初めてを二人から




実験が入っているわけではない。事務処理も順調に進んでいる。
けれどもハンジが席を立たないことに違和感を覚えて、モブリットはふと顔を上げた。
壁に掛かっている大判のカレンダーに、予定は何も書かれていない。記憶違いかと一瞬思って、しかし卓上の小さなカレンダーに目を落とすと、今日の日付に数字は確かに書き込まれていた。

「――分隊長、今夜食事の約束されていましたよね?」

確か、待ち合わせは終業一時間後、兵舎棟正面玄関前広場。
少し残務があったとして、さっと身支度を整え、門の前で落ち合うには十分だろうと、モブリットがハンジに助言して決まったデートの時間が迫っていた。
問うモブリットにハンジは顔も上げず、ペン先を紙面に走らせたまま軽い口調でさらりと答えた。

「ああアレ、なくなったんだよね」
「そうでしたか。予定変更されたんですか?」
「うん。そうそう、別れた」
「ああそういう――……ってまたですか!?」

思わず身を乗り出すように言ってしまったモブリットに、ハンジがようやく顔を上げる。目を合わせると、ぶっと噴き出した。

「はは、またってひどいなあ」
「俺の知ってるだけで片手で余るじゃないですか」
「両手に余ってないんだからいいだろう?」
「どんな悪女を気取るつもりですか。だいたい、隊内外問わず、死別なしでこの短期間にそれはすごいですよ……」

ハンジが恋人と続かない、という話は兵士の間ではそこそこ有名だ。
別段遊びが激しいというわけではなく、彼女自身の上辺に見える性格上「さもありなん」と捉えられがちで、そう悪い方面に噂が広がるといったことはない。だが、モブリットがハンジの下についてから知っている限りでも、それこそあっという間に関係は終焉を迎えている。
拗れて別れるということもないから、他に漏れてどうなるということもなく、良い歳をした大人の関係はそれなりに綺麗に終わってはいる。
それでも思わず口に出さずにはいられない。
非難するつもりもないが、つい口を挟んでしまったモブリットに、ハンジは苦笑して顔を上げると、椅子の背凭れに寄りかかった。

「別に記録更新を目指してるわけじゃないよ。たまたま続かないんだから仕方ないじゃないか。こういうのはタイミングだろう?」
「努力も重要だと思いますけど」
「努力してたよ」
「それは――……まあ、そうですよね」
「うん」

穏やかな目をして笑いかけられて、モブリットは僅かに眉を顰めた。
彼女の努力は知っている。
さすがに、ハンジがどれほど本気で入れ込んでいたのかは知る由もないが、相手をないがしろにする性格ではない。付き合う合意をするくらいの好意があった相手に、ハンジはハンジなりの努力をしている。
仕事に支障をきたさずに新たな関係を構築するのは、恋人相手でも新兵相手でも、それには誰でも努力を要する。
分隊長という役職上、その比率は他の比ではないことも、傍にいるモブリットにはわかっていた。
プライベートな割合が多くなればなった分だけ、部下に負担をかけることがないのは当然だが、それも努力の賜物だ。
目に見えて傷ついているといった様子は見えないが、感受性の強いハンジのことだ。その見せない傷を思って、モブリットはそっと席を立った。
温かいコーヒーを淹れ直して、ハンジに渡す。

「……大丈夫です?」
「大丈夫大丈夫。いつもみたいに、そろそろかなって予感はあったし」

礼を言って美味しそうに飲むハンジに目元を緩めて、モブリットも自席に戻った。
今日の分の仕事は終わっている。少し、話していてもいいだろうか。同じく仕事は終えているはずのハンジもこうしてモブリットといる時間を選んでいることに背中を押されて、モブリットは出来るだけさりげなく口を開いた。

「今回の要因は?」
「あー、なんか疲れちゃったんだって」
「……なんですかそれ」

あっけらかんと言われたハンジの答えに、モブリットの口から自分でも想像以上に低い声が出た。
それに構わず、ハンジは熱いコーヒーに息を吹きかけながら、一口二口と口をつける。

「私も話し出したら止まらないこととかあるし、そういう諸々のさ、タイミングが合わなかったんじゃないかな」
「はあ? そんなもの、それこそ努力と話し合いでどうとでもなることじゃないですか」

ハンジがそういうタイプの人間だということくらい、最初からわかっていることだろうに。
百万歩譲って、兵団外の人間であるなら多少わからなくもないところだが、それこそ努力をしろという話だ。しかも今回のお相手は同じ兵団の人間だったはずだ。
それが――随分勝手な理由で終わりにしてくれたものだ。
ふつふつと沸き上がる苛立ちが、モブリットの言葉に険を滲ませる。
ハンジは笑って片手を振った。

「ならなかったんだから仕方ないさ。相性だよ」
「悪くなかったでしょう」
「少なくとも私はねー」
「……」

その一瞬にふと見えたハンジの表情が、モブリットの中の何かに触れた。あの野郎、というドス黒い声が腹の奥深くから聞こえた気がする。すれ違い様、顔を一度見たかどうかといった程度だが、所属と階級は知っている。燃え上がる恋だったのか、育み過程の愛だったかは知らないし、別に知りたくもない。ただ一点、ハンジにそんな顔をさせたということが既に万死に値する。
万が一――億が一ほどの可能性だが、それが理由でハンジが巨人との対峙時、重要な局面で、判断力が鈍ることがないとも言い切れないことが腹立たしい。
モブリットは無表情で静かに席を立った。

「おいこら、モブリット。どこ行く気だ」
「ちょっと散歩に」
「嘘言え。何で散歩にブレード装着して行くんだよ」
「備えあれば憂いなしと言うじゃないですか。背後から忍び寄って一気に削ぎ落とす必要に迫られるかもしれない」
「ないだろ!……ったく、私が振られると何で君が怒るの」

グリップの握りを確かめながら言ったモブリットに、ハンジが困ったような笑顔を見せた。
その苦笑は、誰のためのものなのか、と思うと何故だか苦々しい気分になる。
溜息を吐き返し、一度は装着した立体機動装置を外し始めたモブリットに、僅かにホッとしたように見えたハンジへ、またぞろ意味の分からない苛立ちを感じながら席に戻る。
トン、と書類をペンの背で叩いて、モブリットは視線を逸らした。

「同じ男としても腹が立つじゃないですか、そんな勝手な理由」
「勝手かなあ」
「勝手です。そもそもあちらから誘ってきたわけでしょう。それをよくもぬけぬけとそんな理由で。だいたい、疲弊具合でいうなら、うちの班の方がよっぽどですよ!」

それを、何だ。
実験もしない、朝晩の食事の心配もしない、入浴や整理整頓や、その他のハンジに随する何もなく、ただ二人で歩いて食事をして時間を過ごすだけでいい男が、何を勝手なことを言ってくれる。
デッド・オア・アライブの状況でも、ハンジが見つけた小さな可能性に目を煌めかせるニファを見習えと喉元まで出掛かった叫びを抑えるモブリットに、ハンジはぶはっと噴き出した。

「それ違う疲労だろ。まあモブリットには気苦労掛けてる面は否めないけど――」
「それこそ努力と話し合いでどうにかなりますし、してきてます。問題にもならない」
「うん――ありがとう」

ジト目をあげると、笑いで滲んだ涙を眼鏡を上げて拭っていたハンジと合う。思った以上に柔らかな視線で微笑まれて、モブリットは更に剣呑に視線を細めた。

「普通のことでしょう? こんなことすら出来ない男なんて別れて当然でしたね。第四分隊分隊長の時間は有効に使っていただかないと。やるべきことは山とあるんです」

そうだ。
その忙しい時間を割いた彼女の努力がわからないなら、そんな男は不要だ――と、ハンジにも本心から思ってもらいたい。

「ぶっは! 肝に銘じるよ。ねえでもモブリット、前に臭いって理由で振られた時も怒ってたよね」

そういえば昔そんな理由を聞いたことがあった。
思い出して、モブリットの眉間に皺が寄る。

「あれもバカらしかったですね。臭いなら風呂に入れればいいだけじゃないですか」
「モブリットがするみたいに?」
「臭いの元を絶つ。単純なことです」

だいたい、その男はハンジ・ゾエを何だと思っていたんだと、モブリットは今でも当時の彼の胸ぐらを絞り上げて問い質してやりたいくらいだ。
彼女から芳しい香りがするとでも思っていたのか。そんなこと、こちらがリヴァイ班との相互連携を計って入浴させるか、実験補佐や改案の様々な交換条件の下で風呂に入ることを承諾させられた時くらいのものだというのに。そんな努力もしないで臭いから? バカじゃないのか。
三日も四日も風呂に入らなければ、人間誰しも同じ臭いになるものだ。一週間がはさすがに頭から湯をぶちまけてしまいたくもなるが、そんな時はおそらく付き合っているモブリット自身も同じ臭いを発しているはずで、それを理由にハンジの副長を辞めたいと思ったことなどない。
それに、ハンジ自身のにおいがそれほど悪いと思ったことも、モブリットには正直なかった。
ムスッとした声音のまま「別れて正解でしたね、そんな男」と付け足すと、ハンジは心底おかしそうに肩を揺らした。
ひとしきり笑って、それから机に頬杖をつくと、憮然としたままのモブリットを可笑しそうに見つめて言った。

「はは。いっそモブリットと付き合ったら長く続きそうだなあ。――いや、冗談だよ? そんな面倒なこと頼まないから安心し」
「――その手がありましたね」
「は?」

自分で自分の提案におかしそうに笑ったハンジを遮って、モブリットはポンと手を打った。ハンジが間の抜けた声を出す。

「それなら俺も、あなたが別れる度にブレードを持ち出す必要もなくなるし、あなたも破局の原因を考える必要もなくなります。それに――」
「いや、いやいやいや、ちょっと待て。冗談だってば!」

メリットの羅列を始めたモブリットに慌てるように立ち上がって、ハンジがバッと右手を出した。言い出したのは自分のくせに、例え冗談でも熟考が得意なハンジが可能性を欠片も考慮していなかったらしい。それは失恋の痛手のせいだろうか。
そう考えて、モブリットはすっと表情を引き締めた。
自分だったら――自分だったら、そんな痛手はそもそもハンジに感じさせない。

「じゃあ考えてみてください。真剣に」
「え? いや、だって、それは……」
「振られる予感を感じる手間が省けますよ?」

明らかに困惑して見えるハンジの思考を手助けするような言葉を繋ぐ。と、ハンジは少し考える素振りを見せて、それからいやいやと頭を振った。

「そ、それはわからないじゃないか。モブリットが私を振る可能性だって」
「ありません」
「え」
「俺があなたを振ることは絶対にない。むしろあなたがそうする側です」

モブリットがハンジから離れるなどあり得ない。それこそ死が二人をわかつまで。立場上も、これまでの経験からも、モブリットは断固としてハンジから離れる気などないのだから。命令か、もしくはハンジの方から側に寄るなと言われない限り物理的にも離れたくはない。まして感情だけなら変わるわけがない。
部下としての立ち位置に、新たな肩書きをくれるというなら、モブリットから手放してやる気などさらさらないのだ。

「俺たちが終わるとしたら、あなたが俺を振る時ですよ」

言い切ったモブリットに、ハンジはすかさず顔を上げた。

「振らないよ!? 私だって振らないけど――」
「じゃあ成立ということで」
「うん――んんん? いや、ちょ、ちょっと待った。待って待って。おかしいだろ。そもそも君、私のことなんて別に好きでもなんでもないだろう!?」

思わずといった体で、ハンジが腰を上げる。
そんなハンジを見上げ、モブリットは心底わからないと言うように肩を竦めた。
何で今更そんなことを。
個人的な好き嫌いに関わりなく人類に心臓は捧げても、嫌いな相手に睡眠時間とプライベートを捧げられるほど、自分は出来た男ではない。

「好きですよ? あなたは俺を嫌いでしたか」
「好きだけど!」
「なら問題ありませんよね?」
「そうだな――……って、だから! その、そう、あれだ!」
「あれ?」

ハンジの口が滅多にないほどパクパクと空回っている。
嫌いじゃなくて好きだと言うなら、今までの恋人達との始まりと何が違うというのだろう。モブリットの知る限り、最初から一目惚れで始まった燃え上がるような関係はなかったはずだが。
臭いも会話も許容範囲で、好意があって、他に何が自分に足りない。
首を傾げたモブリットに、ハンジがビッと人差し指を突きつけた。

「君、私とじゃできないだろ!?」
「できますけど」
「ああそうなん――ってできるのか! ……いやでもそれ、単に穴があれば何でもいいみたいな」

そんな思春期真っ盛りのように思われていたとしたら、大いに誤解だ。
けれどそれこそ思春期に毛が生えた頃から傍で感じる性差に欲情しなかったと思われているなら、それはそれで大いに誤解だ。
モブリットはふうと溜息を吐いた。
任務上常に欲望の対象で見るようなことは無論ないが、ハンジを女性だと意識してこなかったとでも思っているのか。
恋人と名乗る男達とこれまで付き合ってきていても、ハンジは男心を理解していなさすぎる。

「どうしてそうなるんですか。むしろそんなことを言って、俺じゃできないのはあなたの方でしょうが。言い掛かりは止めてください。男らしくない」
「女だからな!? 言い掛かりはそっちだろうが。ドサクサ紛れの同情で付き合おうとか嬉しくないし!」
「同情なんてしてません。俺を男として見られないならそうと――」
「見てるよ! モブリットは男だろうが。そんなこといくら私だってわかってる」
「俺もあなたを女だと思ってますよ。……それでも、俺とじゃできないなら、できないと言えばいいじゃないですか」
「できないなんて言ってないだろ。全然できるね! 楽勝だね!」
「嘘ついてくれなくていいです。同情で言われても嬉しくない」

もういい。モブリットは情けない思いで息を吐いた。
結局ハンジにすれば、さっきの提案は本当の本当にただの軽口で、1%の可能性も考えていなかったのだとよく理解できた。
自分とは違い、ハンジはモブリットを男として見たことなどなかったのだろう。そして例え考えたとしても、男として見ることはできないと――そういうことだ。
これからも自分はハンジの恋人になる男の為に助言を行い、振られたと聞けば理由に憤り、彼女の矛と盾になるべく、東奔西走する状態に変わりはない。それだけのことだ。
万一上手くいった相手をノロケられるような日が来れば、その時ばかりは誰かやけ酒に付き合ってもらうしかないだろうが。

「だから嘘なんて……」
「わかりましたから。すみません、忘れてください」

ここで席を立つのは卑怯だろうか。それでもさすがに今の空気は少し辛いなとモブリットは苦笑を乗せた。
そうして、お先に失礼しますねと言ってドアに向かうモブリットの背中に、ハンジが慌てたように声を掛けた。

「ちょ、待てモブリット!」
「分隊長。さすがに振った相手にそういう同情は――」
「振らないって言ってるだろう! 同情もしてない。聞けよ人の話を。こっちを向け!」

じゃあいったい何なんだ。
仕方なしに振り返ると、ムッと眉を寄せて不機嫌そうなハンジと目が合った。それはむしろモブリットがしたい表情だ。
今夜はハンジがデートだとばかり思っていたから、退室を見届けてから夕食を取るつもりでいた。そのせいで、そういえば腹も大分空いていることを思い出す。空腹はハンジも同じだろうが、もしかしたら失恋の痛手で、今はそんな気分じゃないかもしれない。そう思うと夕食に誘うのも気が引けて、モブリットの気は重くなった。
このまま食べないようなら、後でニファにでも夜食を届けさせよう。
泣いてたみたいです、などと報告を受けたらどうしたら。部屋まで行って慰めるわけにはいかないから、翌朝知らない顔で挨拶するしかない。
考えれば考えるほど、何だか胸の奥がもやもやしてくる。
忘れてくれと言った自分がこれではどうしようもない。
切り替える為、モブリットはまだ自分を睨んでくるハンジに声を掛けようとして、

「分隊ち――」
「わかった。いいよ。付き合おう」
「はい?」

憮然とした表情のまま言われた言葉は、聞き間違いかとモブリットは首を傾げた。そんな態度にも思うところがあったのか、ハンジの顔がさらにぶすくれたものになる。

「何だよ。恋人にもっといい顔をしろよ」
「……恋人って」
「ただし! 条件がある」
「は?」

おもむろに右手の人差し指を立てたハンジが、挑発するように口角を上げた。訝るモブリットへふんと鼻を鳴らして、ハンジがぐっと胸を反らした。

「どっちができないか、はっきりさせようじゃないか。後で私の部屋へ来いモブリット。目にものを見せてやる!」

何を言い出すのかと思ったら。
斜め上を走り抜けた条件の内容に、モブリットは溜息を吐いて眉を顰めた。

「いいですけど、俺はできますよ」
「私もできるね! 吠え面かくなよ!」
「そんなこと言って、行ったらもぬけの殻とかやめてくださいね。傷つきますから」
「風呂に入ってピッカピカにして待機しててやる。モブリットこそ尻尾巻いて逃げるなよ!」

息巻いたハンジが机を叩く。
この場合、もしもハンジがやっぱり無理だとなった時、自分はどうすべきなのだろうか。成功報酬が付き合うということで、失敗なら――

(……その気にさせればいいってことかな)

生理的に受け付けらない相手じゃないなら、どうとでもなる。
そういうことでいいだろうか。
感じた疑問を口には出さず、モブリットはじっとハンジを見つめて様子を窺った。今にも食ってかかられそうな雰囲気は、聞かない方が賢明だと結論づけて、代わりに別の言葉を口にする。

「……分隊長。その前に、飯は食えますか」
「はあ? 腹ぺこだよ!」
「なら一緒に食いに行きましょう。俺も食べて、ベルト外してから伺います」
「おう!」

威勢の良い喧嘩腰の会話を終えて、仲違いのような微妙な距離間で食堂に向かう。
終始無言で不機嫌そうに咀嚼をしていたハンジを横目に、モブリットはこの後どれほど時間を置いて部屋に行けばいいのだろうかと、聞く機会を逸したまま、食事を済ませ、廊下の真ん中で別れたのだった。

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