君と馴染む傷跡@ 壁外からの帰還後、被験体の消滅後、昂ぶる感情を宥める為だけに肌を合わせるようになったのは、ごく自然の成り行きだった。互いに気遣いなんてものはなく、いっそ訓練か殴り合いのような交わりに、余計な感情は一切ない。 気持ちいいからする。それだけだ。 特別な感情の伴わない行為でも、身体は素直に反応するし、続けていれば互いの好みも自ずと知れる。ただでさえ興奮に任せているから、雰囲気を盛り上げる必要もない。 するかしないか、イエスかノーか。 その辺りの合意が取れれば、部屋に入って繋がるまでは早いものだった。 昂ぶっていれば服を着たままでもいいし、汚すからくらいの理由で全部脱ぐこともある。終わってしまえばそれまでで、余計な労りも余韻を楽しむ抱擁もなくていい。利害の一致した者同士の気楽さで指先の一つも絡ませず、快楽の享受と気怠さを共にする共犯者めいた呼吸に乗せて、彼らはいつでも冷静さを取り戻すのだ。 大抵はモブリットがさっさと準備を済ませて部屋を出る。彼が律儀に「失礼します」と言うのにも慣れた。 最初は壁外調査直後の挑発めいた関係からで。 それが思うとおりに進まない実験へのやるせなさをぶつける為にもなり、商会や他兵団と冗長で空虚な「会議」という名の探り合いを延々した後の疲れを払拭する行為の名目にもなって、なんとなく、――そう、なんとなく。抱き合う頻度は少なくない。 モブリットと合わせる肌を、ハンジは嫌いだと思わない。 「……分隊長」 「んー?」 「あの……」 「何?」 「……いいえ」 歯切れの悪いモブリットの胸がピクリと動く。 まだ少し汗の残る身体は、それでもだいぶ冷たさを取り戻して、声音も冷静なものに変わっている。つい数分前まで快感に強張っていた筋肉も今ではすっかり弛緩しきりなハンジの手など、簡単に払いのけられるだろうに、それをしないモブリットは困った上官の扱いをどう思っているのかわからなかった。 「あのさ」 「……はい?」 別にもう一度を誘っているわけじゃないことくらいわかっているはずだ。ただ凭れるように胸に乗せて、ひたりと頬を寄せていたハンジは、なんとはなしに面白くなさを感じて、モブリットを呼んだ。 「嫌ならはっきり拒絶していい。別に恋人同士ってわけじゃないんだから」 「……」 無言の彼の上で半身を持ち上げ、ハンジはムッと眉根を寄せた。 嫌ならさっさと出ていけばいいんだ。いつものように、仕事の終了を告げるような声音で「失礼します」とでも言って。そうしたら「お疲れさま」とでも返すのに。 普段ならあっさり出ていくくせに、けれども今夜のモブリットはそうしなかった。――いや、よく考えたらいつからか忘れてしまったけど、おそらく最近は何だかんだとこのまま一言二言、会話を交わす時間が出来ていたような気がする。寝物語のような愛らしさはなく、単に明日の予定確認だったり実験の進捗だったりするだけだけど。 だがしかし、それでもこれは業務ではない。 そもそもこの行為は、基本的に時間外にしか行われない。当然だ。 「イったら終わりでも本当にいいよ。変に気遣ってくれなくていい。そういう約束だったはずだろう?」 「……それは、そう、ですけど」 「けど?」 約束、と敢えて口に出してみたけれど、契約を結んだわけじゃない。暗黙の了解というやつだ。けれど反論しないところを見ると、モブリットもそのつもりだったのだとわかる。 そのくせ歯切れの悪い回答に、ハンジは剣呑な視線を乗せたままでモブリットを見下ろした。 シーツが肌の上を滑って露わになる胸を隠す初さも持ち合わせがない。視線を逸らすでもないモブリットも慣れたように、ハンジの方へと手を伸ばしてきた。見下ろす彼女から溢れた髪の毛を掬って耳へと掛ける。 「じゃあ何故、あなたは俺にこういうことをしてるんですか」 こういうこと? 言われて一瞬眉間に刻んだ皺は、おそらく単純な疑問からだ。けれどモブリットの指す「こういうこと」がさっきの行為を示しているのだと理解した途端、ハンジは更にはっきりと眉を寄せてしまった。 「……なんとなく」 「……」 答えたハンジを見つめるモブリットは、納得したわけではないらしい。無言の彼からさりげなく視線を逸らして、ハンジはもう一度乱暴にベッドに横になった。 「何となくだよ。嫌なら二度としない。悪かった」 まさかモブリットに指摘されるとは思っていなかったから、答えなんて持ち合わせがない。 行為の終わりに余韻――というほどのものではないけれど――を持たせるようになったのがいつからかなんてわからない。ただ、今日、モブリットの胸に凭れて手を遊ばせていたのに、理由なんて本当になかった。 ただ抱き合って、互いに欲を貪り合って、荒く息を吐いていたモブリットの身体が火照りを逃がす為に自分の隣で横にいるという事実に、胸の奥が鈍く騒いで――だから、本当になんとなく、触れてみたいと思っただけだ。 そうしたら意外と温かくて、筋肉質で、こういう身体だったかなとぼんやりと思った。筋肉の動きを見ていたつもりが、いつからか思考がぼんやりとして、行為の気怠い気分も手伝ってか、ハンジは随分寛いでいた。それは認める。 それがそんなに気に障ったならもうしない。 早くベッドから出ていけばいいのにと思いながら言ったハンジの横で、モブリットの動く気配がした。 「それも変な気遣いですよ。俺に気遣うなと言うなら、あなたも変な気遣いをしないでください」 「違うだろ」 「違いませんね」 妙に食い下がるモブリットが、ギ、と鳴ったベッドのスプリングに合わせてハンジを向く。 「別に、これくらいの気遣いも駄目ですか」 その手がまたハンジの髪に触れて、宥めるような動きで耳の方へと梳き流される。 情事の最中はもっと大胆に触れてくる指先が、まるで壊れ物でも扱うように繊細な動きを見せてくる。 モブリットがハンジにそんな触れ方をするのは初めてのことだった。 薄いカーテンの間から溢れる月光の淡い光りを拾って反射する瞳の深さを見つめていると、ハンジの胸の奥がざわざわと落ち着きをなくし始めた。 そんな自分に眉を寄せて、ハンジは軽く首を振ることでモブリットの手を振り払った。 「……いや、モブリットが嫌じゃないなら別にいいけど。ただ、それだと普段とあんまり変わらないだろう? それじゃあ君が」 「変わってない俺だと価値はありませんか」 「そんなこと――」 「俺は普段からあなたを大切に思ってる」 間髪入れずに、とはこういうことを言うのかもしれない。 そう思ったほど口早に言葉尻を遮るモブリットの目は真剣だ。どうして急にこんなことを言い始めたのか。ハンジはぱちくりと大きく瞬きをして、真剣なモブリットを見つめ返した。 「知ってる。私も君が大切だ。……けど、違う、そういうことじゃなくて、だから、でも、この関係はそもそもお互いのストレス発散みたいなものだったじゃないか。今だってそうだろう? だから、それに変な気遣いしてたら別のストレスがさ――」 「あなたの言うストレスで、俺との身体の関係が潰えるのが嫌だということですか」 「いやだよ」 「……」 意趣返しとばかりに間髪入れずに答えてやれば、モブリットは口を噤んだ。 二人の関係に名前などない。 例えて言うなら都合の良い関係、信頼、親愛、情動、欲望、慰め、舐め合い、憐憫、渇望―― そのどれもが複雑に絡み合っていて、どれか一つでも欠けたならきっとこの関係にはなっていなかった。 衝動的に繋いだ身体は、最初はそれこそ何もなかったとモブリットは思っているだろうとわかる。 けれど、ハンジはきちんと人を選んだつもりだ。 モブリットだから、いいかと思った。 モブリットだから、続けてる。 モブリットだから――それに、身体の相性も悪くないし。 不確かな関係だけれど、ハンジにはとても重要なことのように思えている。 疲れたとき、弱気になるとき、忘れたいとき。 暖かい紅茶を淹れてくれて、つかず離れずそこにいて言葉を交わし、――それからもう少しだけ欲して欲されたい関係を、モブリット以外と築けない。 「他に誰とすればいいんだ」 赤の他人と肌を重ね合わせるほどの信頼なんて、もう築き方がわからない。 もっと若い時分なら欲望だけで突き進めたのかもしれないけれど、今はもう無理だ。立場も感情も、一応の配慮くらいあるといえば、モブリットは嗤うだろうが。 素直な答えを口にすれば、モブリットは困惑したような顔をした。 「……身体だけなら、別に」 「君は他にいるかもしれないけど、一緒にするなよ」 「いませんよ!」 意外に軽く見られてるんだな、と思った台詞は、ほとんど噛みつくように遮られて、ハンジは思わず肩を竦めた。 その様子に、モブリットがハッとした表情をして瞳を伏せる。 「――……すみません、大声を、出して」 深夜も0時を過ぎての大声は、確かにモブリットにしては珍しい。 昴り過ぎたハンジを引き留めるのとは別の声音は硬質だった。けれどすぐに尻すぼみになってしまって、それも彼にしては珍しい口調だ。 さっきのハンジのように上半身を持ち上げた彼は、罰が悪そうに片手で自身の口元を覆っている。 「どうかした?」 やはり今日のモブリットは何か変だ。 さっさと部屋を出ていかないし、終わった後の意味のない戯れのようなハンジの行為を咎めもせずに、そのくせ妙に突っかかる。 ハンジはもう一度身体を起こして、ベッドの上でモブリットを見つめた。 足下に蟠るシーツは身体のどこも隠しはしない。 覗き込んだハンジの肩に、モブリットがシャツを引き寄せて掛けた。少し肩幅がずれた感じがするのは、おそらくそれがハンジのシャツではないからだ。そんなことにも気づいていないのか、モブリットが小さく言った。 「……考えたんですが」 「何?」 「この関係、非常に、面倒じゃないですか」 「やめたいって話?」 「違います。面倒な関係ではないかという考えです」 「言ってる意味がわからない」 「……ですから、つまり」 言葉を考えては飲み込み、また考えては悩んでいるように難しく眉を顰めるモブリットが、苦渋の視線をそのままにハンジを見つめた。 薄い色素の瞳の中に、揺れる月光が淡く光り、続きを待っている自分の姿が映っている。 「直属の上官と部下でセックスだけ。最初は本当に、それだけしか頭になくて良かったのかもしれませんが」 「……モブリット?」 「じゃあ何故、今日、あなたは俺に抱かれたのかと考えたんです。壁外調査の後でもなく、仕事も比較的順調で、正直今日、あなたにその気はなかったでしょう?」 「それは――」 今日の始まりは――モブリットに誘われたからだ。 特にこれといった情事の理由は他に思い当たらない。 そこそこ順調に進んでいる進行表に、少なくともハンジ側のフラストレーションは多くなかった。普段通りに仕事をこなし、夕食を食べ、明日へ回した残務の予定を考えながら、久し振りに早めに寝ようと思っていたくらいだから間違いない。 そんな時にモブリットとばったり会った。 入浴をすませ、まだ少し滴る髪を手触りのあまり良くないタオルで拭きながら廊下を歩いていた時、向こうからやってきたモブリットと目が合ったのだ。 それだけだ。 おやすみ、と言ったかどうかは覚えていない。言おうと思った。けれどすれ違い様、モブリットが言ったのだ。「後で、部屋に行ってもいいですか」と。それをやけにはっきりと覚えている。 二人は身体だけの関係だ。 だからそれぞれ都合があって、それが合わなければ断っても問題はない。 調査後の昴った感情を持て余していたわけでもないし、不満を糧にぶちまけるような気分でもなかった。 なのに、どうしたわけかモブリットの声が耳に届いた瞬間、ハンジは「うん」と言っていた。「うん、後で」と。 それはほとんど反射だった。何故彼を受け入れたのかなんて、特別な理由なんて何もなかった。 「……いや」 だから、どうしてと聞かれても答えられない。 ハンジはベッドの上でふるふると首を振った。 「――いや、そんなことない。私も、ちょっと溜まってたから」 「気遣いですか」 「違」 「俺があなたを欲してたのがわかったからじゃないんですか」 「モブリット――」 それは、確かにわかっていた。 後で、と言った声が。僅かに噛み合った視線が。ベッドの中で激しく求め合う時に繋がる甘い痺れを胸の奥に呼び起こさせるには十分な色気を帯びているのに、ハンジは確かに気づいていた。 それを拒まなかったのは、そうしてもいいと思ったからで、だけどそれが何故かはわからない。 強いていうなら、モブリットが自分を欲しがっているとわかったからか。他の誰か――例えば気の置けない仲間の誰か――から同じように求められても、絶対に諾とは言わない。当たり前だ。自分を欲していたのがモブリットだから。 あの眼が、あの手が、あの吐息が、求めるならいいと、ハンジはそう思っていた。 何故かなんて、そんなの知らない。 モブリットが今日ハンジを求めた理由だって、真実はわからない。 「そのつもりであなたを見ました。手を引いて、押し倒して、でもあなたはそれを受け入れた。どうして――」 どうして? 自分達は利害が一致した者同士だからだ。 それが続いて、だからほんの少し情が沸くのはきっとおかしなことじゃない。 我が儘に付き合ってくれるモブリットが、ハンジの預かり知らぬところで溜まっていたというなら発散する為に使えばいい。その代わり、いつかハンジもそうするかもしれない。それだけだ。それだけのはずなのに、モブリットの真っ直ぐな視線に心が騒いで、ハンジは彼の胸を強く押した。 「待って。待った。なんか変だろ。変だよこの会話。ごめん、やめよう」 「ハンジさん、俺は」 「モブリット!」 何故だかどうしても続く言葉を聞きたくなくて、ハンジは語気を荒げて彼を呼んだ。 押し黙ったモブリットは胸においたハンジの手に手をゆっくりと重ねて、膝の上に持ち変えた。骨張った男然とした彼の指に一本一本なぞられると、胸の奥がじくじくと膿んだように熱くなる気がする。この感覚はよくないものだ。ハンジはそこから手を引き抜いて、もう一度モブリットの胸を押し返した。 「やめよう。終わったのにダラダラしてたからだね、ごめん」 「……感情が伴う行為はいけませんか」 「モブリット、ごめん」 素肌にかけられたシャツを乱暴に脱いで彼の前に突き出す。しばらく薄闇の中でハンジを真っ直ぐ見つめたモブリットは、やがてシャツを受け取ると、素早く着込んだ。 「すみません」 「……」 何への謝罪かわからないから、ハンジはそれに答えなかった。 そもそもこんな空気を呼んだのは、ハンジがだらだらとモブリットの胸の上で遊んだからだ。どうしてそんなことをしてしまったんだろう。どうして、もう少しだけと思ってしまったんだろう。最初の頃のように身体を繋いで欲望をぶちまけて、吐き出し終えたらお疲れ様またどうぞと気軽に離れてしまうべきだったのに。いつから自分はそんな時間を惜しいと思うようになったのか。それがどうしてなのか、モブリットはそんなハンジの微妙な変化を、どう思っているのか、わからない。わからないことだらけだ。 始まりはなんとなくだった。 そこに彼がいて、自分がいて、そこに言葉は何もなかった。 同じような仄暗い瞳をして抱き合った。熱を帯びた肉体が欲しかった。 縋って、求めて、縋られて、求められて。 それだけで良かった。他に何もいらなかった。 いつ関係が終わってもどうでもいい関係だったはずなのに、今はそれが少し怖い。 こんなに都合の良い相手をそう簡単に見つけられないと思っているからだと思うけれど、深く考えることを、ハンジは無意識に放棄していた。 モブリットが自分を見つめている。 見つめ返しながら、その瞳の奥からハンジはそっと視線を逸らしていた。 「戻ります」 「……うん」 素肌のままのハンジの傍から、モブリットがスプリングを小さく軋ませて立ち上がる。いつものように振り向かないで部屋を出る後ろ姿を見送ろうと、ぼんやり顔を上げて、けれども不意にモブリットが振り返った。 抱き合う時とは違う、副長然とした表情だ。 けれどそこに少し似つかわしくない穏やかなヘーゼルの瞳に、どきりと心臓がひとつ鳴る。 「寒くないですか?」 「え――? ああ、いや、大丈夫。もう少し寝たら着替えるし」 「そうですか」 他愛ない会話はいつもの調子で、けれど声音が妙に耳朶をくすぐってくる。ぎくしゃくとした動きでシーツを手繰り寄せようとしたハンジの前で、モブリットが床に落ちていたシャツを拾った。数時間前、モブリットが脱がせたハンジのシャツだ。きちんと椅子にかけようとしてくれたのに、いいから早くと言ったせいで床に落ちて、二人で踏み荒らしてしまったような気がする。 そのシャツを広い、皺を手で軽く整えて、モブリットがハンジにかけた。 腕を通さないまま前を合わせるモブリットとの距離が、また少し近くなる。終わった後にここまで世話を焼くモブリットは初めてだ。 くすぐったいようなむず痒い気分に身じろぐと、困ったようにモブリットの眉が下がった。 「身体、冷やさないようにしてくださいね」 「え――、ン」 ちゅ、と可愛らしい感触が唇に落ちた。 思わず目を瞑って、おそるおそる目蓋を開ける。と、まだすぐそこにいたモブリットがハンジの頬をやわりと撫でた。 「……」 「……」 背筋が震えるようなキスでも触り方でもない。ただまるで大切な物を労るようなモブリットの動きに、ハンジはどんな表情を返しただろう。彼の行為に呆然としながら考えてしまうが、わからない。 ややもして、モブリットの手が今度こそハンジから離れた。 「……おやすみなさい。また」 「……」 ――また。 今度はハンジが溜まった時に誘えばいいのか。それとも苛立ちを抱えた時に。 しばらく先の壁外調査は、まだその予兆は感じられない。 パタン、と静かに閉じたドアの向こうへ消えていく足音を聞く。 ハンジはモブリットに掛けられたシャツを抱きしめながら、ベッドの上にボスンと身体を横たえたのだった。 【→】 |