初めてを二人から ← ***** コココン、と鳴らしたノックの後の無音が、思いのほか長かった。 これは本当に逃げられたのかもしれない。 モブリットはノックをする為に握った拳を、胸の前でじっと見つめた。 人気のない廊下、深夜、上官の部屋の前で立ち尽くすのは、そろそろ見咎められる時間だろうか。溜息を吐くと同時に、どうしようもない息苦しさを感じて、モブリットは僅かに顔を歪めた。 明日の朝一、会議の前に読みたがってた資料を渡さないという報復くらいでは気分が晴れそうにない。 もう一度ノックをしてみようかと考えて、それも女々しいかと考え直す。踵を返して立ち去りかけて――ギ、とドアの開く音に振り返った。 「――本当に来たのか」 見慣れたパジャマにガウンを羽織り、髪を下ろしたハンジがドアの隙間から窺うように立っている。それに安堵するより先に、目に入った髪が濡れていることに気がついた。 「本当に風呂に入ったんですね」 「……別にモブリットの為じゃない。たまたま――」 「ハンジさん」 頬も僅かに上気して見える。 す、と手を伸ばして髪先に触れて、モブリットは静かにハンジの名前を呼んだ。 「な、なに」 「中に入っても?」 「な、か――、ああ、中ね! 中! はいはい、どうぞ! ハンジさんの中ですよ!?」 「はあ、どうも……?」 「……」 深夜だというのに、驚くほど大声で思い切り部屋のドアを開けてくれたハンジに礼を言って中に入る。クソッと小さく毒づかれたような気もしたが、ハンジを見るとものすごく面白くなさそうに睨み返されてしまった。 自分相手では、やはりその気になるのは難しいということだろうか。 苦笑して、部屋の中に視線を戻し、モブリットはさすがに足を止めた。 「……相変わらずワイルドな部屋ですね」 壁にメモ書きを張り付けているのは自分の部屋と同じだが、その量と分別が段違いだ。ついで、床に散乱する資料や積み上げられた書籍の類も多い。見ると、ベッドの上にもいくつか読みかけの資料が置かれていた。 折に触れ、モブリットが片しにくる機会が少なくなっていたせいとはいえ、久し振りに入ったハンジの部屋は想像どおりの惨状だった。 モブリットの呟きに、ハンジがふいっと顔を逸らす。 「……仕方ないだろう。ここ最近立て込んでたし、モブリットもあんまり片付けに来てなかったじゃないか」 「恋人がいたでしょう、あなたに」 「それが何か――って、モブリット、そういうところ気にするんだ?」 きょとん、と瞬かれて言われた言葉に、モブリットは僅かに目を細めて床の資料をいくつかまとめる。後ろについてくるハンジの気配を感じながら、机に置いた。 「しますよ。これからはいつでも呼んでください」 「意外にマメな男だな」 「そうですね。あと意外に嫉妬深い方だと思います」 机の上で滑り落ちそうになっていたメモ書きも、軽くまとめて重石を置く。 「……ふうん。私はあんまり束縛とか好きじゃないけど」 「知ってます。百回に一回くらいしか見せませんから安心してください」 「それ嫉妬深いか……?」 モブリットの作業を覗きこんでいたハンジが首を傾げる。 ベッドの上の資料に移行しながら、モブリットは頷いた。 「相手の嫌がることはしたくないじゃないですか。要努力です」 「ふはっ。嫉妬するモブリットとか想像出来ないな」 「そうですか? 別れた相手と相性悪くなかったと言っていたあなたはもう見たくないですよ」 「……は、早いだろ百回に一回!」 「そうですね。じゃあ五十回に一回くらいに訂正させてください」 「お、おう」 振り向かないままさらりと本音を言ってやると、ハンジが上擦った声を出した。そのまま無言でいくつかベッドサイドの本や資料をまとめていく。と、モブリットに倣って、ハンジも床の資料に拾い始めたようだった。ととん、とまとめるハンジに手を差し出すと、その資料の束を渡される。 苦笑したモブリットに僅かに首を傾げて、それでもすぐまたハンジは別の資料をまとめだしてしまった。整理整頓に目覚めてくれたのなら素晴らしいことだが、たぶんわかっていないのだろう。 「ハンジさん」 もう一度、今度は名前を呼んで手を差し出してみる。が、ハンジは普段と変わらない様子で顔を上げた。 「待って。まだこっちまとめてないから――」 「今日は部屋を片付けに来たわけじゃありませんから」 「え? ……あ、ああ!」 それでようやくモブリットの意図に気づいたらしい。 ビクリと肩を跳ねさせるハンジに、辛抱強く手を差し出していると、おずおずと上に重ねられた。指先を優しく掴む。 軽く引くと、ハンジはもつれるように爪先を絡めながらモブリットと距離を詰めた。初めて繋いだわけでもないのに、思春期のデートを思い出させる動き方だ。 「……本当にするの?」 「試そうと言ったのはあなたですよ」 「そうだけど」 「やっぱり俺じゃ駄目ですか」 言いながらベッドに促す。 行儀よく膝を揃えて座ったハンジの隣に、わざと距離を詰めて座ると、また僅かにビクリと身じろがれる。 これは緊張か、――嫌悪じゃないことを祈るばかりだ。 指先を離さずになぞっていると、ハンジがぽつりと言葉をこぼした。 「……あのさ、これってつまり、身体の相性を確かめる感じ?」 相性が悪かったら、やっぱりなしとでも言うつもりか。 おかしな条件を追加される前にと、モブリットは指に指を絡めて引いた。 「そういうのは良ければ越したことはないでしょうけど、初めてなんですし、別にずれてても良くないですか? お互いの良いところをしながら探っていく感じで、それもコミュニケーションでしょう。ああでも、何か駄目なことがあれば先に教えてもらえるとありがたいです」 一息に言い切ってハンジを見つめる。と、モブリットと合わせたハンジがふいに視線を逸らして俯いてしまった。 「……」 「ハンジさん?」 モブリットから指を引き抜き、膝の上で両手を合わせる。口を噤むハンジを覗き込むように肩を丸めると、はっきりと逃げの態度で顎を引かれた。胸の奥がツキンと軋む。今ここで引いたら終わる予感がした。 出来るかどうかはっきりさせようと言ったのはハンジだ。する前から無理だなんてルール違反だ。やっぱり駄目だと言うのなら、証拠を見せてくださいと迫るくらいは許されるだろうか。 呼び掛けにも答えてくれないハンジに、知らず焦燥が募る。 モブリットは膝の上で組んだハンジの手に手を重ねた。 掌の中でビクリと震えられても離さずにいると、やがてハンジが口を開く気配がした。何度か言い淀んで、それからちらりとモブリットの表情を盗み見るように視線を動かし、また戻す。 「……い」 「え?」 ようやく何か言われたと思ったら聞き取れなくて、モブリットは更に顔を近づける。と、ハンジは思い切り顔を逸らしたままで言い切った。 「口でするのは好きじゃない」 「はい? 口で……って、ああ」 「しないからな!」 もしかして、それが言いにくかったのだろうか。 安堵に力が抜けそうになる。 モブリットはあからさまに声を緩めて、ハンジの手をトン、と叩いた。 「わかりました。されるのは?」 「され――っ、るのは、別に……っ」 「良かった。するのは結構好きです」 「ああそう……っ、なんだ!? へえ!? モブリットってそうなんだ!?」 代わりに自分の嗜好をひとつ曝せば、ハンジが上擦った声を出した。 他にされて嫌なことは咄嗟に浮かんでこないから、後はおいおいでいいと思う。内心でそう結論付けてハンジを見ると、逸らした視線が合わされると同時に、ムッと眉を寄せられてしまった。 事に及ぼうとするには、だいぶ遠い雰囲気を感じる。 「……後悔してます? 止めたいですか?」 聞きながら、ずるい質問だという自覚はあった。 ハンジの答えが何であれ、止めるつもりにはなれていない。 離せもしないでいる掌の中で、ハンジが手を返してモブリットのそれに合わせた。皮肉げに口角が歪められる。 「質問ばっかりだな。やっぱり出来ないんだろう? 付き合うっていうの、今ならなしにしてもいいよ。全部忘れよう? だからモブリット、無理しなくてもいい――」 「冗談でしょう? 今から俺に部屋に戻って、あなたを想って一人で勝手に収めろと? あなたが良くても俺は嫌です」 ずいっと顔を近づけると、ハンジは一瞬固まったように動かなくなった。 それから何故かはっきりと狼狽えて、勢いよくモブリットから再び自分の手を引き抜いた。思わぬ行動に離されてしまった手に抗議する間もなく、ハンジが素っ頓狂な声を上げる。 「は!? だ、だって、口でしないよって――」 「聞きましたし、そんなもの無理強いする行為じゃないでしょう」 ハンジの言いたいことがよくわからない。 眉を顰めてそう言うと、信じられないものを見る目を向けられてしまった。 「あの……ハンジさん?」 顕微鏡を覗いたハンジが、予期せぬ細胞分裂を発見したときに見たことのある表情だ。今、彼女の頭でどんな仮定と理論が発展しているのかわからずに、モブリットはおそるおそるハンジを呼んだ。 「……え? モブリットって口でしなくてもできるの? す、すごいね……?」 そうして言われた言葉を頭が理解して、モブリットは思わず口を開けてしまった。 「……ちょっと、あんた今までどんな……いえ、いいです」 頭が痛い。いや、性格には腸が煮えくり返りそうな気分だ。 この人に最初に手ほどきしたのはどこのどいつだ。同期ならほとんど残っていないかもしれない。ああでも他兵団ならまだ可能性が。 いや、そもそもこんな事を言うということは、それ以降の男共も同罪だ。断罪すべきだ。生かしておいてなるものか。 「何かおかしなこと言ってる……?」 「大丈夫です。ただ終わったら今までの関係者をリストで頂けますか。しかるべき箇所を削ぐ必要がありますので」 「何で!? どこを!?」 「終わってからで。そろそろ始めましょう」 これ以上話していると、またよからぬ経験を聞かされそうで、勘弁してもらいたい。 口を塞いでしまいたい衝動にかられて肩を掴み、モブリットはそのままハンジを押し倒した。 バランスを崩されて慌てたハンジが、モブリットのシャツを掴む。 ギ、というベッドの軋む音とシーツの衣擦れがこれからの行為を暗示して、柄にもなく心臓がうるさくなってきた。 実験や討伐に関すること以外で、ハンジとこんな距離にいるのは初めてだと、シーツの匂いが告げてくる。 「えっ――わ、と、モブ……、何でそんな落ち着いて」 「ません」 「ふぉ!?」 ぐっと押し返そうとしてきた手ごと、自分の胸に抱き寄せる。 固い、よく引き締まった兵士の身体だ。昔、傷の手当てをしたことがある。だから知っている。見たこともある。けれど今、これからそこへ、違う意図で触れるのだ。 抱き込んで首の後ろから髪を撫でる。ひくりと震えたハンジの地肌に差し込むと、まだ少し湿っていた。 自分の指先が冷たい分、ハンジの身体を熱いと思う。けれど全身に血液を送り出す拍動は、未だかつてないほど動きを早め、熱を発している。 モブリットは自分の鼓動を押しつけるように更に強くハンジを抱き寄せ、耳元に言った。 「緊張しています。心臓がうるさいです。……わかりますか?」 何だか良からぬ常識を持っているらしいハンジと、二人の常識で上書きがしたい。努力と話し合いと、――積み上げていく二人の新しい触れ合いで。 拒絶ではない圧力で胸を押されて、モブリットはハンジの身体の横に手を付き直した。 「モブリット……」 薄く開いた唇で誘うように名前を呼ばれて、モブリットはハンジの頬に手を添えた。まだ少し躊躇いがちだが、僅かにすり寄るように動いたハンジに、心臓がまた少し大きく脈打ったのがわかる。 ハンジさん、と名前を呼ぶ声が、硬質な響きになってしまった。払拭すべく、親指をその唇に滑らせる。薄い唇が柔らかくて、頭がどうにかなりそうだ。 「キスを、したいので」 「あ、ああ、うん。うん?」 改めての宣言に、ハンジの表情にまた戸惑いの色が浮かんだ。 言わないで合わせてしまって良かったのか。こういうとき、今までどうやって始まりのキスをしてきたのか、何度も経験はあるはずなのに思い出せない。 内心の動揺が顔に出ないまま、モブリットの口からつらつらと言葉が流れた。 「目を閉じてもらえますか。舌も入れたいと思いますので口はあまり閉じないで。あ、舌は大丈夫です? 先に指にします? それと服を脱ぐタイミングなんですけど――」 「わ、わかりにくい緊張してるなあ!?」 「だからそう言ってるじゃないですか!」 思わず声を荒げてしまったモブリットの下で、ハンジが大きく目を見開いて瞬いた。 こんなに緊張したのは、初めて壁外に出て巨人と遭遇した時以来かもしれない。 馬鹿みたいな確認をしてしまったモブリットに、それ以上ハンジからの言葉はなかった。至近距離で見つめあったまま、二人の間に妙な沈黙が落ちている。 モブリットはハンジの唇に触れさせていた親指を離して、そっと掌に握り込んだ。 キスの仕方が思い出せない。 いっそ仕切り直しを願い出て、いわゆる清い交際から始めるべきか。 「……すみません。少し頭を冷やし――」 言いかけたモブリットの頬に、すっと、ハンジの指が当たった。 ごく軽く引かれた力が何を意味するか考える間もなく、ハンジの唇がモブリットに触れる。 「……」 「……」 長くもなく、けれど一瞬と呼ぶには短くない触れ合いの後、ゆっくりと離された唇の間に吐息が漏れた。 頬を柔く撫でてくる指先に視線をやって、それからハンジに視線を移す。 目が合うと、ハンジが小さく呟いた。 「緊張するなあ」 今しがた、自分に触れた唇が僅かに震えて見える。 確かめるようにそこに触れて、モブリットも呟いた。 「そうですね」 吐息が触れて、鼻先が当たる。 目線を外さないまま、唇の感触を確かめるように指を動かす。 一撫で、二撫でしたところで、ハンジが不意に顎を引いた。 もう一度触れ合う角度を確かめるように傾けていたモブリットとの間に、少しばかりの距離が出来る。 「か、かわいい声で喘げないけど、モブリットそれでも本当に大じょ――んっ」 モブリットからその距離を塞いだ。 今度はさっきより少しだけ長く。それから深く。 絡めるというには浅く触れ合った舌先にハンジが無意識にか逃げそうになったのを追い掛けて捕まえる。 モブリットの頭に回されたハンジの指が、髪をくしゃりと掴み込んだ。 「……可愛いですよ、充分」 息が上がるほどのキスじゃない。 まだ、たった少しだけ、今までの二人より、深く重なっただけのキスだ。それでも。 「……緊張する」 ハンジの呟きに頷いて、モブリットは頬を包み込んだ。ハンジの手も、モブリットの髪を何度も後ろに撫で梳いていく。 激しくなる拍動に押され、どちらからなのかわからないまま距離が詰まる。 そうして訪れた三度目の重なりは、これまで以上に深く、長く。 鼓動も呼吸も速まる原因がどこにあったかを忘れるほどに、ぎこちなさを残した夜が甘くシーツに溶け始めた。 【End】 |