あなたであれば例え涙の一滴でも(01) 1、慣れてる慣れてない 「身体だけの関係なんて、不毛だと思う」 沈痛な面持ちで恋人と呼べるかどうか怪しい相手との関係を打ち明けられたカナメさんが放った言葉には同意しかない。 まったくそのとおりだ。 心が手に入らないからと一時の快楽を他の誰かに求めたって、満たされるのは刹那だけ。その後に来るのは、むなしいばかりの欺瞞に満ちたピロートークだ。 「何か目的があるのなら別かもしれないけど」 彼女の言い分は妙に熱が篭って聞こえた。おそらく経験談に基づくものだからだろう。 目的。彼女のそれは、つまり、そういう経験にそこそこ慣れておきたい、といったところだ。 不毛。不毛だ。 「そう思わない? メッサー中尉」 「そうですね。全面的に同意します。自分を大切にした方がいい」 斜め向かいの席から急に矛先を向けられて、彼女の意見に頷いた。 昨日の夜にも泣いていたのかもしれない。厚ぼったくなった目蓋を震わせて「そうだよね」と呟く同僚の痛々しい姿が、まるで自分と重なって見えた。思わず視線に険が乗る。 「そもそも、そんな誘いに乗るような奴にろくなのはいない。もっといい相手がいる。そんな誘いを受けたらお前まで軽く見られる。違うだろう。そんな男、こっちからさっさと捨ててやれ」 つい熱っぽくなってしまったのは、これは自分の経験談だからに他ならない。 あたかも親身に答えている風を装ったその言葉はブーメランだ。 気づいたのだろうカナメさんが、友人を慰める表情の中に一瞬だけ眉間の皺を深くした。 けれどそんなことを思いもしない同僚はきょとんと腫らした目蓋で瞬き、破顔した。堅物男のお説教はなかなかツボをついたらしい。ありがとう二人とも、と礼を言われ、カナメさんとは目も合わせずに一言二言励ましの言葉を交わして、俺は先に席を立った。 **** 「カナメさん」 「なあに?」 少し舌足らず気味な発音で答える彼女は、腕の中で呼び掛けにすら僅かに身を捩るような動きをした。汗ばむ額に張り付いた前髪を横に流せば、ぴくりと身体が揺れる。 ん、と咽喉を鳴らすのは無意識だと知っているのに、甘えるように寄せてくる身体を抱き締めたくなる馬鹿げた気持ちをどうにかしたい。だというのに、彼女の伏せた長い睫毛が震えながらゆっくりと持ち上がり俺を見つめる姿を見れば、馬鹿げた気持ちが嘲笑うかのように競り上がってくるのを感じた。 ダメだ。このまま見ていたらまた無茶苦茶にしてしまいたくなる。 「好きな相手と進展があったら、教えてください」 自制を促す為と、日中の会話を思い出してそう言っておく。 と、カナメさんは一瞬きょとりと瞬いて、それからすっと視線を逸らした。 月明かりを反射して煌めく瞳は、太陽の下で放つ輝きとはまた違い、今にも波に拐われてしまいそうな儚さを感じる。童話のように泡となって消えないように、腕の中に繋ぎ止めたい。けれどそれは俺に求められた役割じゃない。 だから、言葉で伝えるのだ。早く、幸せになってくれ、と。 「……どうして?」 答える声は、今にも泣き出しそうに聞こえた。想い人との関係はまだあまり良くないらしい。 彼女の何が不満なんだと憤りながら、ホッと胸を撫で下ろしている下卑た自分を自覚する。 「あなたの足を引っ張ることは、俺の本意ではないからです」 「メッサー君は、好きな人ができても教えてくれなくていい」 いかにも取り繕った台詞を遮るようにカナメさんが硬い声音でそう言った。彼女の身体に溺れているのを見透かされたような気になる。否定は出来ない。だからカナメさんの言い分に黙って「はい」とだけ返事を返した。 俺の気持ちなど、カナメさんには関係がない。知らなくていい。 セックスだけ。 この刹那的な関係を最初に持ちかけたのは彼女だが、あっさり受け入れたのは俺だった。 恋い焦がれて、焦がれすぎてどうにも出来ないほど高見に掲げていた相手とのこんな不毛な関係を、まさか自分があんなにあっさり受けれらるとは思ってもみなかった。 ワルキューレだ、女神だと言われるカナメ・バッカニアが淫らに乱れて男を求める女であったように、俺もただの性欲を持て余した男だった。 愛しさしか感じない女からしたいと言われて、手を出さないでいられるほど聖人君子になりきれなかった。 「メッサー君」 「はい」 彼女が好きな相手はどうやら相当手慣れた男らしい。どう贔屓目に見ても行為に慣れていると思えない――それどころかまさか初めてだった彼女に何故こんなことをと、最中に一度だけ聞いたことがある。耳まで真っ赤に染め慣れない行為に翻弄されながらの答えは、至極くだらなくて単純だった。 曰く、初めては面倒くさがるって聞いたから、と。 だから慣れておきたい、だなんて、本来馬鹿馬鹿しすぎる話だと思う。 処女性を重んじるだとかいうつもりはないし、経験値など関係はない。けれどそんなことのために俺に奪われて良かったのか。それは信頼なのか、妥協なのか。彼女の考えがまるでわからない。 元アイドルだったのだし、そういう経験があったっておかしくなかったと思う。いや、アイドル以前にこれだけ容姿も性格もいい女が手付かずでいたことにむしろ驚く。同時に今まで感じたことのなかった独占欲の存在を感じた。 昼間同僚に告げたのはつまり俺自身のことに他ならない。そんなものに乗る男に碌な奴がいるものか。 けれど彼女の想い人とやらは相当馬鹿だ。 その馬鹿のお陰で、もう誰も奪えない彼女の初めてを得た。気が、狂いそうだ。 「キスして」 「……」 「うんと甘いの。勘違いしそうなくらいがいい」 そんな俺の内心はまるでどうでもいいとばかりに、カナメさんが俺の唇を指でなぞるように触れた。びりびりと痺れるような甘い痛みが身体中に駆け抜けていく。請われるままに重ねた唇を食めば、当たり前のように薄く開いた中へと舌を捩じ込んでいく。 「……ん、……ふっ、ぅ……」 乗り上げてベッドマットへ押し付けて、逃げ場のないキスで溢れた唾液を指で救う。口の中へ押し込めば、吸い付きながらカナメさんの閉じた目蓋から涙が横に一筋流れた。 泣くくらいならねだらなければいいのに。馬鹿だ。 「ん、ぅあ」 けれども、やめてと言われないのをいいことに、誰かと重ねているのだろうその唇をまた塞いだ。 自分から誘うくせに慣れない彼女は、それでも毎回キスをねだる。いつか想う相手とこういう行為になったとき、当たり前のような顔をしてスムーズにことを運びたいんだろう。馬鹿だと思う。本当に。だって、あなたはそういうタイプじゃないだろうに。 「ぁ」 絡めて吸い上げ、優しく食んで、口内をこれでもかと蹂躙する。えづくように必死で絡め返そうと蠢く拙い動きに頭がクラクラしてきてしまう。それでもキスを送り続ける。いつか誰かとするときに、何か違うと彼女が後悔するほどとびきり優しく情熱的な口づけを。 「……っさーくん……」 「はい」 舌先を柔く食んでから唇を離せば、カナメさんはとろりと蕩けた表情のまま、甘い口調で俺を呼んだ。涙を溢し、尚も潤んだ瞳に非難の色は微塵もない。ステージではあれだけ観客を魅了して、凛と背筋を伸ばし、仲間を常に引っ張っている女神がただの女だと思う瞬間だ。この瞬間を知っているのは自分だけなのだという愉悦に暗い満足が駆け上がるのを、カナメさんは微塵も感じたりしていないんだろう。 「時間、まだ平気?」 「……」 だからこんなことを平気で言える。 「勘違いしたい」 断れないことを見越されているように錯覚する。あながち間違いではないのが困るところだ。何度抱いてもまるで初めてのように慣れないくせに、雰囲気が溶けて馴染んでくる女の魅力には抗えない。憎たらしいほどずるいヒトだ。 「……あまり小慣れていない方が、喜ばれると思いますよ」 自分を冷静にする為だと言い聞かせて、本当はあまり触れたくない話題を自ら取り出す。 キスをねだり首の回してきた腕の動きを止めて、カナメさんが瞬いた。びっくり、という表現がぴったりの急に幼く見える表情だ。 「メッサー君はそうなの?」 「……」 俺を引き合いに出してどうするんですか。 笑ってあげればいいだけなのに、それが出来ない。どうせ自分は比較対象にすぎないとわかってはいても、はっきり見せつけられるのは胸の奥がギリッと嫌な音を立てた。 あなたは知らない。 焦がれた女性の、誰も知らない肌を暴く男のバカ見たにのぼせた汚い独占欲も狂暴性も執着心も何もかも。 逃げる舌を追い、震える身体を抱きすくめて体温を馴染ませる征服感も快感も。 これからどんな男があなたにいつ何をしたところで、絶対に二度と味わうことのできないものを得ているという醜くえげつない満足を。 けれど俺の無言をどうとったのか、カナメさんはきゅっと眉を寄せて顔を背けた。 「もう、遅いもの」 「――はい? 遅い?」 「初めては面倒臭いって聞いたとき、……メッサー君否定しなかったじゃない」 「……終わったあとのことを言われても」 それを聞かれたのは既に致した後だった。 荒い息の下で、泣きそうな声でそう聞かれた意味はよくわからなかったが、彼女に誰か好きな人がいることは風の噂で随分昔から知っていたから、その男のことなのだと理解した。 最中に彼女が初めてだということはわかったけれど止められなくて、出来るだけ丁寧にしたいと思ってもどうしたって興奮がぐんぐん先を行き、正直なにも考えられなかったような気しかしない。ティーンエイジャーでもあるまいし、それなりに経験があっても全く関係ないくらいに、彼女の姿態に溺れてしまった。反省はしている。 けれど、俺で済ませようとしたのはあなただ。そんな理由だなんて知らなかったし、残念ながらあなたが惚れた男もそういう類なら、俺の出る幕はどこにもない。 「小慣れてない方がいいとか、いまさら」 薄い唇を噛み締める仕草が子供っぽくて、他の男を想って悔しがるそんなことですら可愛いと思った。もう末期だ。 「……そういう男もいるという話です」 「メッサー君はそうなのよね」 「俺は関係ないですよね」 「……」 あなたの相手を俺は知らない。泣きそうな顔で睨まれても、できるアドバイスには限度があるし、伝えたことは嘘でもない。 彼女のお目当てがプレイボーイならそういう面は否定できない。ただそれを本命の女にも思うかどうかは別の話だ。 俺だって、ただ遊ぶだけならそうだろうが、愛だ恋だが絡んだ相手をそんなベクトルで見たことはない。というか、初めてを奪った相手なんてあなただけだ。 これから誰をどう抱こうが、あなたを重ねる自信しかない。 表情も声も反応も。俺の下でだけ見せればいいのに。 「……だって、もう覚えちゃったもの」 カナメさんの手が上に上がった。と思ったら目蓋の上に腕を乗せて、消え入りそうな声でそんなことを言う。きっと今、彼女は俺とこうしたことを後悔しているのだと思った。彼を想って泣いているのかもしれない。 だから馬鹿だと言うんです。本当に好きなら、どうして彼にまっすぐアプローチしなかったんですか。初めても、全部、全部、そいつに渡す覚悟でぶつかれば良かったんだ。そうすれば今、気の置けないバディに身体を明け渡したことを苦しむ必要もなかったのに。 もう遅い。なにもかも。 だって、あなたのいいところは俺が全部知っている。 俺が暴いて、ねだり方も、キスのし方も、俺が教えた。 でも。 「まだまだでしょう」 ぐいと腕を外して顔を晒せば、彼女は泣いてはいなかった。ただきつく寄せた眉が今にも決壊しそうな涙の膜を押し留めているのはわかった。自分でそうなるように仕向けたくせに、ズキリと胸の奥が鈍く痛んだ。泣かせたくない。 「慣れてませんよ、全然」 「……そうなの?」 「そう思います」 だからそう言った。あながちこれも嘘ではない。 足を開かせれば恥ずかしがるし、まって、やだ、はずかしい、と快楽を知ってる女の声で、それでも本気でそう思っているとわかる必死の抵抗はそそられる以外のなにものでもない。 そのくせ受け入れたら必死でしがみついてきて、ぎこちなく動きに合わせようとする時は俺のことしか考えられないはずだという醜い独占欲で満たされてしまう。 手練手管に長けた男を技術でどうにかさせるには未熟すぎるその反応が、慣れた女だと思われるほど抱き尽くす時間を、彼女はまだくれればいい。 「そう、なんだ。難しいのね」 慣れてる、慣れてない、を勘案しているらしいカナメさんは、おかしなことを呟いた。 かわいい。馬鹿だ。かわいい。 「――なら、まだうれしい……?」 けれども不安げに呟くその言葉のかかる相手が心底羨ましくて、妬ましくて、胃の奥がぐっとわし掴まれた気になった。 聞かれてもしるか。本人に聞いてくれ。いや、もう、今は、勘違いしたいだけさせてあげるから。 カナメさんの唇を奪う。もう一度をねだった彼女に額を合わせて、鼻をこすりつけ、最後の確認で舌を絡める。 「しますか。本当に」 「……いい?」 「かまいません」 時間はある。なくても作る。 さっきの余韻で潤っている彼女の中は既に少しきつかったけれど、キスをして指で解せば、すぐに奥が俺を思い出して吸い付いてきた。慣れた、というならこういうところか。他の男は知らないが、これが嬉しくなくて何なんだ。 もっと。もっとだ。もっと俺をほしがってください。 「めっさー、くん」 挿いれてしまえば馴染んでうねる中の妖艶さとは違い切なさを纏った呼び声に、泣きそうになった自分を隠して彼女を激しく責め立てた。 【 ⇒ 】 お互い想う相手は他にいるんだろうなーと勘違いしたまま、身体の関係だけ続けてる不毛なメサカナ。 オムニバス的に書いているので、時系列は1〜5のとおりですが、へ〜そういうことがあったんすね〜くらいの気持ちで読んでくださるとありがたいです。 |