その声はあなたの耳にだけ03 それから数日。 ――結局、微妙に擦れ違った関係の、改善の糸口は見つけられないまま、モブリットは副長としての職務を全うしていた。 それだけで、何も変わらず時間は過ぎる。日常業務に支障はない。 ただ、強いて言うなら、ふと二人きりになる瞬間の間が重い、気がする。無言は苦にならないはずのモブリットが、その無言を意識してしまう程度には重かった。 けれども、ハンジから特に何を言われるわけでもない。 自分だけが必要以上にあの日の言葉に拘っているのだとすると、余計にモブリットから何かをするのは負けな気がして、結局その繰り返しだった。 ――勝ち負けじゃない。それは分かっている。つまりこれは、モブリットの子供じみたただの嫉妬だ。それを言ってしまたら、確実に自分の負けが込んでいる。そんなことは、この関係が始まった最初からわかりきっていたことなのだから。 (……いっそなし崩しにすればよかった) 悪かったですね、とか何とか言って、口を塞いでしまえば良かった。 そこにニファが戻ってきても、取り込み中だと叫んでしまえば良かったかのもしれない。 今更言っても詮無い対応を浮かべながら、出てしまった溜息に情けなく肩を竦めて、モブリットは研究室のドアを開けた。 「――あれ? 分隊長は?」 頼まれていた資料を渡す相手の姿が見当たらない。 室内をぐるりと見回しながら呟いていると、ケイジが気づいて顔を上げた。 「さっき三階の資料室に行くと言って、出ていきましたよ」 「三階の?」 そこは資料室とは名ばかりの、備品倉庫のような場所だ。 必要なものがあったのなら、ケイジにでも、それこそ戻ってきたモブリットにでも頼めば良さそうなものなのに、緊急に必要なものでもあったのだろうか。 倉庫の場所を思い浮かべながら、首を捻ったモブリットの疑問を引き継いで、ニファもゆっくりと視線を上げる。 「話し合いたいことがあるなら、資料を持ってここまで来い、とも言ってましたよ」 「……話し合い?」 「拳で」 「拳で!?」 どんな伝言だ。話し合いが殴り合いにしか聞こえない。 二人からそれぞれもたらされたハンジの言動に戸惑いを覚えつつも、モブリットは意を決して踵を返す。 それからハンジに言われて集めた資料を改めて見つめ、なるほどと一人合点した。 最近進めている案件の内容や、会議の資料としても合致しないナンバーを言われた時に、もっと考えるべきだった。 これは、そこに呼ぶ為の伏線だったのか。 「行ってくる」 話し合うのか、殴り合うのかはわからない――どちらにせよ、ハンジのくれた関係改善の糸口を、モブリットはしっかりと手繰り寄せるだけだ。 最初にどう切り出すべきか、気を抜くと丸まりそうになる自分の背中を叱咤しながら、モブリットは三階の資料室へと続く階段の手すりに腕を手を掛けた。 ***** 三階の端、日当たりの悪い第三資料室の前で、モブリットはすうっと息を吸い込んだ。左脇に抱えた資料を落とさないように抱え直して、右手を握る。資料室にいちいちノックの必要はないことに気づいたのは、習性で三度軽く叩いた後だった。 カチャ、と鳴ったドアノブを回して中に入る。 「分隊長?」 だが、見える範囲に件の人は見当たらなかった。 代わりに狭い室内の中央に置かれた机の上に、開きっ放しのファイルがあった。席を外しているのかもしれない。読みかけのまま忘れてしまうとは思えないから、すぐに戻るつもりなのだろう。 そう思って、モブリットは無意識にホッと息を吐いた。 入口向かって正面に採光の為だけの嵌め殺しの窓があり、両手に垂直に並んだいくつかの書棚の中には、書類の数より、捨て置かれた備品が多い。どこからどう見ても、日曜大工の失敗作だろうと思われる木片の塊もあって、本当にただの倉庫の色合いが強い場所だ。 机上のファイルに近づいて、自分の持つ資料もそこへ置こうと手を伸ばし掛け―― 「――っ!」 突如、書棚の影から現れた人物に、モブリットは足を掬われた。 直撃を反射で避けて、けれども着地に足りない足場の狭さにバランスを崩す。誰何の声を上げようとして、しかしそれより早く迫った攻撃主に、強か襟元を締め上げられた。 バサバサと広がった資料が視界の端を舞って、よろめいたせいでラックに後頭部を打ちつける。思わず痛みに目を閉じたのと、噛みつくように唇を奪われたのは同時だった。 「…っ、ぐ、……ぅ、ちょ……ッ」 「黙れ」 短い言葉を理解するより先に、口腔に侵入した舌が、モブリットの反論を許さない。 襟元を締め上げる手も容赦なくしまり、打った頭はそのまま体重を掛けて押し付けられ、鈍痛で涙が滲みそうになる。 めちゃくちゃな角度で唇を食まれて、モッブリットは僅かな隙間に自分の指を差し込んだ。 「な――に、するんです、か、イッ!」 その指に邪魔だとばかりに噛みつかれて、モブリットは悲鳴を上げた。 「分隊長!?」 「声出さないんじゃなかったの」 「それとこれとは話が――んぐっ!」 ガチリと前歯の当たる痛みにまた目を閉じる。 感情の見えない声音で言ったハンジの右手が書棚を掴み、反対の手がモブリットの顎を掴んで、強引に上向かせた。せっかく解放された喉元が、楽になる前に苦しい角度に上げられて息が詰まる。引き剥がそうと肩に手をやっても、力付くで身を寄せてくるハンジは、少しのことでは動じそうになかった。書棚を足場にして乗り上げられて、息が苦しい。 「……ぐっ、ぅ、こんの……――!」 自由に出来ない呼吸と痛みでどうにかなりそうだ。――いや、もうどうにかなってしまったのかもしれない。 モブリットは渾身の力でハンジの頭を引き剥がすと、足の間に割り込んでいた身体を弾いて反転させた。 無理に離されたハンジの手が、バランスを求めて書棚を空振り、当たった僅かな紙面と用途不明の備品が床に転げ落ちる。足元に落ちたそれらを踏みつけて無視して、モブリットはハンジを囲うように書棚に押し付けた。 逃げ出さないよう、今度はモブリットがハンジの足の間に膝を押し込んで睨む。 「何なんですか!」 「本当に声出さないか試しただけだろ」 「こんな――」 「自分が言ったくせに」 「それは、だから、あなたが――」 「試し足りないんだよ。大人しくしてろ」 言うなり、ハンジの腕がモブリットの頭を掴んだ。髪が引き攣れて痛い。絶対何本か無理に千切られた。 ついさっき打ちつけられた後頭部もまるで無視する強引な引き寄せに睨むモブリットへ、ハンジも負けず眼光の鋭い瞳を向けながら、容赦なく唇に噛みついてくる。 押し付けているのは自分のはずなのに、何でまた迫られているのが自分なんだ。 立てていた膝に乗り上げるようにして腰を落としたハンジに引き摺られて、背中を丸める。 完全にモブリットを落とす体勢でしがみ付いてこられては、さすがに手を離すことが出来なくなった。 ハンジの後ろの書棚には、この勢いで当たるには危険すぎる剥き出しの木片やボルトの入った箱もある。わかってやったのだとしたら、この緻密な確信犯はどうしようもない。 (クッソ……ッ) カチリカチリと当たる歯の刺激に内心で毒づいて、モブリットはハンジの後頭部を守るように手をやった。ぐしゃりと乱すと、同じように乱してくるハンジの手が、先程打った箇所に当たって、思わず呻く。 「うっ、」 「よく出る声だな」 「――っの!」 言わせておけば――もう知るか。 「――っ、わ――ンぶっ!」 立てていた膝を何の前触れもなしに引き抜くと、倒れ込んできたハンジを支えず、身体をずらす。伸ばされた腕を捻り上げるように掴んで、モブリットは足を払った。浮遊感に驚いた声を上げるハンジの唇を下に屈み込んで迎え撃つように噛みついてやる。 例え頭を打ったとしても、この程度ならさっきの自分ほどは痛くない――はずだ。 なけなしの理性でそれだけは考えて、モブリットは口を塞いだまま、ハンジを床に押し倒した。 「イ、つ」 何かが当たったのか、反らされたハンジの背中に手を射し込んで、それでも唇は離してやらない。 あんただって声出てるじゃないですか、とも言ってやらずに、ただただ口腔を蹂躙する。 不自然な角度と強引に割り込んだモブリットの膝に迫られて、苦しげに呻くハンジに、これでもかと舌肉を差し入れて、歯を当て、髪を掻き回す。途中当たって気になった眼鏡を乱暴な手つきで上にずらすと、涙で滲んだハンジの明るい茶色の瞳と目が合って、モブリットの胸の奥が軋んだ。 けれども同時に背筋を這った感覚に、それを無視してモブリットは再び大きく口を開けた。 「ん――ッ、ふ、ット……、め……っ」 犬歯で傷でもつけたのか、モブリットの舌先にちりっとした痛みが走った。 どちらのせいとも言えない痛みを、けれども仕返しとばかりに、モブリットはハンジの歯肉を容赦なく舐ってやった。 たまらず酸素を求めて開けられた口を少しだけ解放して、代わりに下唇に噛みついた。 「っ、ぅあ、う……ッ」 モブリットのシャツを引っ掻くハンジの指先が、弱々しい抵抗を見せる。それも引き剥がして抑え込み、乗り上げた身体を更に上へと持ち上げた。服を乱すでもなく、散乱した床で吐息と水音、それに衣擦れの音がする。 こんな所で女を無理矢理押さえつけて、キスとも呼べない奪い合いをしたのは初めてだった。 マウントポジションを取って分のあるモブリットの侵入させる舌肉を、ハンジが首を振ることで逃げるフリをして、今度は逆に奪い返される。 それを何度も繰り返し、くそ、と舌の動きだけで言ったハンジがモブリットの舌に噛みついてきた。 咄嗟に引き抜いた舌先の側でカチンと歯の合う音がして、慌てて離れた顔をハンジが首に腕を回してぐっと近づく。本能で引き結んだモブリットの唇に、ハンジが容赦なく歯を立てた。 「……っ、殺す気ですか!」 「どっちが!」 ずれた眼鏡の奥で濡れたハンジの瞳から、怒鳴り声に押されるように、涙が零れた。 荒れた息遣いで互いを睨み据えながら、その涙を親指で拭う。 上気したハンジの頬の辺りが、一部赤くなって擦れていた。縺れ合っている間に、何かに当たったのかもしれない。よく見れば、僅かに唇も腫れたように見える。 ハァハァと荒く乱れた呼吸を互いにぶつけて、睨み合う。 どうしてこんな事をしているんだったか。そうだ、確か―― 「――あなたが、いきなり襲ってくるから」 「モブリットが妙な距離を取るからだろ」 離を取ったのはお互い様で――いや、確かに最初に行為をやめようとしたのはモブリットだが、だからといって、物理的に距離を詰めるとか――こんな場所で――実力行使も限度がある。 キスのしすぎで軽く酸欠になった頭で考えても、いつものようには働かない。それでも無理のあるハンジの言い分に、モブリットは頭を抱えたくなった。 「それでこんな……誰かに見られたらどうするつもりなんですか!」 「分隊長を襲う副長の図だな。あられもない声で言い訳すれば?」 「――この」 ふん、と小鼻を鳴らしたハンジに頭の芯が急速に痺れて、モブリットは身体を退けた。 「……モブリ」 「共犯ですよ。あなたにもしっかり出してもらいます」 「何を」 「声、あられもない」 言うなり強引にハンジの腕を引いて立ち上がらせる。 机上にあった読みかけを装った資料は乱暴に薙ぎ払って、ハンジを見遣れば、じっと様子を窺っていた彼女は大人しく机に腰を当てた。 もう止めてやるものか。 机に手をつくハンジに、目を開けたまま半歩迫る。 挑むように見つめてくるハンジの顎を取ろうと手を出したその瞬間―― 「――どうかしましたか!?」 「何でもない!」 「取り込み中だ!」 ドアのすぐ傍に駆け寄ってきた靴音と掛けられた声へ、二人は同時に鋭い制止を投げていた。 ガチャ、と僅かに回されて、寸前で驚いたように止まったドアを振り返ってじとりと睨む。 「あ、あの……」 戸惑う気配は、声で上官だと分かったのだろう、強引に中へ入ろうとはしないでいる。けれども尋常ではない空気を感じて、立ち去ることもできないでいるようだった。当然だ。彼らは何も悪くない。 ハンジに視線を戻すと、髪は乱れ、眼鏡はずれているものの、着衣が乱れていることはなかった。まだシャツには触れていないのだから当然と言えば当然か。 モブリットも外見は大差ないものだろう。 ただし、拭ったとはいえ生理的に濡れたハンジの瞳は好戦的だが扇情的で、モブリットは声に出さず、自分の目元をトトンと叩くことでそれを知らせる。お前もだ、と言わんばかりに同じ仕草で返してきたハンジの唇についた唾液を乱暴に拭う。 下唇が切れているのはモブリットが噛みついたからか。これくらいなら、よほど至近距離に来ない限りバレないはずだ。 髪の乱れもいつもの範疇にほんの僅かプラスがあると思われるくらいでどうにか出来る。 それに、とモブリットは自分の唇を舌で舐めた。僅かに血の味がする。ハンジにやられた容赦ないキスの爪痕は、書類で殴られたと思われればいいのだが。 「顔」 「え――」 と思っていたら、不意に小声で呟いたハンジがモブリットの頬に触れた。チリ、と鋭い痛みが走る。 ハンジがそこをちろりと舌で舐めた。 「紙かな。切れてる」 気づかなかった。確かに痛い。 ようやくおさまってきた息を、どちらからともなく胸を押さえて姿勢を戻すと、ハンジがつかつかとドアへ向かった。 それに遅れてモブリットも後ろを歩く。 「悪いね。少し話し合いが揉めたんだ。副長が頑固で」 ドアの前で固まる兵士に、ハンジはさもすまなそうにそう言って、モブリットをちらりと見遣った。 「……頑固は分隊長の方でしょう。俺は」 「わからない奴だな。どっちが正しいか、膝突き合わせて話す気はあるか?」 「望むところです」 「なら部屋に来い」 言うなり顔を背けるタイミングは完璧だ。二人のやり取りに口を挟めず狼狽える兵士が、モブリットを見たのを今ばかりは気づかないふりで無視をする。大股で歩き始めたハンジの背中に忌々しげに息を吐いて、モブリットが追う。だがさすがに可哀想すぎる兵士の放置に気がいって、擦れ違い様、モブリットは彼に眉を顰めてみせた。 「……すまない。室内を適当に纏めといてもらえるか」 「は、はい!」 「それと第一斑へ、ゴーグルに指示権委譲の伝言を。俺は分隊長と――話し合いをしてくると伝えてくれ」 「了解しました! あの――ご無事で」 「……ありがとう」 言い得て妙なエールをもらってしまった。 純粋に胸を叩く兵士に内心で謝罪をして、モブリットは待つ気のないらしいハンジの遠退く背中を追った。 【→4】 |