無自覚テンプテーション(01) 「――昨日は本当にすみませんでした!」 マクロス・エリシオンの館内通路で、カナメの抑えた声が小さく反響する。 珍しくほぼ直角に折られた腰が、まるで自分の直轄にいるデカい部下のようだと思いながら、アラドはカナメの肩をポンと叩いてやった。気にしていないという意思表示のつもりだったが、されたカナメがびくりと身体ごと揺れたので、もしかすると怒られるとでも思わせてしまったのかもしれない。 おそるおそるという風に顔を上げるカナメを安心させるように、笑顔で朝の挨拶を告げれば、カナメも「おはようございます」と小さく返す。その表情は、まるで悪戯を叱られるのを待つ子供のようだ。 周囲にはきりりとした面を見せがちで、その実とても素直な彼女のこういうところを、メッサーも少し真似すればいいのに。カナメを見ていると妙に似ているようで違う部下が浮かんでしまうのは、昨日の二人を見ているせいかもしれない。 アラドは浮かんでしまう苦笑を誤魔化すのに苦心した。 「大丈夫ですから頭を上げてください。ワルキューレのリーダーに何をしたんだと袋叩きにされてしまいますって」 「でも……」 「俺としては何も問題ありませんでしたよ。女神のお誘いで美味い酒に美味いクラゲに――ああ、そうだ。残りのクラゲも勝手にいただいちゃいましたから、むしろご馳走様でした。それより身体は大丈夫ですか?」 しこたま飲んで潰れた翌日だ。若い時分に無茶をしたときのことを思い出しながら、アラドは漸くきちんと姿勢を戻してくれたカナメの表情を確かめてみた。 が、隈もなければ肌艶もいい。いつもの完璧なカナメ・バッカニアの姿がここにあった。 今は部下のいる身でさすがにもう飲み潰れるようなことはしないが、アラドが昨日のカナメと同じ飲み方をしていたら、今日の姿はきっと大変なことになっているに違いない。酒の強さにそれほど違いはなさそうなので、これが若さの違いかと心なし悲しい感想を抱いていると、カナメはふるふると小さく首を横に振った。 「身体の方は全然……ただ、ちょっと記憶がですね……」 「記憶?」 言いにくそうに少し口ごもってから、聞き返したアラドに窺うような視線を向けてくる。 「昨夜はミラージュが迎えに来てくれたらしいんですけど、アラド隊長が呼んでくださったんですよね。でも彼女、何も教えてくれなくて――」 「何も覚えてないんですか?」 どこからか記憶が飛んでいるのか。 昨夜のカナメの態度を思い出しながら、アラドは首を傾げた。 これまでとは明らかに違う飲み方をしていたなとは思っていたが、そこまでの酔い方をしたカナメは、一緒に飲むようになって昨夜が初めてだ。酒の勢いは勿論あっただろうが、どこまでが酔いで、どこまでが演技だったのか、正直アラドには判断出来かねないところがある。 「何もというわけではないんですけど。ただ、ちょっと曖昧で……色々、その、前後もあんまり……」 「メッサーの話をしたのは覚えてますか?」 「いつもどおり断られちゃいましたね、というような話をしていた、ような……」 尻すぼみになりながら、カナメが途端に不安そうな表情になる。 これはほとんど覚えていないなとアラドは確信した。 酔っ払いの振りをしてその実覚えているような女は、経験上絶対にこんな聞き方はしない。もっと計算高く甘えた謝罪になるはずだから、カナメは本気で自分の失態を気にしているのだとわかった。 若い頃、無礼講という言葉を鵜呑みにしてむごたらしい無礼を働くほど酔った自分の青春が頭を過ぎり、同情的な気分になる。 「あの、私何かおかしなことを言ったでしょうか……?」 必死さの見えるカナメを前にして、記憶がないというのはさぞかし不安だろうと思う反面、メッサーはあのまま大人しくミラージュに預けたのかと僅かに毒づきたい気持ちも芽生える。 帰り際珍しく懇願じみたメッサーの依頼を聞いてしまっては無碍にも出来ず、ミラージュに連絡を入れたのは確かにアラドだったが、まさか本当に何もなかったのか。時間はあっただろう時間は。 朝のミーティングで変わった様子のなかったメッサーとチャックの様子からも、ミラージュによるカナメの奪還作戦は速やかに行われたものと思われる。 (骨なしクラゲか、あいつは) カナメにしてみれば、目を開けた朝に寝乱れたメッサーが隣にいなかったことは良かったに違いない。が、果たして同じ男としては。あれだけひっつかれて何も感じなかったというのなら、それはそれで問題な気がする。 どの方向にでも少しくらい進展があっても良かっただろうに。 「あの、アラド隊長?」 黙りこくってしまった自分を更に不安そうな声で呼ぶカナメに、アラドは至極まじめな表情をして見せた。 カナメがごくりと咽喉を鳴らす。 「昨夜はですね」 「は、はい――」 メッサーをつついても駄目ならば、こちらの女神をつついてみるか。 アラドの言葉を待つカナメの手が、緊張にかぎゅっと拳を握っている。 「メッサーと話したい、メッサーに触りたい、メッサーと食事に行きたい、メッサーと買い物がしたい、メッサーと」 「ま、待ってください! え、あの、……それ、昨日私が?」 嘘は一つも言っていない。ただ羅列するとものすごい欲望のオンパレードになっている発言に、カナメ自身が呆気に取られたように口をぽかりと開けた。これだけ聞けば、酔った勢いのただの告白だ。 しかもまだ更に上もある。 「メッサーに壁ドンされたいとも言っていましたね」 「う、嘘です! さすがにそれは嘘でしょう、もう!」 ほんのりと頬を染めながら、けれども少し怒ったような口調になったカナメは、アラドの言葉を信じないことにしたらしかった。記憶が飛びすぎているのも困ったものだ。むしろからかわれたとでも解釈している様子のカナメに、アラドは内心でため息をついた。これでメッサー本人にも抱きついていたなどと教えたら、一体どんな顔をされることやら。 そう思っていると、廊下の向こうからケイオス職員のやってくる姿が見えた。会話の内容を聞いてくれれば違うとわかるが、頬を染めたカナメとの立ち話がすぎれば、おかしな噂が聞こえてくるとも限らない。そういう事情をあまり勘案しないカナメをさりげなく促して、アラドは歩き始めた。 午前の予定は、敵の緊急な襲撃でもない限りはいつも通り。 アラドはカタパルトデッキへ、カナメはトレーニングスタジオへ。 まだ話し足りないらしいカナメのゆっくりな歩調に合わせながら歩いていると、少し考え込んだような呟きが聞こえてきた。 「メッサー君にも謝らないとですね」 「奴が来たところまでは覚えているんですか」 「それが全然。ただミラージュが、メッサー中尉が女子寮まで運んでくれたと、それだけは教えてくれたので――……」 なるほど。結局あのままカナメは寝落ちしていたわけか、とアラドは推測した。 それではメッサーも手は出せなかったに違いない。よしんば出したとして未遂か。いや、でもキスくらいしたか? さすがに下世話な推測か。 馬鹿がつくほど真面目でストイックな青年の、口元を真一文字に引き結んだ表情が浮かぶ。奴のことだ。そんな状態のカナメを裸喰娘々のテーブルに放置は出来なかっただろうから、どうせミラージュがやってくるまで、自分のベッドにでも寝かせていたに違いない。 力の入らない酔っ払いの介抱は意外と力のいる作業だから、ミラージュ一人でカナメを抱えられないと見るや、無表情のまま抱きかかえて一緒に女子寮まで運んだのだろう。 その様子は少し見てみたかったような気もする。 あの鉄面皮の青年が、部下の前でどう女神を扱っていたのだろうか。 (そういやミラージュの奴、ちょっと様子がおかしかったな) 朝の様子を思い出して、アラドははてと内心で首を捻った。 最近では少し距離の縮まったように見えた上官と部下の関係が、振り出しに戻ったとまではいかないが、何かやたらとトゲトゲしかった気がする。ミラージュとの間に何が起こるとも思えないので、カナメ関連の何かだろうか。けれどやはりメッサーの態度は何も変わらず、厳しい上官の顔をしていた。 「アラド隊長は、そのときはもう帰られていたんですよね」 「そうですね。俺はクラゲを貰ってメッサーに任せてしまいました」 「……」 悪びれなく答えると、カナメの言葉が止まった。 無責任だと言えなくもないアラドの行動は、時と場合によっては詰られるものかもしれない。仮にも一緒に飲んでいた相手を置き去りにして帰ったも同じだ。 黙ってしまったカナメを横目で窺えば、しかし怒ってはいないようだった。右手の拳を口元に持ち上げ俯く彼女は、一生懸命考え込んでいるような顔をしている。 「カナメさん? どうしました?」 「……余計嫌われたでしょうか」 下を向いたままでぽそりと落とした声が、可哀想なくらい不安に揺れていた。けれど、誰に、と聞くこともなくわかる相手がすぐに浮かんで、アラドは軽快な笑い声をあげてしまった。 カナメは嫌われていると思っているようだが、それはない。絶対にないのだ。それが恋かと問われれば断定は出来ないが、例えどんな理不尽なことをされたとしても、メッサーがカナメを嫌うことはないとアラドは知っている。 だがそれを知らないカナメは、不安と不満を綯い交ぜにしたような顔でアラドを見上げてきた。 「大丈夫でしょう――おっ、ちょうどいい。本人に直接聞いてみませんか」 「え?」 「メッサー!」 フライトログでも入力していたのだろうメッサーが、モニタールームから出てくる姿を見つけるやいなや、アラドは声を張り上げた。隣でカナメがあからさまに息を飲む気配がしたが、気づかないふりで片手を上げる。 気づいたメッサーが、アラドに対して目礼をした。その態度に、アラドは妙な違和感を覚えた。が、口にはせずに気軽な調子で側に行く。 「よ、終わったか?」 「いえ、コーヒーを追加してこようと思いまして」 空のマグカップを示す。そのまま話は終わりとばかりに二人の横を行こうとするメッサーは、ここまで一度もカナメを見ていなかった。違和感の正体はこれか。隣で物言いたげな表情を見せるカナメは、言葉を出しそびれているのがわかる。 横目でそちらもちらりと確認したアラドは、若い二人に内心で肩を竦めたい気分になった。少しばかりのお節介ならいいだろう。ついでに一緒にコーヒーブレイクでもどうかと言いかけたアラドの横から、カナメが半歩前に出た。 「お、おはよう! メッサー君!」 「……おはようございます」 さすがワルキューレのリーダーだ。行動力は彼女が上か。 それでもさすがに強張って見える彼女は、懸命に普段どおりを装って、明るい笑顔でメッサーを見上げていた。 「昨日は迷惑掛けちゃって本当にごめんなさい。その――ミラージュからメッサー君が寮まで運んでくれたって聞いて。ありがとう」 「いえ、大したことではありません」 「私、何か変なこと言っ」 「いえ、大したことは。何も」 対してメッサーは、いつも通りに輪をかけて素気無い態度をしているように、アラドには見えた。カナメの言葉を被せ気味に否定するこれは、昨夜酒に飲まれたカナメの失態を追求させない為の優しい冷たさか、はたまた拒絶か。さすがのアラドにも推し量れない。 カナメはどう思っているのだろう。そっと様子を窺うと、何事かを考えるように下を向き、それから上目遣いでメッサーを見た。 「……壁ドンしてとか言ってないよね?」 「は?」 「ぶふっ」 「ち、違うならいいの! 変なこと言ってごめんなさい! 忘れてね!?」 「はい……?」 さっきの発言は意外と気にしていたらしい。思わず吹き出してしまったアラドを一瞬きっと睨みつけて、カナメは慌てたようにぶんぶんと両手を振った。 聞き取れなかったのか意味がわからなかったのかは定かではないが、訝しげなメッサーが頷くと、カナメはほっとした表情を見せた。壁ドンよりも物理的に抱き合っていましたがね、と横から茶々を入れたい衝動に駆られるが、横槍は野暮だ。アラドはぐっと踏みとどまる。 と、自分の発言を誤魔化すような照れ笑いでほんのり頬を染めたカナメが、また普段どおりの明るい声を作って続けた。 「あの、それでね、もし良かったら今度昨日のお礼に」 「いえ、自分は本当に大したことはしていませんので」 けれど、メッサーは再び被せ気味にカナメの言葉を遮った。 まるで話は終わりだといわんばかりの切り口上。 「……」 「……」 「……」 これは、照れ隠し――なのかもしれないが、だとしたらはっきりとやりすぎだ。拒絶にしても、もっと上手いやり方がある。今までならカナメの誘い文句くらいは最後まで聞いていたメッサーが、今日は目も合わせていないと思うのは、きっと気のせいではないだろう。 嫌われているのかもしれないと悩んでいたカナメを知っているからこそ、余計にアラドは眉を顰めてメッサーを見た。アラドのことすら見ていないメッサーの視線は、僅かに焦点がずれているように見える。何をしているんだお前はと文句がこみ上げて、アラドは苦虫を噛み潰したような気分になる。 すぐ隣で黙してしまったカナメを見るのがはばかられてしまう程の居心地の悪さだ。 「……おい、メッサー」 「そっか。うん、でも、ごめんねメッサー君。それからありがとう」 さすがに口を開いたアラドを制すように、カナメがパッと顔を上げた。思わず振り向くと、カナメはにっこりと笑顔を浮かべてメッサーを見上げていた。その顔が、傍目にも痛いくらいいつもどおりの――画面を通して見るワルキューレのカナメ・バッカニアに見えて、アラドは内心で盛大なため息をついた。 本当に。何をしているんだ、メッサー。お前は。 「じゃあ今度また美味しいクラゲが手に入ったら、今度はメッサー君にも貰ってほしいな。それくらいは遠慮しないでね? アラド隊長がきっと合う美味しいバナナ酒も教えてくれると思うから」 その笑顔のままで話題を振られれば頷くしかない。少しだけアラドに視線を向けて礼を言ったメッサーは、言う相手を間違えている。けれどカナメはそれ以上メッサーに言葉をかけるのを止めてしまった。あきらかにアラドへと顔を向ける。 「それじゃあ、私もそろそろスタジオに行かないと。失礼しますね」 にこりと口角の上がった口元が崩れないのはさすがだが、こちらもまた微妙に視線がずれている。いたたまれない。昨夜、酒が入っていたせいとはいえ、「嫌われているんでしょうか」と涙を流していたカナメを知っているからこそ、いたたまれない。しばらく飲みに誘われることもないだろうが、ワルキューレの誰か――美雲かマキナ辺りが気づいて発散させてやってはくれないだろうか。 「ああ、はい。お疲れ様」 「お疲れ様です」 笑顔のまま踵を返したカナメに声を掛けるメッサーは、ここにきて漸くカナメの背中へ焦点を合わせたように見えた。本当に、何をやっているんだお前は。空で、バルキリーの操縦で、実戦で、そんな愚鈍な反応など見せたこともないくせに。 「メッサー」 「はい」 感情の見えない表情で背中を見つめたままの部下に声を掛けると、メッサーはすぐさまアラドに視線を戻した。切り替えが早いというのは美点だが、こういう時はただの問題点だ。 アラドは今度こそはっきりとため息を溢した。 「野暮なことは言いたくないが、さすがにアレはないんじゃないか?」 「あれ、とは」 「だからだなあ――……」 ガシガシと頭を掻きながら頭一つ分高い部下を見上げたアラドは、思わず目を瞠ってしまった。本当に純粋な疑問を浮かべたメッサーの視線に、ついついため息も深くなる。 まさか全部無意識なのか。 だとしたらこれは余計な世話か。それともこれくらいなら許されるのか。 「ちょっと顔貸せ」 「は?」 彼の抱える重さを量っても決めかねる介入の範囲に最後に深く息を吐いて、アラドはメッサーと連れだって、給湯室へと向かうことにしたのだった。 【 ⇒ 】 前回のお話の翌日のお話。 |