、モブリットも理解してて、だって、だから、単にモブリットには悪いことを……いや、ん? あれ……?) 薬の効果などとうに消えてなくなっている。 だがそれは果たしていつからだっただろう。少なくともハンジ自身でいうなら、ソファに移った後など、効果の残滓に背中を押されたと言えなくはないが、自制を自分で放棄した自覚くらいはある。 だが原液摂取のなかったモブリットはいったいどこから―― 「え」 「――ん?」 とりとめもないことを考えていたハンジは、ガチャリと扉の開いた気配と声に顔を上げ、 「――たいっっっへん、ご迷惑をお掛けいたしましたああああ!」 「や、やめてくださいちょっと!?」 モブリットの姿を認めるや否や、床に蹲っていた姿勢を思い切り前傾させて、そのまま床へと頭をめり込ませた。落ち着け、と言い聞かせていたことなどあっという間に忘却の彼方だ。 薬のせいだ。知っている。モブリットもその場にいたのだから――というよりさせたのは自分だ。けれどあれはいわゆる合意の上というやつのはずだ。それはわかっている。 それでも、その合意を無理矢理させたのは誰かというのもわかっている。 「せ、責任取るから! 殴っても踏んでもいいから!」 「殴りも踏みもしませんから! 責任も結構です、顔を上げてください!」 頭をめり込ませたまま叫ぶハンジに、慌てたようにモブリットも床に膝を付けた。肩を掴まれてちらりと視線を上げてみる。こざっぱりして見えるのは、彼も汗を流したからだと察しがついた。 だがしかし、モブリットの眉間には深い皺が刻まれている。それは、こんな朝っぱらから汗を流させたからに違いない。 肩を掴まれたままで、ハンジは再び床に頭を打ちつけた。 「モモモモブリット、怒ってるじゃん!? 本当にゴメンって――」 「怒ってません!――あ、いや、人に隠れて舐めたことには怒っていますが、それ以外にはありませんから!」 ゴリ、と鈍い音を立てた頭を、モブリットがやはり慌てたように上げさせる。赤くなった額に手を当てながら眉を顰めるモブリットに、ハンジはきょとんと目を瞬いた。 怒ってないのか。いや、怒っているのはそこだけか。だが。 「え? 舐めたのは別に隠れてないだろう? モブリットだって――」 「そっちではなく!!」 首を傾げて言い掛けた言葉をモブリットが遮った。赤い顔で慌てたように睨まれる。 ハンジは走馬燈のように昨夜の出来事を巻き戻して思い出し、こうなった発端に思い当たる。 「……ふ、おぉおおお!! あ、あーあー! そっちか! そっちね!? 全力で反省しております……!!!」 「ちょっ、だ、だから頭を上げてくださいってっ!!」 もう床の一部になってしまいたい。 何て薬物が出回っているんだ。とんでもない。早く捜査の包囲網が敷かれればいい。そうだ。合同捜査にサインが必要なんだったか。書類はどこだ。 「……」 「……」 床から頭を引き剥がし、困惑した表情でハンジの額を撫でさするモブリットは持ってきていないようだった。それはそうか。元々調査兵団預かりの案件ではなかったものだ。合同とはいえ、そう急を要するものではないとはわかる。事後承諾でいいと昨夜彼自身から伝えられてもいたじゃないか。 昨日の内に書類にサインをしろと言われても、真っ当な文字で出来たかどうかわからないが―― 「……あの」 「本当に、ごめん」 しんと静まり返った室内で、何かを言い掛けたモブリットからハンジはそっと目を伏せた。 「いえ、それはもう……といいますか俺も」 「ごめん」 「…………」 唇を噛みしめてそう言うと、モブリットの手がハンジの額の上から離された。それからまた沈黙が落ちる。モブリットは怒っていないと言っていたが、何だかんだで呆れ果ててはいるのだろう。それでも優しい彼のことだから、ハンジを気遣い、何事もなかったかのように接そうとしてくれているのだとわかる。 と、モブリットの離れた手が、俯いたハンジの頬に落ちた髪をそっと掬った。耳に掛けるように動かされ、つられてハンジも顔を上げる。 「……身体は、もう平気ですか」 「へ? あ、ああうん。大丈夫。もうあんなことない――」 差し込む朝陽を受けたモブリットの瞳は穏やかだった。 その視線からはいつもの労りだけが感じられる。 ハンジはそう答え―― 指でして、手伝って、もっと、奥に、気持ちいい、モブリット、もうダメ、イッちゃう―― 「……………………」 「ハンジさん?」 一瞬でフラッシュバックした自分の発言に、完全に言葉を失ってしまった。 そういえばこの薬で記憶障害は見られないとモブリットが言っていた。幸か不幸かはそれぞれでしょうが、と言っていた意味が、今更ながらよくわかる。ハンジにとって言えば、今まさに不幸だ。 なんてことを。なんってことを。 いくら薬のせいとはいえ、一人ではどうしようもなかったとはいえ、完全に薬効とばかりは言えなくなってからも、薬に踊らされているような顔をして情欲に思い切り溺れてしまった。そんな自分を忘れられないなんて拷問だ。 (うお、おおおお……なんっってことだ……っ) それに応えてくれたモブリットは――モブリットも、きっとそんな自分を覚えているに違いない。 柄にもなく顔を真っ赤に染め上げているハンジの様子に、モブリットが伺うように眉を寄せた。 「どうしました?」 「……ごめん、ちょっと、顔見れない。見ないで」 気遣いながら額に触れて熱を計ろうとしたらしいモブリットの手から顔を背けて、ハンジは小さく首を横に振った。 「大丈夫ですか? どこか具合でも」 「違う。そうじゃなくて――その、」 「はい?」 「す、す、す、すごいことしちゃったな、って……思い、出して、だな……」 「……」 「……」 事の初っ端からとんでもない発言のオンパレードだ。せめてもっと上手い誘い方は出来なかったものか。いや、そこじゃない。 「……そうですね」 戻れない過去の過ちに頭を抱えていると、モブリットがぽつりとそう言った。その声があまりにも平坦で、ハンジは頬の火照りを押さえきれないままに、彼の様子を伺うように横目を向ける。モブリットはこちらを見てはいなかった。 「モブリット……?」 正面にきちんと座っているものの、伏し目がちな瞳から穏やかな水面は消えていた。代わりに何か感情を抑えこんでいるかのようで、ハンジは思わず名前を呼んだ。「はい」と律儀に返事を返したモブリットがこちらを見遣る寸前で、ハンジはバッと頭を下げた。今目を合わせたら、否応なしに色々思い出してしまいそうだ。 「い――いやでも本当にごめん! 無理矢理あんなことさせちゃって――」 「薬のせいなんですよね。わかっています」 「そ、そうなんだけど、でも、ほら、あの、」 「大丈夫です。忘れますから」 「えっ、忘れるの!?」 どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。 けれど思わずそう言ってしまったハンジに、淡々と優秀な部下然とした対応を取ってくれていたモブリットが、驚いたように目を瞠る。 「……覚えていていいんですか」 「え!? あ、え? あ、そっか! マズいか! わ、忘れようか!」 「……」 そうだ。あんな失態が二度あってはたまらない。 モブリットにも降って沸いた災難だったことだろう。あんなことはお互い忘れてしまうに限る。 昨夜は本当にどうかしていた。 確かに薬は常用しているし危険性は低いけれど、モブリットの指摘は至極もっともなものだ。万一を犯していい立場でも状況でもないのだから。それをあんな―― (おおおおっ。違う。違うって。忘れるんだっての!) ともすればモブリットの手が肌を這う感触を思い出しそうになる自分の頭を殴りたい。記憶の残る催淫剤は、かくも厄介なものなのか。 熱情に煽られたヘーゼルの瞳が自分を見下ろし、苦しげに呻きながら皮膚に縋る唇の感触は、忘れるべきだ。モブリットだってきっとそれを願っている。 記憶を振り払うように、ハンジはバシバシとモブリットの肩を叩いた。 それから殊更明るい口調で、右手の親指と人差し指で一ミリの隙間もない輪を作って見せる。 「ナシね! なしなし! あれはホラ、事故みたいなものでさ、モブリットとは全く何にもこれっぽっちも欠片も関係なかったということで――」 「身体の調子がおかしければ、すぐ教えてください。責任取ります」 しかしモブリットは、何故かムッとしたように視線を眇めると、ハンジの作った輪を思い切り開かせた。その行為も台詞も、ついさっき彼が自分で言った言葉と正反対だ。 肩を叩いていた手を離し、近いモブリットの胸板に当てて彼の表情を窺う。 「………………忘れる気ないだろ」 忘れたいんじゃなかったのか。 それなのにモブリット自身がはっきり覚えていると宣言するような真似をしてどうする。私じゃなかったら付け込まれるぞと、内心で思わず毒づいてしまったハンジに、モブリットは罰が悪そうに眉を寄せた。 「さすがに――あれだけ好きにして、それは……男としてどうかと」 「――だから!」 好きにしたのは自分の方だ。モブリットは仕方なく付き合ってくれただけだと知っている。私じゃなかったら、などとどの口が言えた義理か。ハンジはぐっと唇を噛んだ。ハンジこそ、モブリットの優しさに付け込んで、最後まで思い切りやらせた張本人ではないか。 それなのに責任の所在まで背負わせるなんて、上官の片隅にも置けなくなる。 ハンジはギッとモブリットを睨みつけた。 「それは私の方だってば! ――あんなめちゃくちゃ何回もイッ――……」 もっと、と言った自分のあられもない声が蘇って、咄嗟に口をパクつかせる。ついでにモブリットの探るような濡れた瞳も、こうですか、と耳朶を舐る甘い低音も蘇って、ハンジは慌ててモブリットのシャツから手を離した。 「ご、――めん! あの、だから、本当に、モブリットも辛かったらちゃんと言って。薬の副作用が今後出ないとも限らないし――」 「俺は最初からあなたほどの薬効はありませんでしたから問題ありません。気化したものをちょっと嗅いだくらいではもって二、三十分ですよ。そもそもあの薬に副作用の現出は確認されていませんし、もし出るなら、原液を僅かとはいえ摂取したあなたの方でしょう」 「ああ、そっか。二、三十分なら――……ん?」 「――あ」 しまったとばかりに口を抑えたモブリットに、ハンジはぽかんと口を開けてしまった。副作用の心配から薬効の範囲に言及したモブリットが、ハンジの視線を逃れるように、瞳をすっと左右へ逃がす。 (え、何……?) 今、モブリットは何と言った。 嗅いだ程度ではもって二、三十分? まさか。それならハンジの手から小瓶を取り、一度寝こけてしまった自分にジャケットを掛けた頃くらいで彼の効果は終わっていないか。 だが再び意識を取り戻したハンジの誘いに、モブリットは完全な拒絶をしていなかった――ように思う。それに薬を摂取したのは自分もだから煽るなとも言っていたはずだ。手だけでは無理だと縋ったハンジに男の顔を見せたモブリットは、それからほとんどさっきまで、そのままの顔を見せていたはずだった。それは薬のもたらす効果の一端ではなかったのか。 「え、でも、モブリットだって何回もすご」 「――それは! ……それは、あなたにあんなふうに迫られたら仕方な――くないです。すみません。最初の効果は否定できませんが、ほとんど素面で理性が負けました。申し訳ありませんでした」 正座した膝の上で拳をぐっと握りしめて、モブリットはハンジから視線を逸らしたままでそう言った。項垂れる彼の耳が赤い。胸の奥がやけにむずむずとする気がして、ハンジは目の前の男をじっと見つめた。 薬効で止まることを知らなかった昨日の疼きとはまるで違う熱が、ハンジの体温をじわりじわりと上げさせる。 「よ――良かったの?」 「そういうことを聞きますか!」 「だって!」 気になるじゃないかと呟いた声は、本心だが、ほとんど消え入りそうになってしまった。 気になる。モブリットがどう思っているのか。 怒っていないならそれは良かった。呆れられていなかったのなら幸いだ。 本当ならこんなことは互いに不可抗力だと割り切って、忘れてしまうのが良いのだろうが、ハンジの記憶にしっかりと刻まれてしまった一夜は随分深く絡みついて、忘れられる自信などない。 それに薬効ではなくハンジを抱いたというのなら、どうしたってその真意が気になるじゃないか。 見つめる先で色白な頬を見たこともないほど赤く染め上げているモブリットが、意を決したようにハンジの瞳を見つめ返した。 「……も、ものすごくっ!」 わかるでしょうが、と付け足された言葉はやけっぱちのようで、ハンジは思わず目を瞬いてしまった。まるで喧嘩腰の告白だ。思春期か。いや、思春期の男女が行うような初々しさは微塵もなかった。 己の欲で相手を欲しがり、煽って煽られてその気にさせて、どろどろと惚けるように絡み合う行為は濃厚すぎる。 「あー……モブリット」 「すみません! 本当に、殴っても蹴っても」 「私も、ソファからのあれ、ほとんど効果なんて切れてたと思うよ」 「……」 「……」 単純にモブリットとしたくて、欲しくて、止められなかった。 そもそもの初めから、薬効に踊らされた夢の中でさえ彼しか出てこなかったというのだから、いっそ笑える。 ハンジの告白にモブリットがゆっくりと口を開けた。 「え……?」 そこから溢れた疑問の声が、昨夜の行為を思い返しているのだとわかって、ハンジは思わず誤魔化すように声を荒げた。 「だって! モブリットがすごくなんか、――なんか! するから!」 「そ、そんなの! あなただってもの凄かったじゃないですか!?」 売り言葉に買い言葉か。 モブリットも負けじと声を張り上げる。 「そそそそれはだから、私はだから、薬のせいだし!」 「ソファの後です! あなたから上に乗っ」 「あーあーあー!!! モブリットだって後ろからいきなり突」 「わーあーあーあー!!!」 膝を合わせ床に座り込んだまま、互いの言い分を聞くまいと両手をしっかりと耳に当てて声を上げる。 「……」 「……」 いい歳をした男女が、仮にも一分隊を預かる立場とその副官が、何をやっているのだろう。互いの姿勢に自分の姿を映して、ずるずると両手を耳から下ろす。 朝陽はずいぶんその色を濃くしていたようだ。 窓の外から差し込む日差しが長く延びて、室内を明るく彩っていく。 「……せ、責任、とるし」 「いえ、それは俺が……」 「……」 「……」 無言が落ちて、ついでに視線もなんだかんだで落としてしまう。 けれども相手の動向が気にかかり、おずおずと上げると目が合って、むず痒いような熱いような気持ちが胸の底に沸いてきた。 妖しげな薬効と雰囲気は、清々しい朝の光に綺麗さっぱり払拭されている。ここから先は言い訳も出来ず、何かのせいにも出来はしない。 昨夜は確かに薬のせいで始まった。 だからあんな夢を見て、触れ合ったら止まらなくなった。 けれどそんな効果が切れてからも、もっとと強請った自分の言葉は、きっともうどこにあったかわからないほど、胸の奥に根付いていたものだった。 ハンジは視界の端で目の前の男をちらりと見た。 「あ、あのさ」 「はい」 同じように、モブリットもこちらを窺っているようだった。 出方を窺う小狡さを湛えた視線が交錯して、互いに一歩を踏み出し掛けた次の瞬間、 「おはようございま――……」 誰にともなく朝の挨拶を口にしたニファが、ファイルを両手にしっかりと抱いてドアを開けた。そうして正面、床に座る上官二人に視線を落とす。 「……」 「……」 「………………何かやっちゃったんですか?」 「「ヤッてないし!?」」 大きな目をきょとんと瞬いてされた質問に、二人は同時に大きな声で否定したのだった。 【Fin.】 【 ← 】 ハンジさんとモブリットが媚薬を飲んじゃったよ!なモブハン話です。R18。 媚薬に関しては二次創作美味しいウェーイ!ヽ(゚∀゚)ノ!なご都合設定なので、詳しく考えないで読んで頂ける方向けかと思います。 箍が外れたモブハンいいなと。 |