どうか悔いなき選択を



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(ああいう顔……するんだな)

兵舎の裏手奥にある草っ原にぼんやりと腰を下ろして、エレンは数時間前のことを思い出していた。
好きだと言ったのは紛れもない本心には違いなかったが、はにかんだような笑顔が見られるとは思わなかった。
いつも人並み以上に感情表現が豊かな人だと思いこそすれ、ハンジが色恋の雰囲気を見せるところを、実は全く想像していなかった自分に気づかされたと言っていい。
良く見れば綺麗な人だということには気づいていたが、今日のハンジは何というか。

(可愛かったな……)

女性を――しかも随分と年上の人をそんな風に思ったことは一度もなかった。

「あ〜〜〜〜っ」

思い返せばじわじわと胸の内から込み上げてくる面映ゆい気持ちに、エレンはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
――と、その時。

「――エレン?」
「え? ――モ、モブリットさん!」

振り返ればそこにいた人物の名前を呼んで、エレンはほとんど条件反射でその場に立つと敬礼をする。
おかしなところを見られてしまった。しかもハンジへの告白の後で会ったのは今が初めてだ。
あの時はハンジのことしか見ていないようだった彼は、トン、と胸に手を当てて返礼すると、それから妙な間をおいた。

「誰かと待ち合わせか?」
「い、いいえ」
「……隣に座っても?」
「あ、は、はい」

それきりまた黙ってしまったモブリットがゆっくりと草の上に腰を下ろす。ハンジも一緒だろうかと辺りを見回してみたが、どうやらモブリット一人のようだ。
未だ敬礼のままだった腕を胸から下ろし、エレンは一人分の余裕を開けてモブリットの隣に座ることにした。
何を言われるかという予想は難しいが、どうして彼がエレンの側にきたのかは簡単に察せられる。ハンジの件だろう。

「……」
「……」

けれど待てど暮らせど一言も言葉を発しないモブリットとの無言の時間は、ものすごくじんわりと真綿で首を絞められている気分になってきた。訓練時間はとうに終了していたし、夕食時間まではまだあるものの、夕暮れだった太陽は微妙にその姿を遠くに消し始める気配がする。
ひたすら無言で、けれどじっとこちらを見ているらしい視線を隣から無遠慮に投げられて、エレンはたまらず居住まいを正した。

「……あの、黙って見るのやめてもらっていいですか」
「ん? ――ああ、すまない」

随分久し振りにモブリットの声を聞いた気にすらなる。
何を言われるのだろうと内心戦々恐々としていたエレンは、拍子抜けするほどいつもと変わらないモブリットの態度に、訝しげに眉を寄せた。ハンジのことで何か言いたいことがあるんじゃないのか。

「あの」
「本気か?」
「え?」

業を煮やしたエレンが口を開くと同時に、モブリットがやはりエレンを横から真っ直ぐ見つめたままでそう言った。何を、とは言わない。けれどそれだけで、今の二人の間では何のことだがすぐにわかる。
巨人のこととなるといつもハイテンションなハンジの後ろで、困り顔か無表情が常のモブリットに、けれど変わった様子はない。それに急に苛ついて、エレンは大きな緑石色の瞳をはっきりと眇めた。

「本気かって――」

上官に対する態度ではない。
でも今は、上官や部下としての話ではないと知っていた。だからほとんど無意識に挑発めいた口調がエレンの口をつく。

「当たり前です。冗談であんなこと言えない。というか、俺が本気だったらどうなんですか」
「困る」
「………………は?」

簡潔なモブリットの答えは、さすがに予想出来なかった。
聞き間違えることすら難しい単語を思わず反芻したエレンへ、モブリットは聞き取れなかったとでも思ったのだろう。再びはっきりと言い直した。

「すごく困る。勘弁してほしい」

口調も表情も変わらない。
いつもの冷静で淡々としたモブリットはそのままなのに、言っている内容となかなか感情がリンクして見えない。

「はい? あの、それはつまり、俺に告白されたせいでハンジさんが仕事に集中出来なくなったら困るとか、俺の好意のついでに巨人化実験を更に無茶な計画立てそうで困るとかそういう――」
「それもある。というか巨人化実験の方はリヴァイ兵長からもくれぐれも無理をさせすぎないよう厳命されているし、我々としても兵士とはいえ未成年の身体を労る気持ちくらい持ち合わせているから、そう警戒しないで大丈夫だ」

知らなかった。あのリヴァイがそんな気遣いをしてくれていたなんて。いちいち口には出さないが、そういえば実験の時はいつも見える範囲にいたことを思い出して、エレンはそうかと合点がいった。単に万一の暴走を懸念されているだけかと思っていたが、そんな側面もあったのか。あの人は本当にわかりにくい。心配も不安も全く見せずに、けれど驚くほど見ているなんて。自分よりもっときっとリヴァイのことをわかっていたはずの人に聞くことも、今では出来なくなってしまっていることが寂しい。

「……」

エレンの無言をどう取ったのか、モブリットが僅かに頬を緩めた。

「もしも分隊長がおかしなことを言い出したら、さすがに俺も止めるから」
「あ、ありがとうござます」

年長の頼もしさというよりは共犯めいた苦笑を見せたモブリットに、エレンも苦笑でそれに返す。たぶんそうなった時、最終的にはハンジの味方をするだろうモブリットは容易に想像がついたが、敢えてそこには触れなかった。

「それとは別に」

ふと、モブリットの表情から苦笑が消えた。
見慣れた感情の読めない顔がエレンを見つめ、綺麗なヘーゼルの瞳に射し込む斜陽でほんの少し細められる。
ここからがおそらく本題だ。
身構えるエレンの前で、モブリットは珍しく歯切れの悪い口調になった。

「……君とのそういう事で仕事に身が入らなくなるあの人、というのは、……考えると色々、あー……、だから、つまり、……勘弁してくれ」
「……あの」
「情けないと笑ってくれて構わない。自分でも、エレン、君にこんなことを言うのはどうかしていると思う。でも困る。それが俺の正直な気持ちだ」

いっそふてぶてしくさえ思える発言を堂々と宣言されて、エレンは思わず呆気に取られてしまった。綿密に立てた計画の中に、こんなアプローチはさすがになかった。
文句は言われるだろうと思っていたし、下手をすれば上官命令を突きつけられるおそれくらいは考えていた。その場合の反論も、突きつけたい本音も、方法もアルミンが全て用意してくれて、エレンはモブリットに声を掛けられた時から頭の中でそらんじていたというのに。
大人は駆け引きをするものなんじゃないのか。
まさかこんなドストレートに来るなんて。
告白をされたら困る。エレンのことでいつもと違う彼女なんて見たくない。要約すればそんなところだ。

「それは、つまり」

色恋に鈍いと言われ続けたエレンにだって、考えなくてもわかってしまう。

「ハンジさんのことを好きだということですよね」
「…………非常に不本意ながら」

不本意ときたか。
エレンの追求を認めたモブリットは、ここで初めて苦渋にまみれた表情を見せた。おそらく本心から言っているに違いない。
好きだから――好きな女に虫が付いてほしくないと思うなら、何で――

「……何で言わないんですか」
「エレン?」

事情は色々あるのかもしれない。
だけどそんなことはどんな時でも些細なものだ。

「何で――」

そう、エレンは知っている。知ってしまった。
だから今日、エレンはハンジに告白することにしたのだから。

「言えばいいじゃないですか。そうしないくせに、俺に困るとかいうのはずるい!」

思わず拳を握り締めて叫んだエレンに、モブリットは驚いたように目を瞬いた。それから「わからないな」と小さく口の中で呟いて、半身をエレンへと完全に向き直す。僅かに小首を傾げ、じっと見つめてくる瞳の中に睨みつける自身が映っているのを認め、エレンは奥歯を噛みながらそっとモブリットから視線を逃がした。

「……よくわからない。エレン。君は俺があの人に言ってもいいのか? 結果がどうのという以前に、今の君の言葉は、恋敵への熱いエールのようになってると思うが、それはわかってるか?」
「わ――わかってますよ! 俺は、単に、正々堂々としたいだけで!」

まずい。順番を間違えたかもしれない。
モブリットのせいだ。モブリットがバカ正直にハンジへの想いを口にしたりするから、エレンも思わず本心を出してしまった。ここで誤魔化されてしまったら今日の努力が水の泡だ。モブリットの質問は、既にエレンの目論見を看破しているような気すらする。

「じ、自分の気持ちに嘘をついているくせに、俺にだけ諦めろとかわけがわかりませんし!」
「別に嘘は」
「ついたじゃないですか! ハンジさんに浮かれてるとか言うから! 俺はっ。自分がフられるとかそんなことより、好きな人が辛そうな顔をしている方が辛いんですよ!」

あの時、確かに空気が凍った。
けれどそれは部下の不躾な物言いに腹を立てていたわけじゃないとわかっている。モブリットがあんな言い方をしたからだ。たとえばリヴァイが同じことを言ったのなら「羨ましいか!」くらい言って笑うハンジが目に浮かぶ。他の部下から言われたのなら「ひどいなあ。滅多にないんだから大目に見てよ」などと笑って返したに違いない。
でもモブリットが言ったから。ハンジはあの時確かにすっと感情を殺した。

「辛そうな……?」

フーフーと感情を爆発させてしまったエレンに驚いたように目を瞠ったモブリットは、考え込むように眉を寄せた。
それから顎に手を当てて、回答を求めるようにエレンを見遣る。

「してたのか? いつ? どうして?」
「……マジですか」

モブリットはどうやら本気で言っているらしい。

(すげえ。もしかしてこの人めちゃくちゃ鈍いんじゃ……)

これもまるで想定外だ。
アルミンとの打ち合わせでは、自覚があることが前提だった。だというのに、まさか、本気で気づいていないなんてことがあるなんて。いい大人で、それこそ四六時中一緒に過ごして、端から見れば思わず目を疑うほどに近しい距離を保つくせに、まさかどうしてそんなことが。
同期の中でもダントツに鈍いと称されてきた自分に鈍いと思わせる大人を相手に、どう立ち向かえば良いのだろう。

(アルミン……!)

心の中で親友の作戦参謀に助けを請いつつ、エレンは頭を働かせた。

「……とりあえず、あなたが言うつもりもないなら、俺だってやめません。それともそれは上官命令ですか」

ここは挑発あるのみか。
ふん、と一生懸命皮肉気に口元を歪めてみせるが、しかしモブリットは困ったように眉を下げるだけだった。

「まさか。そんなこと、命令でどうにか出来るものじゃないだろう? 俺だってそんな命令されても無理だ」

それ程までに想うならどうして。
エレンは再びぐっと拳を握り締めた。

「言わないと後悔しますよ」

だめだ。これ以上はあまりに直接になりすぎる。
たとえばそれぞれ事情があることだってわかっている。だからこれはエレンのくだらないエゴなのだ。わかっている。アルミンにもそう言われた。自覚もある。だけど、わかっているのに見ているだけなんて嫌だと思ってしまったのだ。

「俺とか、他の男とか、どんどん出てきたりして、それだけでもすごい後悔しますよ」

モブリットの心ない言葉に傷ついて見えたハンジの一瞬の表情を、見つけてしまったから余計に。

「どうかな。言った方が後悔することもあるからね」
「それでも!」
「……エレン?」

黙るという狡さより、大人らしく柔らかな逃げ口上を使ったモブリットに、エレンは自分でも驚くほどの感情のうねりを止められなかった。

「もしも! 死んでしまったら!」

言ってしまった。虚を突かれたような顔で言葉を噤んだモブリットを睨みつけながら、エレンの口が勝手に動く。感情が昴りすぎて前のめりになったエレンに、モブリットの冷静に見える瞳が見える。それが悔しい。

「エレン?」
「絶対! 絶対後悔するんですよ! 何で、……何でみんなわからないんだっ! わからないフリで誤魔化そうとするんですか!」
「エレン、落ち着け!」

けれども至近距離で聞こえたその声に、思わずモブリットの胸倉を掴み上げていた自分に気づいて、エレンはハッとして手を離した。
自分で感情を抑制できないのは悪い癖だ。わかっている。それにしても、これはひどい。やりすぎだ。

「す――みませ……」

しでかした事の重大さに俯いて、ずりずりと落とした腰を後退させるエレンの手に、モブリットの手が触れた。

「いい。大丈夫だ。落ち着いて」
「すみません、俺……」
「大丈夫。エレン。君は――……後悔したことが?」

そこから伝わる熱と、自分より一回り大きな手の優しい力強さ、それに低く染み込むような声が、エレンの視界を滲ませ始める。
本当はすぐにでも手を振り払い、立ち去る方が得策だ。もしくは初心に立ち返り、若さに任せて挑発めいた物言いをすれば――けれど、無意識にグッと力を入れてしまった拳の上からモブリットに宥めるように掴まれて、エレンの虚勢が保てなくなる。

「俺じゃ、ないです」
「そうか」
「……俺じゃなくて」
「うん」

静かに促される声音に背中を優しく押されて、エレンはぐっと腕で視界を邪魔する涙を拭った。

「……俺だって気づいたくらいだったんだ。だからあの人だって絶対知らないわけないのにって思ってて、それに、――それに、二人の雰囲気がそうなのかもしれないって思うことだってあって」

支離滅裂な言い方になってしまったエレンを、けれどモブリットは黙って続きを待ってくれる。
エレンの色褪せない記憶が、徐々に溢れ出してくる。

最初はただ緊張していた。悔しいと思う反面、正直に怖いとも思った。
だけどあの古城で短いけれどまるで家族のように四六時中を共にして、それだけではない空気を感じてしまった日から、それは少しずつ変化していった。
エレンが明確に意識したのはいつだったか――そうだ。あれは良く晴れた日だった。洗濯の取り込みを忘れかけて、慌てて中庭に走った時だ。
誰もいないと思った先に、彼女がいた。
おそらく不出来な後輩をいつものように「まったくもう!」と言いながら手伝ってくれていたのだろう。その彼女の手には見知ったクラバットが握られていた。洗いたてで真っ白なそれは、太陽の匂いしかないはずで、それなのに彼女はそれをとても大切そうに抱き締めた。まるで愛しさが形になって現れているのかとエレンが錯覚してしまうくらいに、純粋でひたむきな感情だった。
眩しくて切なくて、なんだか少し泣きたくなった。
言わないんですか、と思わずお節介な口が余計なことを口走ってしまった時、エレンはどこかで、真っ赤になった彼女が慌てふためくだろうと思っていた。もしくは同期の仲間にするような辛辣な口撃が来るだろうかと身構えて――しかし、彼女はそのどちらもしなかった。
へへ、と照れ臭そうに振り向いた彼女は「エレンにもバレちゃった」と言い、それから「内緒ね」と人差し指を唇に当て、おどけたように笑って見せたのだ。

「迷惑かけたくないし、ただ傍で役に立ちたいなって思ってるんだ」

それは彼女の本心だったとわかる。けどきっとそれだけじゃなかった。
それだけであんな顔にならないことくらいエレンにだってわかる。

「なのに、……っ、もう言えないじゃないですかっ。そんな、何がっ、……い、言えばいいじゃないですか。立場とかそんなの関係ない。気持ちを隠して、殺してしまうくらいなら言わないと、言わないと――……言えなくなってからじゃ遅いんだ……っ」

それに、エレンは見てしまった。
死んだと知らされ戻った古城で、彼女が使っていた部屋に続く薄暗い廊下。昼間、彼らが使っていたほとんど私物のない部屋の片付けを済ませていた時と違い、部屋のドアを開けることもせず、ただひたすら部屋の前で立ちすくんでいる彼の姿を。
何を思っているのか聞いても絶対に語らないだろう彼の、ちぎれるような慟哭がそこにあるような気がした。それはほんの一瞬で、エレンに気づいた彼は「早く寝ろ」と一言告げて、エレンの頭をポンと撫でた。「すみません」と溢れた声が涙に濡れた。すみません。ごめんなさい。俺のせいで。俺が選択を間違えたから。彼女の気持ちの行く先も、交わっただろう彼の道も、もう完全に途切れてしまった。

こんなに簡単に、あっけなく、思いもせず、人は死ぬ。
抱いた感情も、告げるはずだった言葉も、心も、何もかもを生きている側にだけ置き去りにして。
その記憶も、次第に後悔と悲しみを残して薄れていくのだ。
母の姿が目蓋を閉じても鮮明に浮かべられなくなったのはいつからだろう。

(最期の姿は目に焼き付いて離れないのに、母さんの笑い声が思い出せない……)

マルコやとミーナと最後にどんな会話をした?
あんなに一緒にいたのに。いつでも次の約束は果たされると思っていたのに。
死はあっという間に、全てを掠め取っていく。

「あなたたちを見ていると、どうしても、思い出すんです……」

胸に秘めたままで逝ってしまった想いの行方を、告げなかった男の心の慟哭を。情けなさと後悔と悲しみを。
それは、二人が似ているからだ。何でもない日常の中、二人からごくまれに窺える互いを見つめる視線や態度が、まるであの頃の彼らに重なって見えることがあるからだ。

「だから――」

まだ繋がることが出来る手を、互いに離したままでいないで欲しい。
そう続けるつもりでエレンはモブリットを見上げ、いつの間にかグシャグシャになっていた視界に気づいた。慌てて腕で両目を擦る。
しまった。またやってしまった。
感情的になってはダメだ、それはエレンの悪い癖だよ、とアルミンにあれだけ口を酸っぱくして言われていたのに。これでは上手くいくものも上手くいかなくなってしまいそうだ。エレンは慌てて頭を下げた。

「すっ、――すみません! 俺、なんかすっげえ偉そ」
「わかっていたつもりだったのにな」
「え――」

けれど静かな嘆息のように呟かれたモブリットの声に、エレンは思わず顔を上げた。
こちらを見ていると思っていたモブリットは、いつの間にか正面に戻り、立てた膝を両腕で抱えて俯いていた。

(……え。え? 何だ?)

はあ、と深い溜息が聞こえる。
それからゆっくりと首だけ向けたモブリットが、困ったように眉を下げてエレンを見た。

「さすがに平穏無事なだけの人生とは言い難いから。エレン。君の言いたいことはわかっているつもりだったんだ」

そう言って自嘲気味に笑ったモブリットに、エレンはハッとした。そうだ。この人達が気づいていないわけがなかった。エレン達より長く生きて、ずっと多くの生死を見つめて、それだけ多くの後悔を抱えてきたはずの彼らが。それでも伝えないと決めているなら、それにはエレンが立ち入ってはいけない理由があると気づくべきだった。自分はなんて驕った感情で彼らを傷つけてしまったんだろう。

「俺――!」
「エレン、君は悪くない」

もう一度頭を下げようとしたエレンを、モブリットが制す。
それからふっと表情を緩め、ヘーゼルの瞳を空へと向けた。

「……自分が死なないともあの人が死なないとも言えないのはわかってるのに、そういう感情は忘れることだけ上手くなる――いや、忘れるフリをすることが、かな」
「……」
「殺した感情が報われるなんていうのは、想う相手が幸せになってくれた時だけだろうな」

誰にともなくそう言って、モブリットはもう一度小さな溜息を吐く。それからスッと目を細めた。

「ところで重要な確認だけど」

硬質な響きを伴う口調に、エレンは無意識に姿勢を正した。
モブリットのこういうところは予測がつかない。いつも影に日向に東奔西走しているかと思いきや、驚くほど感情が見えず、そのくせ突然微笑を見せて、それでコレだ。
真意を測りかねるエレンに向かって、モブリットは細めた目を剣呑に寄せた。

「君は、あの人に本気なのか?」
「……え、え……、はあっ!?」

おそらくアルミンでさえ、予測のつかなかった質問だろう。
思わず突拍子もない声を上げてしまったエレンを、けれどモブリットは窺うようにジッと見ていた。

(何で今までの流れで、俺がまだそうだと思うんだ!?)

こちらは完全に手の内を明かしているだろうに。
頭脳明晰なハンジ班の優秀な副長の思考回路がわからない。
冗談めかしているのでも、揶揄するつもりでもないらしい真剣な眼差しは、どこまでも本気にしか見えないのだ。
エレンはガシガシと頭を掻いた。

(これが馬に蹴られて、とかいうやつかよ……)

不意に同期の馬面が浮かんで、更に頭を掻く手に力が入る。
こんなはずじゃなかった。
ハンジのことは好きだ。でもその感情が特別な愛情かと聞かれれば、それにはすぐに頷けない。アルミンのことも、ミカサのことも、それぞれ特別に好きだからだ。

「あー……いえ、その……さっきも言いましたけど、正直、もどかしくてどうにかなって欲しかった、というのがデカい、です」
「……」

端から見てても同じような方向を向いているくせに、微妙に触れ合わない矢印は、失ってしまった彼女と彼の関係よりも明確な分、非常にもやもやともどかしかった。だからついそこに一石を投じたくなった。
最初は本当にそれだけだったのだ。
だけど予想に違わず、ハンジは真っ直ぐな人だった。
生真面目な答えも、雰囲気の作り方も、会話に見える気遣いも、それから「ときめいた」とはにかんでみせたあの笑顔も――

「でもさっき、マジで可愛い人だとも思いました」

だからきっと、モブリットがこのまま本当に動かないなら、もっと好きになるだろう。そんな確信は確かにあった。
この二人にどうにかなって欲しいと思うのは本心だ。が、好きな人が辛そうな顔をするくらいなら――……

「………………困る」
「は?」

約束、と笑ったハンジのことを思い出していたエレンの耳に、ぼそりと低い声が届いた。思考を中断させられて訝しげな視線を向ければ、そこにはまるでリヴァイを思わせる深い皺を眉間に刻んだモブリットがいた。一瞬でエレンの記憶にいたハンジの笑顔を霧散させる冷気を背中に揺らめかせている。

「あ、あの……?」
「困ると言ったんだ。あの人を可愛いと思うなんて、その若さでどれだけ老成してるんだ。脅威だ。正直に困る。止めてほしい」
「いや、その、モ、モブリットさん?」

その表情のまま溜息を吐かれて、その息で心臓がヒリヒリと凍えるような気分になる。

「……あの人がときめきなんて言葉を巨人以外に使ったのを初めて聞いた。心臓が止まるかと思った。ときめく? 君に? 勘弁してくれ」
「ちょっと待ってください……? 何でハンジさんが俺にときめいたって言ったの知ってるんですか?」
「聞こえた。たまたま」

そんなバカな。あの時彼は、ドアを閉めて立ち去ったはずじゃなかったか。その場で聞いていたということか。
口調は変わらず淡々としたままで、けれど視線はエレンから外してくれない。
あからさまな牽制はどこか子供じみているというのに、エレンの心臓を速まらせるだけの効果は充分に備わっていた。

(ア、アルミン! ミカサ……! やべえ。すっげえ怖え!)

何なんだこの人は。
ハンジのことが好きだと言って、けれども伝える気はなかったくせに、半分ほどの年齢の自分が好意を伝えたというだけでこんなにも大人げない威嚇をしてくる人だったなんて。
大人らしく小狡く立ち回ってたくれた方が、よっぽど作戦を立てやすい。現にエレンの取った方法は、アルミン曰く、『まだ子供なエレンのあざとさで、大人のエゴを粉砕するって作戦だよ』と言われていたのに。
エゴがストレートすぎて、これはある意味子供じゃないのか。作戦を考えた分だけ、こちらの方が余程エゴの固まりに思えてくるではないか。

「エレン」
「は、はいっ」

名前を呼ばれて、咄嗟に右手を心臓に上げる。

「君は俺が嫌いか?」
「――え? えっ? いや、え!?」

意味がわからない。
ハンジのことは好きだと言ったが、モブリットに対して好きも嫌いも――いや、別に最初から嫌いではなかったが、それは答えるべきことなのか。混乱する頭で何を言うのが正解かわからずに、エレンは口をパクパクとさせてしまった。と、胸に当てたままのエレンの手に、モブリットのそれが触れた。その手が胸から外されて、一度俯いたモブリットの視線が、ゆっくりとエレンに向けられる。

「そうじゃないならあの人の可愛さには気づかないでほしい」

(そんな無茶な……)

今更だろう。というか、自分が気づいたくらいなのだ。他にも絶対気づいている人はいるはずだ。遅かれ早かれ、そんな彼らがハンジに対して行動を起こしたらモブリットはどうするつもりなのだろう。

「――あの」
「あと、今から行ってくるので慰めてくれ」

せめてそのくらいはもう一度波風を立ててやりたい。
擡げた意地の悪い考えを口にしかけて、エレンはモブリットにがっしりと両肩を掴まれた。真剣な表情がやたらと近い。

「は? 慰め? え、行くってどこに――」

その肩を起点に立ち上がったモブリットは眉を寄せ、呆然と見上げるエレンにムッと唇を尖らせたように見えた。その耳が心なしか赤く見えるのは、壁の向こうに沈み始めた夕焼けが映っているからか。

「……ちゃんとフラれに」
「い――行ってらっしゃい!」

思わずそう言って立ち上がったエレンに、モブリットは何ともいえない表情をした。ぴくりと跳ねた眉は妙に威嚇しているような、不安に怯えているような。その顔から細かな感情を計ることは、さすがにエレンには出来なかったが、怒っているのではないらしいということはわかる。
数時間前に告白してフラれた相手へ、別の男をし向けるというのも何だか妙な気もするが、これで漸く本懐が遂げられた気分だ。

(やったぜアルミン!)

大丈夫。慰められに戻ってくるモブリットはきっといない。
だから今すぐここから駆け出して、早く計画の成功を親友に大声で伝えたい気分だ。むしろ早くハンジの元へ行ってくれと思い始めたエレンの前で、モブリットがおもむろに右手で口元を覆った。

「……もしも、会ってくれなかったら困るな」
「…………いや、大丈夫ですよ。早く行ってくださいって」

何を言い出すかと思ったら。
下手をすれば何だかんだと言い訳をして考え込みそうなモブリットの背中を押す。
ようやく歩き出したモブリットが、はあっと情けない溜息を吐いた。

「……初めての壁外調査より緊張する」

そんなバカな。失敗しても食われませんし。
どこまでも後ろ向きな発言を残したモブリットの背中を見送って、エレンはガシガシと頭を掻いた。何なんだ、あの人は。

「……………………か、可愛い人だなオイ……」

仏頂面で耳を赤くして、愛の告白を真摯に始めるモブリットの姿が容易に想像出来てしまう。
大の男の可愛さにエレンが気づいたくらいなのだ。ハンジが気づいていないわけがない。それに、きっと他の誰かも気づいている人はいるだろう。

(早くしないとモブリットさんも取られちゃうかもしれませんよ)

自分の告白くらいで真っ赤になっていたハンジを思い出せば少し疼く胸の内に首を傾げて、エレンは兵舎に消えるモブリットの背中を見ながらそう呟いたのだった。


【END】 

今度はエレンに告白してもらうことにした!笑
基本はリヴァペトです///