言葉じゃなくても伝わるから(01)




 初めてそうした日、メッサーも――おそらくはカナメも――まさかこの関係が続くだなんて、たぶんどちらも思わなかった。

「……っ、ぅ」

 苦しそうに鼻にかかった声はすぐそばにある。
 一夜の過ちという言葉は、上手いことをいったものだとメッサーは自嘲気味に頭の中でそう呟いた。過ちは繰り返される。それは歴史という局面においても連綿と紡がれてきた事実で、自身の人生という短い局面においてもいくらかの経験が実証している。

「ふ、っ――」

 耳朶に届いてすぐに脳髄を蕩かすカナメのあえかな息遣いが、メッサーの自嘲を多い尽くすほどの欲望に変える。
 小さな震えは拒絶ではなく生理的な反応なのだと都合良く解釈したがる脳を好き放題にさせて、メッサーはカナメの唇を更に深く割り入れた。熱くぬめる舌肉を逃がすまいと何度も絡め、吸い、歯列をなぞれば、カナメのたどたどしい舌が、それに応えようと必死でくらいついてくる。そのいじらしい動きがたまらなくさせるとわかっていないから、彼女は性質が悪いのだ。
 自分のしている行為を棚に置いて、恩人に対してひどい感想を抱いていることにはやはり嗤うしかない。

「……ッ、……もっと、」
「はい」

 目の前のカナメにだけ集中できていないことに気づかれたのだろうか。唇をつけたまま薄く目蓋を開けたカナメが、白くたおやかな指先をメッサーの頬に伸ばした。強引にとはまるで言えない力に抵抗する気など端から沸かず、メッサーは角度を変えてカナメの口腔の奥深くを、求められるままに蹂躙する。

「ん、ふ、ぅ」

 メッサーの口撃を素直に受け入れるカナメの開いた唇を甘噛み、舐めて唾液を絡め、彼女の頬に添えた手で少し自分の方へと引き寄せる。足の震えを隠せていないカナメがたたらを踏んでメッサーにもたれるのを、自身の膝の上に受け止めて、メッサーは壁に彼女の背中を押しつけてやった。勢いで強く押しつけるように擦り上げた膝上で、カナメの身体がびくりと揺れた。

「……ンッ!」

 一度ジャケットまで滑り落ちた指先が、縋るものを求めるように強く握り、それから這うような動きでメッサーの頬を何度も往復し始める。その動きにすら煽られる。カナメにそのつもりはないとわかっていても――これが、愛を交わすものではないと知っているのに、まるで行為に付随する気持ちまで求められているような熱に侵されて、メッサーはカナメの腰を片腕で強く抱き寄せた。
 ついでに、片手で簡単に覆えてしまう小さな頬をもう一方で丹念になぞり、小指の先で耳朶に触れる。カナメが咽喉の奥で悲鳴を出した。ここが感じることを、もうメッサーは知っている。

「ん、それ……やっ、」

 身を捩ろうとしたカナメを強く押しつけて、メッサーは一層深くカナメの口腔に舌を入れる。

「んぅ――ッ!」

 鼻に抜けるようなカナメの甘い声が、絡めた舌先から細胞ごと蕩かすような破壊力をもって理性の最後を試そうとする。メッサーはカナメの震える舌肉に自分のそれをひたりと合わせることでどうにか耐えた。
 ぴくぴくと小刻みに震える舌を宥めるようにもう一度だけ優しく吸い上げ、くたりと力の抜けたカナメの身体を支えて、ゆっくりと離れる。
 はあはあと短くスタッカートを切る呼吸を恋人のように抱き寄せて宥めるのは、メッサーの任務の範囲外だ。だから、まだ辛うじて曖昧な境界に陣取っていた自分の膝をカナメの両足の間から引き抜いて、今度こそメッサーは一歩距離を取った。そうすると支えを失ったカナメの身体がふらりと前に揺らぐ。軽く手だけを添えて、メッサーはともすれば抱き留めてしまいそうな自分を踏み止めた。
 部屋の中の薄明かりでは判然としないが、カナメから離れた膝が他より僅かに湿り気を帯びている気がする。



 触れたい。――バカなことを考えるな。
 奥までもっと暴きたい。――そこまで彼女は求めていない。



 ともすれば頭が沸騰しそうになる思いをきつく目蓋を閉じることで閉め出して、メッサーは深い息を溢した。

「大丈夫ですか」
「……ん、うん、へいき」

 まだきちんと閉まらないカナメの唇が、仮眠室を照らす暗い照明を受けてぬらりと艶めかしく光る。けれども視線が合うことはなかった。終わった後、カナメは決してメッサーを見ない。平静を装い――そのくせまだ危なげな口調でメッサーの言葉に返しながら、カナメはふらつく足を必死で誤魔化そうとしているようにメッサーには見えた。
 それはまるで直前の行為を後悔しているようにすら見えて、そう思ってしまえばいつもメッサーの胸の奥が鈍い痛みを訴えてくる。

(勝手な言い分だな)

 痛みに堪え、胸に手を置きそうになる自分に、もう今日何度目か知れない自嘲を込めて、メッサーはカナメに気づかれない程度に薄く嗤った。
 メッサーが胸を痛める必要はどこにもないはずだった。
 この関係の切欠はどちらとも言えず、継続を望まれて応えると決めたのはメッサー自身だ。良くないことです、と一言告げれば、おそらくカナメは無理にメッサーを求めてくることはないだろうに。そうとわかっていながら女神の唇を奪っているのは、本来触れることすら願ってはならない死神の冷たい唇だ。

「もう少し、休んでいきますか」
「……大丈夫。そろそろ戻らないと。ブリーフィングの小休憩にしては長いって怪しまれちゃうから」

 カナメのおどけたような言い方で、メッサーは心に冷や水を浴びせられたような気分になった。そのことにも勝手なものだと思うほかない。艦長含めΔ小隊隊長とワルキューレのリーダーとの三者会議は珍しくもないのだが、その会議の小休憩にカナメがメッサーの仮眠を取る部屋にやってきたくらいだ。たぶん何かあったのだろうと察しはついた。
 意に添わないことがあったのか。だがカナメが自分の口づけで忘れようとするほどのこととは何だ。気にはなる。本当はカナメがこの部屋にきたときから、メッサーはずっと気になっている。
 彼女を思い悩ませたのは誰かの言葉か、はたまた態度か。
 カナメにここまで足を運ばせる決意をさせたのは、アーネストか、アラドか、それとも他の――

「……大丈夫ですか。本当に」

 けれど踏み込む権利は自分にはない。
 ともすればこの腕の中に抱きしめて甘やかしたいなどと大それた事を思ってしまった自分の図々しさにゾッとして、メッサーは馬鹿の一つ覚えのような言葉を口にした。
 もう大分呼吸の落ち着いたらしいカナメが、メッサーを振り返る。けれどやはりいつもなら真っ直ぐ自分を見上げるはずの瞳は、メッサーを映しはしなかった。かわりに困ったような微笑がカナメの眦を下げている。

「大丈夫。ありがとう、メッサー君」
「いえ、……大したことではありません」
「そっか」

 気の利いた台詞の言えないメッサーの口が、いつもと同じ言葉を乗せる。

「じゃあ、私いくね。疲れてるのにお邪魔しちゃってごめんね」

 やはりメッサーを見ないままそう言って、カナメは仮眠室のロックを外した。シュン、と空気を切る音と共に廊下を照らす明かりがメッサーの目を一瞬奪い、視界からカナメを連れ去って閉まる。
 カツカツと遠ざかる足音に軽く突き飛ばされたような感覚で、メッサーは後ろのベッドへと腰を下ろした。両膝に肘をついて、ぼんやりとし始めた目蓋を閉ざす。そのまま力なく後ろへ倒れると、メッサーの口から情けないため息が溢れた。

「……つかれた」

 本音がそっと吐息に流れる。愛機と激しい戦闘域を滑空した後よりも別の疲労が色濃く取り巻いているのを感じる。
 カナメの唇の感触が、耳朶をくすぐる濡れた吐息の感触がすぐに蘇ってきて、メッサーはさらに深く息を吐いた。

******

 彼女とこんな関係になったのは、そう最近の話ではない。
 最初のキスはついうっかりというタイミングでおそらくメッサーが仕掛け、途中で挫けてカナメが奪った。
 あの時はブリーフィングの途中ではなく、確か終わった後だった。
 置き忘れたファイルを取りに戻ったメッサーは、一人難しい顔で立ち尽くしているカナメを室内に見つけた。見なかった振りをして立ち去るには微妙な距離とタイミングだ。そもそも何かあったのかと考えた時点で、カナメから直々に拒絶されない限りメッサーに彼女を放置するという選択肢もない。

「お疲れ様です」

 取り急ぎ当たり障りない言葉を掛けたメッサーにハッとして顔を上げたカナメが、いつもと変わらない笑顔を見せた。

「お疲れ様、メッサー君。あ、忘れ物?」

 変わらなさすぎて、まるでPVの撮影のようだ。これだから元アイドルは困る。

「じゃあ私は先に戻るね。また――」

 そのままメッサーの横をいつもの調子で通り過ぎようとするカナメの手首を引いてしまったのは、つい、としか言いようがない。「またね」と嘯いたカナメの表情は確かに笑っていたけれど、どうしてだかメッサーには何かに酷く傷ついているように見えたのだ。
 それがどうしてだったのか、今でもメッサーは聞けていない。少し後でアラドが彼女に謝罪の言葉を伝えている現場に遭遇したことがあったので、おそらくそれが原因だったのだろうと推測している程度だ。
 ともあれついうっかりカナメの手を取り振り向かせたメッサーは、珍しく至近距離でカナメの瞳を見てしまった。綺麗な碧い双眸が驚いたようにメッサーを映している。歌姫、女神と世間で騒がれている彼女たちはメッサーにとっては守るべき大切な仲間で、けれどもその中でカナメだけは確かにある意味女神だと思っていた。自身を死の淵から救い上げた女神――いや、それはこうなった今もずっと変わってはいない。

「メ、メッサー君……?」
「大丈夫ですか」
「何で……」
「大丈夫ならすみません。だけど、大丈夫ですか」

 けれどこの時、もう一度「大丈夫ですか」と声を掛けたメッサーに、カナメが見せた生身の女のような心許なさが、メッサーの理性を一瞬揺るがせたのは間違いない。

「……大丈夫、に、見えなかったかな」

 困ったように微笑したカナメが、メッサーに掴まれていない方の手で前髪を触る。
 無意識にだろう表情を隠そうとしているらしい動きに無性に腹が立って、メッサーはその手も不意に奪った。

「メッサー君?」

 瞬くカナメの大きな瞳は澄んでいて、けれどもどこか憂いを含んで見えた。それはカナメを悩ませている何かのせいなのか。どうすればいい。どうすれば自分にそれを忘れさせられる。カナメには笑っていてほしい。心のままに歌ってほしい。甘く、凛として、高く、低く、澄んで伸びやかな歌声をメッサーに、いや、銀河中に届けていてほしいと思うのに。
 そのために自分が出来ることなら何だってする。それが、たとえ彼女と誰かの架け橋だって。

「メッサー、くん……?」

 気がつけばごく近くにカナメの顔を捉えていた。
 大きく屈んだ自分の体が、カナメの腰を片手で抱き寄せ、前髪をいじっていた手を取っていた方の手のひらがカナメの頬に触れていた。角度をつけて傾けた顔は、カナメに標準を合わせている。吐息が唇を掠めているのだと唐突に理解して、メッサーは自分に驚いた。
 何をしようとしていたのか。カナメはそういう相手ではない。そもそもただの一般人ですらないのだ。今やケイオスの重要な任務を担う、銀河系戦術音楽ユニットのメンバーだ。一種アイドルとしての側面すらもつキーパーソンに軽率に触るだけでも不届きだった。
 何でもしたいと思いながら、カナメを傷つけたかもしれない誰かを考えた瞬間、口に出せない感情に支配されてしまったなんて、未熟にすぎる。
 メッサーは屈み込んでいた背中を伸ばして、素早くカナメから距離を取った。

「すみませ――」
「どうして?」
「え?」

 けれどカナメの手が、不意にメッサーのジャケットを強く引き寄せた。
 想像もしていなかった方向への負荷に、思わず間の抜けた声が出たと思う。それを確かめる前に、カナメの唇がメッサーのそれを奪っていた。

 人間が心の底から慌てるとどうなるのか、メッサーは初めて自分自身で理解した。一瞬身体が動かないのだ。恐怖で身を竦めるという表現はあるが、驚愕でもそうなるとは知らなかった。
 カナメからキスをされたと理解が追いつき、今度は慌てて引き離そうとしたメッサーの両頬を、カナメはしっかりと掴んで離さなかった。それどころか、重ねた唇の間をせっつくように何度も吐息が乱れ入ってくる。身体どころか、頭もどうにかなりそうだった。

「カナ、カナメ、さん……っ」

 舌先が僅かに触れたかもしれない。メッサーはどうにかカナメの両肩を掴んで引き離す。乱暴になりすぎないようにと思えば、それが限界の抵抗だった。けれど離された距離を一歩詰めたカナメは更に強い力でメッサーの襟首を掴んで自分の方へと引き寄せる。
 こんな近さで赤い髪が視界を掠めたのは初めてだ。本当に綺麗だと場違いな感想で意識を逃がすメッサーを、カナメの唇がまた奪った。今度はちゅ、と小さな音だけを響かせて、すぐに少しだけ離される。

「……先に仕掛けたのはメッサー君じゃない。中途半端にしないで。最後までちゃんとして。……お願い」

 その台詞にカナメのどんな真意が含まれていたのかなんて、メッサーには考える余裕はなかった。ただきゅっと薄い唇を引き結んだカナメが、上目遣いにメッサーを見つめて言った最後の「お願い」は、確かな懇願をもっていた。メッサーがカナメの願いを聞き入れないで入られるわけがないのだから、それは確かだ。
 どうしてカナメが自分にそんなお願いをしたのかはわからない。自分でも認められないカナメへの想いを、察しの良い彼女はとっくに気づいていて、だから丁度良いとでも思われたのかもしれない。何かに思い煩うとき、身体だけの行為はいっそ馬鹿馬鹿しいほど動物的に、あらゆることを忘れられるから。

「キス」
「……え?」
「続けて」

 ジャケットの襟を掴んで引き寄せたままのカナメは下を向いているから、その表情はまるで見えない。けれど今度はメッサーからしろと女神が命を下したのだと理解する。
 メッサーはカナメを決して裏切らない。カナメの求めには応えたいと思う。だから、もう、拒むことなど出来るはずがない。
 身を屈めて唇を下からお窺いを立てるように掬い上げて吐息を絡めて、口腔をおかす。それだけ。それだけだ。彼女は自分にキスをと命じた。期待には応えたい。女神が死神を今限りと望むなら、従順にそれに応えるだけだ。
 求められた行為以外、カナメを汚そうとは考えてもいなかった。

******

 突然のキスから始まった関係は、そうしてずっと続いている。
 カナメの気分次第でメッサーはいつだって応じているのだ。カナメがどういうつもりなのかはわからない。欲求不満の解消と俗な見方をするには、いつもそれだけで終わる行為では通常物足りないはずだ。むしろメッサーの方がその度激しい欲求を抱えてしまう有様だが、カナメからそれ以上を求められたことはやはり一度もなかった。
 それなのに不満を抱くだなんて、女神を相手にだんだん大それてきているらしい欲はただの罪だ。
 叶えられない、叶えてはならない邪な想いを振り払うように、メッサーは目蓋の上に腕を乗せた。視界から光を何もかも消し去りたい。自分にそんな権利はないのだ。忘れるな。自分は彼女に救われこそすれ、彼女をいつでも堕としてしまうかもしれない爆弾を抱えて生きているのだということを。

「……」

 なのに閉じた目蓋の裏に、カナメの塗れた唇が浮かぶ。薄く色づく柔らかなそこを濡らしていたのはどちらの唾液だったのか、もうはっきりとはわからない。その唇で、カナメは誰を重ねながらメッサーと交わしているのだろう。
 自分の面倒くさい思考に辟易として、メッサーは大きく息を吐いた。
 中途半端に人間界に顕現する女神に、人の姿を重ねる自分は大馬鹿だ。
 同じ神と称されたとして、向こうは女神で、こちらは死神。
 焦がれるだけでも腹立たしい両極端が何を言う。

「……疲れた」

 予定通り少し休んで、今日のフライトログをまとめなければ。
 身体に休息を命じながらどう意識を逃がしてみても、腕の中で捉えた甘やかな確かな熱は、メッサーから完全に消えてはくれなかった。





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キスから始まるメサカナ。
私の中の美雲さんイメージは、出来る三歳児。