君と馴染む傷跡A




「ちょ、……んっ」
「……は」

 ガタリと意図しない音を立てて、並んだ椅子が乱暴にずれる。当たった足を退かせれば、その隙間を得たりと身体を押しつけられて、ハンジはもがくようにモブリットの兵団服の裾を引いた。
 ビクともしてくれない彼の舌が呼吸を奪って、ともすれば身体が震えてしまいそうになる。

「モブ、リッ……待った、ちょ、ンンン」

 足の間に膝を立てたモブリットが、ハンジの背中に書棚を強く押しつけて痛い。普段なら考慮のありそうなものだが、今のモブリットはハンジの後頭部を庇うしかしてくれていない。けれど痛いと文句をつけてやり直しを要求するには、場所と時間が問題だった。
 ここは書庫で、今はまだ太陽も高い。
 非番の日なら、ついうっかり陽気に誘われて街へ買い物にでも出掛けたくなるような陽気の今日は、ハンジにとって絶好の籠もり日だった。
 自分にあてがわれた研究室で渦高く積まれていた書類や資料を、さすがにニファ達に指摘されて、ハンジは片付けを名目にこの資料室へとやってきていた。
 手伝いを申し出てくれた班員へは別の指示を出し、これ幸いと一人黙々と書庫に籠もれるはずだった。
 既読の資料は粗方しまい終え、それでもまだここへ来て一時間を少し過ぎた頃だったと思う。
 モブリットがやって来たのは、ハンジが脚立の上で目新しいファイルを見つけた時だった。
 様子を見に来たモブリットに「片付けるだけじゃなかったんですか」などと小言を言われ、仕方なしに脚立を降りる。資料を傷めない為にいつでも遮光カーテンの引かれた書庫内は昼間でも薄暗く、明かりをつけないまま資料に没頭していたハンジの視力の為にもよくないとかなんとか。モブリットの言い分は至極真っ当で、だからハンジは「はいはい」といつものように受け流して両耳を塞ぎながら謝罪の言葉を並べ立てた。
 それが勘に障ったのだろうか。

「ん、ぅ……っ」

 気がついたらこれだ。
 入り口から少し奥まった書棚とモブリットに挟まれて、身動きの取れないまま口腔を蹂躙されて声が漏れる。
 抵抗の為胸に置いたはずの手が、いつの間にかジャケットを強く握り、眦に涙が滲み始めた頃、漸くモブリットの唇が少しの呼吸をハンジにくれた。

「……どうしたの。何かあった?」

 別に差し迫った仕事を邪魔されたわけじゃない。
 後回しにしていた資料も小言のついでに手際良く片付けてくれたし、出しっぱなしにしていた脚立も元の場所に戻してくれた。それをいいことに奥で新しいファイルを見繕っていたハンジに非がないとも言い切れない。
 だけど、こんな場所でここまで強引な彼は見たことがなかった。
 まだほとんど唇の重なった距離で呼吸を整えながらで聞けば、モブリットはしばらく無言でハンジを見つめ、それから小さく否定した。

「……いいえ」
「嘘だろ。何もなくて君がこんなことするわけがない」
「しますよ。俺だって、することくらいあります」

 平坦な口調で、けれどもハンジの知らない側面を肯定するモブリットに、思わず小さくない溜息が出る。

「……まあ、そういう気分もわからなくはないけど、仕事中はまずいだろ」

 そもそも彼とこんなことをする関係になった初めの日だって非番だったわけではない。が、それでも深夜は過ぎていた。
 正論で諭したハンジに、けれどモブリットは当てつけのような溜息をこぼしてみせた。

「あなたが休憩だと言って書庫に籠もりっきりになるのに比べれば、こんな時間なんて可愛いものじゃないですか」
「かっ、可愛くないな!?」
「可愛くなりたいわけじゃありません」

 そう言ったきり黙りこくるモブリットの表情は淡々としていて、感情が読みにくい。
 普段からハンジの生活全般に何くれとなく注意を促す彼の鋭い返しはいつものことだが、こんな揚げ足取りのような会話をすることも珍しかった。理由はわからないが、拗ねているように見えなくもない。
 面倒臭さと可愛さの微妙なバランスを見せる部下に、どうしたものかとハンジも言葉を探して無言になる。
 と、モブリットが不意にまた唇を重ねてきた。今度はごくごく軽いキスだ。

「……モブリット?」

 すぐに離れた唇に囁くように呼びかける。
 モブリットは何故だか困ったように少し眉を寄せ、それからハンジの額にこつんと額を当てて目を閉じる。
 本当にどうしたんだろう。
 書庫に隠れて可愛らしいキスをして、甘えるような態度を見せるなんて。苦悩する眉間が心配で、つけられた額の熱に、じんと胸がくすぐられてしまう。
 溜まったので相手をしてほしいと押し倒される方が、よっぽど理解が及ぶ気がした。

「モブリット」

もう一度名前を呼んで頬を撫でると、モブリットが顔をずらしてハンジの指先に唇を寄せた。優しい愛撫のような感触に、胸のくすぐったさが大きくなる。
指先を丁寧に辿るように唇を動かしていたモブリットが、ハンジの手のひらに口をつけた。

「……っ」

 宛がわれたそこに軽く吸い付く唇の感触が、ハンジの喉を鳴らさせる。
 振り払おうと動かせば、簡単に手を放したモブリットは小さく首を傾げてハンジの顔を覗き込むような仕草をした。

「もう一回だけ、いいですか」
「は? 何言ってるんだ。もう――」
「一回だけ。そうしたら戻りますから」
「……一回だけ?」
「はい」

 吐息が唇に触れる距離でも至極真面目な返事をしたモブリットの視線は、けれどどこか切羽詰まったような感じがした。
 こんな彼は見覚えがない。
 セックスの時、高まった欲を吐き出しそうなあの瞬間とも違うし、仲間の死を飲み込むときの表情とも違う。
 何だろう。
 この間の晩もそうだった。
 その目で見つめられると、饒舌なはずのハンジの舌が縮こまって、言葉が上手く出てこなくなる。

「一回だけ、なら、まあ……」
「一回だけです」

 彼に触れている手のひらにモブリットが擦り寄せてきた頬から、また痺れるような甘さが広がる。
 とくんとくん、と鳴る心臓の音に紛れたもどかしさに締め付けられるような感覚に戸惑う。

「……ん」

 唇の位置を確かめるような動きで、モブリットの吐息が近づき、ハンジは促されるままに目蓋をおろした。
 その時だ。
 ガチャリと資料室のドアが開く音がして、ハンジはハッと息を飲んだ。

「――っ」
「シ」

 気づいたモブリットがそのままの距離で素早く言って、ハンジを抱く手に力を込める。
 身を寄せ、進入者の気配を探る張りつめた二人の耳に、顰めた声が届いた。

「誰もいない?」
「……大丈夫だろ。ここに来るなんて研究班の奴らくらいだ」

 その研究班の奴らが先にいると何故思わない。
 僅かにモブリットの腕の中から身を捩り、戸棚の陰から盗み見れば、まだ少年と青年の中間を絵に描いたような男の姿が見えた。顔は赤らんでいるようだ。
 ハッハッ、と浅い呼吸を繰り返して紅潮するその頬を見れば、それがどうしてかなんて聞かなくてもわかる。
 彼らが何をしにここへ来たのか察してしまって、ハンジは天を仰ぎたい気分になった。

「本当に平気?」

 ベルトも装着していないズボンを、焦りのせいか上手く下ろせない男の手を手伝いながら、こちらもまだあどけなさを残した少女が不安げな声で聞いた。

「声、抑えれば、たぶん」

 ずいぶん曖昧な見解で、この場を逢瀬に選んだものだ。
 ハンジは比較的ここに資料を漁りにくるし、必然的にモブリットも探しにくるし、ハンジ班の面々は、彼女の指示でここの書類を整理したりもする場所なのに。
 まさか人の行為をこんな形で見せつけられることになるなんて、どうしてくれよう。

(……若いなあ)

 兵団服ではないことから、彼らは非番であると知れた。
 だとしたら場所以外で咎めるところもないことで、そもそもこの場所に隠れている自分達が今さら言えた話でもない。何でそんなところにと言われてしまえば、どう弁明してみたところで彼らの前段階と何ら変わらないのだ。
 書棚に手をつき後ろから受け入れた少女が小さな悲鳴のような息を飲んだ。

「噛んで、いい、から」

 か細い喘ぎを咽喉の奥で噛み殺している彼女の口元に、男が自分の手を添える。それを少女は涙の滲む目でぱくりと咥えた。かぶりつくというより吸い付くという表現が近い。

(あー……)

 ずいぶん気持ち良さそうで、これは少しくらい自分達が身動いだとして、彼らの世界には気づかれないことだろう。
 ハンジは回していた首を元に戻して、書棚に完全に背を預けた。これ以上は見てはいけないような気がしたからだ。行為自体は自分達も違わずしていることではあるが、見られたいとは思わない。
 ふう、と息をつき、速やかな終焉を祈るハンジの顔の前で、モブリットも同じように息を溢した。
 その吐息が鼻先を掠め、ハンジは改めて自分の状況に思い至った。

「……近い」
「仕方ないでしょう。動かないでください」
「モブリットも。動くなよ」
「動いてません」

 小声で言い合う二人の視界の影で、昴っていく彼らの息声と音が聞こえる。耳を塞いでしまいたい。嫌悪じゃない。何だか妙な背徳感と、そうでもしないと妙な気持ちになってしまいそうなモブリットとのこの近い熱を持て余していたからだ。
 それからどれくらい経っただろう。
 行為の終わったらしい彼らがくすくすと口づけを繰り返し、最後にパタンと扉の閉まる音がした。
 ハンジの頭の両脇に手を付いていたモブリットが、僅かに首をずらして様子を伺う。

「……行った?」
「の、ようですね」

 モブリットの返答にハンジは思わず深い息を一つ吐いた。
 思っていた以上に強張っていた筋肉に苦笑しながら、モブリットの腕からさり気なく距離を取る。モブリットも無理に追ってくることはなかった。当たり前だ。自分達は本来キスだけで戯れるような関係じゃない。

(そうだよ。さっきのモブリットが変だっただけで)

 そう思えば、ホッとしたような心許ないような気分が綯い交ぜになって、ハンジは自分の感情に首を傾げる。おかしな気分を振り払うように首を振って、ハンジはさっきの彼らが出ていったドアを見た。

「さっきの子達さ、男の子の方ってゲルガーの後輩だろ。女の子は見覚えがなかったな」

 今年配属された新兵は粗方覚えているから違うとわかる。
 部外者をそう易々と招き入れることは出来ないはずだから――などと考えていたら、モブリットの方に心当たりがあったらしい。

「あれじゃないですか。先月総務班に入ったという新しい――」
「え? 先月ってそれだと手が早くないか?」
「ゲルガーの後輩ですからね」

 さらりと酷いことを言う。
 そんな理由がまかり通るなら、自分達の部下であるニファはいずれ自分の副長と身体だけの関係になるぞ。
 こんな関係を推奨するつもりはない。可愛い部下にはもっと真っ当な恋愛で人間らしい感情を養ってほしいものだと思う。
 爛れた関係を育んでしまった隣の男を、ハンジは眉を寄せた顔で見上げた。

「にしたって、あれ二人とも非番だったろ。何もこんなところでわざわざしなくたって、ヤるなら町へ行けばいいのに」

 ここにいたのが自分達だったから良かったようなものの、人によっては懲罰対象にするだろうし、性質が悪ければ強請たかりのネタにだってされかねない。
 一時の感情を慰め合う自分達のような関係だって、面倒に巻き込むような相手が他にいないことを暗黙の了解としているからこそ成り立っているのだ。こんな関係は不潔だと言いそうなニファにも、不毛だと叱られそうなナナバにも教えていないし、知られないよう細心の注意を払ってきたつもりだ。褒められた関係じゃないことなど百も承知で、――ただ、最近ハンジのその境界が何故だか曖昧になっていたことを注意しなければと思っていたくらいなのだ。

「壁外調査の前後ってわけでもないのにね。スリルを求めてきたわけでもなさそうだったし」

 この後どうせ街に繰り出す予定だっただろう私服姿を思い出してそう言えば、モブリットがふと目を伏せた。

「……昴ったんじゃないですか。男の方、ここに入ってきた時からずっと手に避妊具持っていましたし」
「そうなの!? ていうか見てたのかよ!」
「見えたんです。扱いが雑すぎて破れるんじゃないかと心配になってつい」
「……お父さんか」

 どこまで見ていたんだ。
 思わず呟いたハンジにモブリットが苦笑する。
 ドアに背を向けて書棚に凭れていたハンジより、確かにモブリットの方が彼らが見えやすい位置にはいた。けれど、いったいどんな気持ちで二人の行為を見ていたのか。
 興奮と好意が溢れすぎて見えた彼らを、どうしてか直視出来なかったハンジとは違ったらしい。その証拠に、モブリットには彼らの行為に当てられた気配は微塵もない。
 つい巡らせてしまいそうなくだらない考えを切り捨てようと、ハンジは大きく伸びをした。

「まあいいや。私達ももう行こう――か……って、モブリット?」

 そうしてドアへと歩き出したハンジの腕を、モブリットが後ろから取る。
 くん、と引っ張られて振り向くと、モブリットが一歩距離を詰めたところだった。その目が、また、あの甘いような切ない色を滲ませている。

「まだ一回が済んでません」
「え? いやでも――」

 そう強くもない力で捕まれた腕を振り解けない。
 いつになくまごついてしまったハンジに、モブリットの唇が優しく触れた。
 そんな存在を確かめるだけのような柔らかい口付けも初めてだ。

「モ、モブ……、ッ、」
「……まだ、一回中です」
「そっ」

 唇をつけたまま、揚げ足のようなことを言って、啄むような口付けに変わる。ちゅ、ちゅ、ちゅ、と跳ねるような、それでいて一回一回にやけに優しさと甘さを感じてしまうようなキスだった。
 こんなキスを彼と一度だってしたことがない。
 いつも性欲を高めるためだけの直接的な奪い合いだ。もっと激しくて労りはなくて、それでも気持ちいい。それだけのはずで。
 なのに、舌すら入れないこんなキスで、爪先から髪の先までむずむずと面映ゆさが掛け巡る。
 唇を引き結ぶハンジのそこに、頬に、目蓋に、それからもう一度、一番優しいキスを唇に落として、モブリットの手がようやくハンジの頬から離れた。
 恐々と目を開ける。
 ほんの少し微苦笑を乗せたようなモブリットの瞳は、けれどももうすっかりいつもの副官然としたものに戻っていた。

「今日はちゃんと寝てくださいね」
「……終われば寝るよ」
「終わらせましょう。手伝いますから」

 それは今夜の誘いではきっとない。
 ただ純粋な睡眠時間の心配をしているらしいモブリットからは、ついさっきここでした激しいキスも、驚くくらいの甘いキスも、何の余韻もまるで感じられなかった。
 今度こそ踵を返してドアに向かうハンジの後ろを、当たり前のようについてくる気配を感じながら、キスの意味を、疼く理由を、考える頭の中にハンジは意図的に蓋をした。


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