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微温湯の火傷 楸瑛の姿を認めた絳攸は、初めましてと笑顔で迎えた百合の顔面を、黎深の扇が叩くように覆い隠したのを見るのとほぼ同時に、転がるように馬から飛び降りていた。 「ししし楸瑛! 何をしてるんだお前はこんなところで!!」 抱きつく、と言う表現がぴったりなほど体を楸瑛に密着させて詰問する。 「何って……君が無事に邸まで辿りつけるか心配して」 「余計なお世話だ! ホラ、無事に着いている! だからさっさと――」 「こら、絳攸?」 「ハイ!」 背中から聞こえた凛とした――それでいて涼やかな声音には、未だに条件反射で背筋を正してしまう絳攸に、その姿を見て訝しげな視線を向けてくる楸瑛に構う余裕などない。恐る恐る振り向くと、黎深の扇を右手で鬱陶しそうに下げさせた百合が、小さな子に怒るような視線を絳攸に向けていた。 「そんな言い方をしては、せっかくあなたを心配して来てくれたお友達に失礼よ? 黎深を見習っちゃダメっていつも言っているでしょう」 「すっすみません――いえ、あの、すすすすみませんっ!」 百合の後ろで静かに扇で口元を隔した黎深の目を見てしまって、絳攸はよく内蔵が潰れなかったと思うほど勢いよく直角に腰を折り曲げた。百合はきょとんと息子の態度に小首を傾げる。 「そこまで畏まらなくても……おかしな子ねぇ」 それから目の前で、やはり絳攸の態度について来れない楸瑛に向き直ると、極上の笑顔を見せた。 「――貴方が藍家の楸瑛殿ですね。初めてお目にかかります。紅百合と申します。いつも絳攸からお話を伺って……お会い出来る日を心待ちにしておりました」 「――は。百合様にはお初にお目にかかります。藍楸瑛と申しま」 「久し振りだね、藍将軍」 パシンと軽やかな音を立てて閉じられた扇に、ひぃ、と声が出なかった自分を褒めてやりたい。 目を細めて口元だけに微笑を浮かべる黎深に、絳攸は背筋の凍る思いがした。 「お久し振りです。紅吏部尚書」 「いつもウチの絳攸が世話になっているようだ。私からも礼を言うよ」 怖い怖い怖すぎる。 ニコリという擬音さえ聞こえてきそうな笑みを浮かべる黎深とは逆に、絳攸は泣いても良いですかという一言をどうにか喉の奥に飲み込んだ。冷や汗と脂汗がダラダラ零れ落ちるのを感じる。 百合は相変わらず可憐な笑顔のまま、二人のやり取りを微笑ましそうに見つめている。絳攸にはその笑顔がいつにも増して閻魔の笑みに見えて仕方なかった。 「良かったら上がっていくかい? ちょうど昨日、紅家から紅州蜜柑が届いてね。食べていくといい」 「れれれれ黎深様っ!!?」 あまりにあり得ないイイ人然とした黎深の言葉に、ここまで無言を貫き通した絳攸は声をあげてしまった。 ここまで本音と建前で食い違う黎深は珍しい。滅多に貴陽の邸に戻らない百合が、こうして戻っている間は、これでもかというほど四六時中影まで張り付けて監視紛いの拘束をしたがる黎深が、よりにもよって、藍家の青年を家に呼ぶなど晴天の黎深。 逃げてくれ楸瑛。頼む、今の黎深様に勝てるヤツなどこの世にはいない。 それはいいわと屈託なく同意した百合に、そうだそうだと笑みを深める黎深が怖い。 本当はここにこうして楸瑛と会わせているのも不本意なのだということは、百合の笑顔を一度は扇で隔した態度で明らかなのだ。 「なんだ、絳攸」 「どうしたの?」 異口同音のはずなのに、文官である絳攸が前者に殺気を感じてしまったのは勘違いではすまされない。 「……あ、いいえ。お誘い頂き大変恐縮なのですが、実はこれから主上のもとに呼ばれていますので、私はこれで……」 武官の楸瑛はさらに敏感に感じ取ったのだろう。心持ち引き攣った笑みを僅かに二人から視線を逸らして辞去した楸瑛に、絳攸は内心で素直に「さすが」と賛辞を送った。 「あら、それではお引止めしてしまってごめんなさい。また今度、お時間のあるときに是非。ね?」 「は、はい。喜んで」 ふふ、と悪戯っ子のように微笑んだ百合に、しかし楸瑛の頬が僅かに染まる。絳攸は頭を抱えて蹲りたくなった。参った。ダメだ。そうか、コイツは年上好みだったのか。 それにしても実は年上過ぎるんだぞ黎深様より年上なんだぞとは、口が裂けても言えないまま、 「と、途中まで送ってきます!」 黎深の怒気が一気に上昇したのを察知して、絳攸は楸瑛の背中を押した。 「そうね。あ、絳攸? 馬ちゃんと連れて行くのよー?」 「……はい」 状況をまるきり理解していないらしい百合の無邪気な気遣いが、気遣い街道まっしぐらな絳攸の背中に、無慈悲に突き刺さったのだった。 序・終 次頁 さ・びーんず3月号増刊の四コマその後をもりっそ捏造。百合可愛すぎる百合。続きます。 |