君と馴染む傷跡B 次回の壁外調査について、会議というほど堅くはない話し合いが終わった部屋で、ハンジはなんとはなしに窓の外へと視線をやった。 初夏のじわりとし始めた空気が風に乗って前髪を遊ばせる。目を細めて空に広がる青空を見つめていると、眼下に兵士達の声が聞こえてきた。見れば、訓練終わりだろう若い兵士がモブリットに何やら指示を仰いでいるらしい。二三言葉を交わして、兵士達が敬礼をして去っていく。その後ろ姿を見送るモブリットの顔が不意に綻ぶ。なんとはなしに視線の先を追ってみれば、ニファが大きく手を振って駆けてくるのがわかった。 何かを言われたニファがむうっと頬を膨らませて、モブリットが笑う。 (おーおー。優しそうな顔しちゃって。お父さんか……) そんないつもの光景を目を細めて見つめながらそう思い、ハンジは自分の台詞でふと、あの日のことを思い出してしまった。 『一回だけ』 同時に囁くような声音が耳の奥に蘇る。 自分を見つめるモブリットの瞳の奥が、どんな色をしていたかまで思い出して、ハンジは知らず自分の唇に指先で触れた。カサカサと乾燥したいつもの慣れた唇がある。 だけど違う。こんな感触じゃなかった。 もっと柔らかくて、冷たくて、甘ったるくて、それから、思い出すだけで胸の奥がきゅうっとおかしな音を立てる。 「どうしたの? 珍しくぼーっとしちゃって」 「ナナバ」 突然の声に振り返れば、開けっ放しのドアに背をつけたナナバがいた。ぼんやりとしていただろうハンジを不思議そうに見つめている。こちらにやってくると、ハンジの頭越しにひょいと窓の外を覗きこんだ。 が、モブリットもニファも既に兵舎の中に戻った後で、見える舎前では基礎訓練に励む兵士達の姿しかない。 おざなりに見回したナナバは窓枠に浅く腰掛け、小首を傾げる。 「恋わずらい?」 「まさか。ちょっと考え事をしていただけだよ」 「また巨人? 好きね、あんたも」 ハンジと言えば、イコール巨人。 さもありなんな返しだ。巨人のことはいつだってずっと考えている。それこそ今までいたどんな恋人達よりも、もしかすると家族よりもずっと。けれど今は少し違った思考の先を、ハンジはナナバに聞いてみることにした。 「……ねえ、ナナバ。キスってどういう時にするものだっけ」 また気づけば勝手に唇に当てていた手に、ナナバがきょとんと気怠げな瞳を瞬いた。 そうじろじろ見られると居たたまれない。 ハンジは誤魔化すように自分の唇を引っ張って、ぱちんと離しておどけてみせる。 「珍しい。本当に恋わずらいだった?」 「違うって。そういうんじゃなくて……この間、ちょっと書庫で若者のセックスを目撃しちゃってさ」 「うっわ、最低なデバガメ!」 「違う! 最初からいたのはこっち! あの子達が勝手に私達がいないと思いこんでおっぱじめたの! 出るに出られないじゃないか。むしろ盛ってる最中に出る方が可哀想だろ!」 わざとらしく顔を顰められて思わず状況を説明すれば、ナナバはあっさりと頷いた。 「まあそりゃ仕方ないね。そもそも書庫でヤるなって話だし」 「……」 もっともだ。ハンジも同じことを考えたのだ。 だけど、彼らの闖入直前までしていたことを思えば、曖昧に頷くしかない。そもそも慌てて声を潜めたのはこちらの方だったのだから。 大っぴらに出ていけるだけの清廉潔白さのない自分達がしていたことを知れば、ナナバはどんな顔をするだろうか。 それにしても、あの時の彼はおかしかった。 いきなり強引に迫ってきたり、かと思えばバードキスで甘えてみたり――……そうか。あの時、彼は甘えていたのか。 合点がいったハンジは、むしろ疑問の嵐に巻き込まれてしまった。 (甘えた――甘えた? モブリットが、私に? 何で? だって……) 自分達の関係で甘えるなんてあり得ないのに。 ベッドの中で、多少労る気持ちになるというなら話はわかるが、あんなキスだけで満足するような関係じゃない。 互いに欲望を発散する相手で、それなら潔く最後まで致すのが礼儀というものだ。 気分が乗らなければさっさと拒絶で、例えそうされたとして後腐れはなく。書庫でのように、中まで入らない触れ合いを許された関係とはさらさら遠いはずだったのに。 (なんで――) 何で私はそれを当然のように受け入れたんだ? 彼も彼だ。どうして、そんな恋人みたいな真似事を―― 「で? 誰と見てたの。モブリット?」 「えっ」 悶々と考えていた相手の名前を急に言われて、ハンジは驚いて顔を上げた。 「私達、って言ったじゃない今」 けれど不思議そうに続けられて、自分の動揺に苦笑する。 「あー……そう。そうそう。ちょうどモブリットが呼びに来てくれた時でさ。それはどうでもいいんだけど、だから聞きたいのはキスの話だってば。どういう時にするかっていう――」 「どういう時にって、そういう時じゃないの」 「そういう時って?」 「だからセックス」 今更何をと言わんばかりに答えるナナバに、ハンジは小さく息を飲んだ。 それは知ってる。モブリットとだって最中に何度もしたことがある。 だけど、それはあくまで行為の一環としてであって、情欲を高める手段であって、戯れのようにしたことはないし、挨拶代わりにもしたこともない。 でもあの時の自分達は、もちろん最後までするつもりなんて毛頭なかった。挨拶を交わす場面でも全くなかった。 それなのに一回だけとハンジに落とされた感触を思い出せば、きゅっと唇を噛み締めたくなる。 モブリットのキスは、やけに甘くて優しかった。 「……それ以外にする時は、どういう気分でするもんだっけ」 「初恋未満の可愛い思春期みたいな質問ね」 「……」 片眉を上げてにやりと笑って見せるナナバに、ハンジの思考が一瞬停止し、それから目まぐるしく動き始める。 恋? 思春期? 誰が? 私が? モブリットが? そんなバカな。もういい大人だし、そんな可愛い関係じゃない。やることをやっているだけのダメな大人だ。 ぽかんとバカみたいに口を開けたハンジに、ナナバがふっと笑って片手を振った。 「冗談よ。まあでも、思春期と大して変わらないわよ。キスなんていつだって」 「思春期……」 意味がちょっとよくわからない。 セックス以外にしたくなったり受け入れたりするキスが、思春期と変わらないってどういう意味だ。 眉間に寄ってしまった皺を面白そうにグリグリと伸ばしながら、ナナバが言った。 「親愛とか友情とか色々あるだろうけど、あんたが今聞きたいのは恋人とのキスでしょ? なら変わらないと私は思うけど」 「……意味が、よくわからない」 「頭でっかち。ちょっと軽くして考えてみなさいって」 ピン、と軽く眉間を突かれて呻くハンジに、ナナバが苦笑しながら両手で頬を包んできた。 そのまま軽く上向かされて、ナナバの澄んだブルーの瞳が間近に迫る。 「その人が好きで、言葉だけじゃ足りなくて、感情が抑えられなくて、大切にしたくて、でも欲しくて」 真剣な瞳で見つめられ、そっと唇をなぞられて、ナナバの言葉がするりと耳に入り込む。 と、同時に何故かあの日のモブリットの表情が脳裏に浮かんで、ハンジの心臓がどくんと鳴った。 「だから優しく始めたはずなのに、気づいたら我を忘れて相手の呼吸も奪っちゃったりなんかするのよ。で、奪われたら悔しいけど、もっと、とか思ったり」 ああ、なんだかいつか読んだ本の中の話みたいだ。 それは甘くて可愛い砂糖菓子のような王子様とお姫様のおとぎ話じゃなかったっけか。 綺麗な顔のナナバの瞳が面白そうな色を乗せてニヤリと口角を上げた。 それからおもむろにハンジの額に口付けを落とす。 クスクスと笑うナナバの手を取って、ハンジもそこに演技じみた口付けをひとつ。 「随分情熱的だね、ナナバ先生」 「実体験よ。興奮した?」 「うーん。もう一声かな」 「調子に乗るな」 先生然とした口調になったナナバに笑いながら、ハンジは腰を上げた。 出口に向かうハンジの隣に並んだナナバが、からかうような視線を向けてくる。 「なに。若者のセックス見てたら恋がしたくなっちゃったとか?」 「まさか。違うよ。そっちはあんまり見てなかったし、そもそも私が視力悪いの知ってるだろう?」 「ガン見する性癖がなくてホッとしてる」 「何でだよ」 そうじゃなくて。 ハンジが知りたかったのは、その後のキスだ。 彼らは恋人同士だった。激しくて甘い行為も、聞こえてしまった吐息も声も、激しい情熱と思いやりに溢れていた。 だけど、じゃあ、私達は? 欲望しかない二人では、物語の中のように甘い関係になるわけがない。それなのに思い出したら胸が疼いて、あの日の瞳に心音が高鳴る。 恋? 違う。自分達のは単なる似た者同士の馴れ合いで、あの日見た若い彼らのような思いやりはどこにもない。 ――はずなのに。 モブリットがしたあのキスの意味が、ハンジはまだわからなくて、知りたくて、だけど知るのが少し怖い。 【→】 |