これからも初めてを 時間ぴったりに研究室のドアをノックされて、ハンジは誰何の声を掛けることなく「どうぞ」と入室を促した。 その指示に従い入ってきたのはやはり予想通りの人物で、壁に掛けられた時計を見ながら内心感心してしまう。 「さすがだね、ニファ。時間ぴったり」 「ありがとうございます!」 えへへ、と喜色満面の笑みを浮かべて敬礼する彼女に笑顔で答えて、ハンジは立ち上がった。資料整理の手伝いを頼んだだけだったのだが、そんなに嬉しそうな顔をされては、今度菓子の一つでもあげたくなる。「ニファはあなたのことが大好きですからね」と苦笑していた副長の言葉が頭をよぎり、ハンジはふっと表情を緩めた。それはなんて嬉しい限りだ。 「じゃあ行こっか。第六書庫室なら空いてるかなと思うんだ」 「わかりました。あ、でももしかしたらケイジが行ってるかもしれませんよ?」 「ケイジが?」 机上に置いていたファイルをいくつか持って立ち上がると、慌てたニファがハンジの手からそのほとんどを奪い取った。 やる気に満ち溢れてくれている彼女に水は差さず、代わりにドアを開けてやりながら聞けば、ニファが頷く。 「さっきワイヤーの巻き取りリールの素材について見たい資料があるって言ってたので。工業都市関係も第六書庫室にありましたよね?」 「そういえばそうか。邪魔しそうだったら第五にしようかな」 こちらは別にどうしても第六書庫室でなければいけない理由はない。単に資料を広げられる程良いスペースが欲しいだけで、いうなれば研究室でも自室でもいいのだ。が、いかんせん現状ハンジの生活範囲にそんな広々とした空間は存在していなかった。 日頃から片づけろと口煩く言ってくる我らが副長も、最近は実験だ何だと付き合わせてしまっているせいか、そこまで頻繁に手が回っていない。 「副長にも見てもらうと言ってましたから、もしかしたら一緒かもしれないですね」 「モブリットに? ああ、そういえばさっきケイジに呼ばれてたなあ。それか」 ハンジは、ぽん、と手を打った。 ニファが来るまでに少しでもとまとめ掛けて、途中で呼ばれたモブリットが申し訳なさそうに頭を下げていたのを思い出す。本来彼の仕事ではないのだから謝ることではない。だがそこに律儀なモブリットの性格が見えて、ハンジは苦笑を禁じ得なかった。 自身の副長でもあり、長年共にこの調査兵団で生き抜いてきた竹馬の友とも言えるモブリット・バーナーと、ある一件から公私共に過ごす関係になって短くない月日が過ぎた。 正確に言えば半年と少し。 近すぎると言えなくもない仲間として過ごした期間を除き、異性との交際期間としていえば、ハンジの人生で最長だ。 関係はすこぶる良好――と言うのが正しいのかはよくわからなかったが、少なくともモブリットが言っていたとおり、別れの予感を感じることは今まで一度もなかった。 そもそも二人の間で変わった事といえば、いわゆる恋人同士で行う触れ合いが時折関係に追加されるようになったというだけだ。それまでの恋人達とのように、貴重な休日をわざわざあまり気の乗らない町まで服を着替えて出る必要がなくなったことはありがたい。 深夜まで及んだ仕事の末、部屋へと戻る廊下でふと触れた指を少し照れくさくなりながら絡める時は、心がざわつく。おやすみ、と告げる時、おやすみなさい、と返される時、その声のトーンや瞳の色がお互いだけに向けられたものだとわかるのは、くすぐったさと緊張と、そして何とも言えない安心感を与えてくれることにも気づいた。 初めて一緒に朝を迎えた日は、夜のことが思い出されて顔から火が噴くかと思ったのも懐かしい。 (……いや、まあ、あんまり慣れないけど) 大丈夫ですかと覗き込まれて「いいから見るな」と枕に突っ伏したハンジを嬉しそうに抱きしめてきたモブリットは、意外にずっと男だった。そういう一面は知らなかったし、あえてハンジから見ることも、モブリットが見せることもなかっただけで、知らない彼を知るのを嫌だとは思わなかった。 恋人という立場が加われば、何か二人の関係に面倒なものが出来るだろうかと危惧していなかったわけではない。でもそれも杞憂に終わった。 そもそも普段の生活で、距離も何もかも、まるで変わったことがないのだ。 少し考えれば、むしろよくぞ今までこの距離で触れ合うことがなかったなと思わざるを得ない。 (うーん……つまり、そもそも最初から大して変わってなかったのか……?) それまでの始まりとまるで違うモブリットとの正しい距離感はよくわからない。 今までと何も変わらない距離で話したいと思うし、実験に関しては我が儘――ハンジにとってはただの意見にすぎないが――を言って窘められればあらゆる側面から考え直す切欠になると思っているし、けれどもふとした瞬間空気の変わるモブリットの瞳の中を、もっと覗き込みたいという気にもなる。 それは日を追うごとに、ハンジの探求心を刺激していた。 (あー……単純に言えば、つまり、私はモブリットを好きなんだよなこれ……) けど、まだ、やたらとそちらの勝手がわからない。 不意に思い出してしまった最近の行為に、ハンジは内心で頭を抱えたい気分になった。 最近といっても何かと互いに忙しく、かれこれ二週間は経っている。 初めての日、まだどうなるとも知れない中で告白された性癖は、ハンジと相反するものをわざとあげただけかと思ってもいたのだが、どうやら本当だったらしい。するのは嫌いだと言ったハンジにモブリットが無理強いすることはなく、けれども自分は好きですと言った宣言どおりの行為に、その日――いや、その日以降、ハンジはずっと戸惑い続けていた。 ++++++++ 『――ん、ふっ』 胸の先端を甘噛みされて、ハンジの口から思わずといった声が漏れる。 ちらりと視線だけで反応を確かめたモブリットは、さらに反対側の胸を揉みしだく手に緩急をつけて、指先でぐりぐりと尖りを潰した。 『ひゃっ』 ぴん、と弾かれると同時に強く吸われて背筋が仰け反る。 『ま、待ってモブリット、んっ、胸、も、いい――』 『良くないですか?』 『アッ、ち、違っ、……ンンっ!』 指で弾いたそこに謝罪のようなキスをされて、ハンジはたまらずモブリットの頭を掻き抱いた。口の中でころころと転がされる舌の動きに言葉が震えてどうしようもない。と、胸を口で弄ったままのモブリットが右手を下腹部へと滑らせた。肋をなぞり、脇腹を撫で、ゆるゆると臍の窪みで遊ばせる手のひらの熱に、腰の奥をぞくりと何かが這い始める。 胸に感じる刺激を唇を噛んで堪えながら、その動きに足を震わせれば、モブリットの指先がするりとその付け根に宛われた。 『ふぁ――っ!?』 ちゅくり、と淫猥な音がする。 まだ一度も触られてすらいなかったのに、簡単にモブリットの指を飲み込んでしまう自分の身体にぐっと羞恥が沸き起こった。咄嗟に力を入れてしまうが、胸の先端をカリッと噛まれて悲鳴が上がる。同時に生じた隙を突かれて、モブリットの指がハンジの浅いところを暴きたて始めた。 『や、あっ、モ、モブリット……ッ! だ、だめっ』 『……いいですから』 何がいいものか。 やっと胸から顔を上げたモブリットはそう言って、一度ハンジの口腔を甘やかすように舐ると、そのままするすると下へと降りる。 そうして濡れた指先を優しく引き抜き両側に広げながら、じゅるりとそこに舌を這わせた。 『ふわっ!? アッアッ! ……ねっ、モブリット、も、じゅうぶん、だって、ば……!』 『ん……そう、ですね。濡れてます』 『言うな! ア、だから――ン、わ、ぁ……ッ』 挿れる分には十分すぎるほど十分だ。自分でも信じられないくらい濡れているのは、モブリットの立てる音からも自身の変化からもよくわかっている。だというのに一向に止める気配の見えない彼は、ハンジの両足を広げ、引き寄せ、逃げる腰を抑えて舌を奥へと這わせるのを止めようとしない。 『イヤですか?』 『っ、あっ、あっああ!』 嫌じゃないからこんなになってるんだバカ。 悪態が口から出る前に嬌声に変わる。ひっきりなしに押し寄せてくる快感にどうすればいいのかわからない。 それなりに経験はあるはずなのに、モブリットの行為とはあまりに違いすぎて、ハンジはどうすればいいのかいつもまるでわからなくなってしまうのだ。 『だ、だって』 『だって?』 腰の奥の奥が熱い。 胸の尖りがもっと触れてというかのように痺れている。 こんな感覚は知らなかった。 モブリットとの行為は知らないことばかりをハンジに突きつけてくる。わからないことばかりになる。 自分の胸は大きくも柔らかくもないだろうに、どうしてモブリットはいつも丁寧になぞるんだろう。そんなことはされたことがなかったし、する必要性も感じたことはついぞなかった。舐めるのが好きだといっても、所詮挿れる為の準備運動のようなもので、濡れてさえいれば必要はないと思っていたし、今まではそれが常識だった。 セックスは恋人同士の行為ではあるが、もっと男性寄りの独善的な行為だと思っていたのだ。女性の昴りは男性の終わりで終焉を迎える。中途半端といえばそうかもしれない。だけどそういうものなのだと、自分の後ろで果てる過去の恋人達との行為でハンジは何の疑問を抱いてもこなかった。 それなのにこんな―― 『こんな、こと、されたことな――、んああっ!』 言い終わる前に、モブリットが今までと比べものにならないほど強く下の尖りに吸いついた。右手の中指で知られてしまった中を押されて唇を噛むのも忘れてしまい、ハンジの口から甘い悲鳴が迸る。ビリビリと背筋を快感が跳ねて、逃げたいのにもっとと押しつけたいような相反する感情で自分がわからなくなる。 こんなのは知らない。目の前が白くチカチカとしている。まるで新しい世界に丸裸で投げられたようで、どうしたらいいのかわからない。 『……ハンジさん』 『ふ、な、に……?』 ビクリビクリと跳ねる足の間から透明な糸を繋いでモブリットが顔を上げた。その光景にすらじゅくりと溢れてしまいそうになる。 『あんた、もう……』 『ん――』 両足を抱えるように折り曲げて、モブリットが伸び上がってハンジの唇を割り塞いだ。閉じたハンジの目から生理的な涙が溢れる。それを乱暴に指の腹で拭い取りながら、入り口を自身でぬちりと往復させていたモブリットが腰を浮かして、その切っ先をハンジの中に挿し入れていく。 『待って、まだ』 『ゆっくり、挿れますから』 『こっちからって、し、たことな――』 『前言撤回します』 『んっ、ふ、ぁ……むぅ!』 酸素を得ようと口を開けて、けれども奥へと侵入された舌と、中が、モブリットでいっぱいになる。ぐちり、と奥まで侵入しモブリットはすぐには動かず、そのままの姿勢でハンジの口腔を、歯列を、唇を、食べてしまおうとでもするかのように塞いで、腰をゆるりと動かした。 『や……ぁ、はっ、んんっ』 挿入したら腰を前後に振って、終わるんじゃないのか。 ずっとそうだと思っていた。 どうしてモブリットは中を確かめるように動くんだろう。この体勢もされたことなんて多分なかった。セックスなんて後ろから挿れて出して、終わる行為だと思っていたのに。だって動物の性交はそうじゃないか。人間だって動物なんだし、なのに、モブリットはいつもハンジに触れて探って、余すところなく口づけて――。 上と下と、同時にされるのがこんな気持ちになるなんて知らない。最中にキスをするなんてモブリットだけだ。それを、もっと、と思ってしまうのが正しいことなのかわからない―― 『モ、ブリット』 『……ンジ、さん』 『モブリット、モブリット』 だからどうしていいかわからなくて、ハンジはいつもモブリットの名前を呼んでしまう。 知りたいことは山のようで、けれども頭が冷静でいられない。名前を呼んで、シーツをぐっと握り締めれば、モブリットは必ずハンジを呼んでくれる。それからシーツに皺を作るハンジの手を開かせ、指を絡め、時には背中へ誘導するのだ。 『ダメ、だってっ、ば。ンッ、背中、血出るよ……』 『いいですから。つけて』 『あっ!』 言うなり激しくなる動きがハンジの葛藤を押し流してしまう。 自身も同じようにハンジを強く抱きながら達するその背に、ハンジは何度爪痕を残したかしれない。短く切り揃えているはずの指先が食い込むほどなんて、どれだけだ。初めて気づいたときには消え入りたくなったものだ。 まだ、慣れない。 付き合って半年。普段の距離に問題はない。そっと触れ合う瞬間も、くすぐったいが悪くない。 ただまだ少し、知らない夜に、知らないモブリットに、そして自分自身の変化に、ハンジは緊張してしまうのだ―― ++++++++ 「……ょう、分隊長? 聞いてます?」 「うおおっ!? あ、ご、ごめん、ニファ、何だっけ?」 そんなことをうっかり考えていたせいだ。 隣からひょっこりと回り込むように顔を覗かれて、ハンジは慌てて誤魔化した。 心配そうなニファに笑って促すと、不思議そうに大きな目を瞬きつつも、どうにか誤魔化されてくれたようだった。 再びハンジの隣で資料を胸に抱えながら、 「最近副長に恋人が出来たらしいって知ってました?」 「へえー……、って、ん? どこの副長?」 「モブリット副長ですよ! うちの、モブリット・バーナー副長! もう、本当に聞いてなかったんですね分隊長ってば!」 ぷうっと膨らんだほっぺたに気を取られそうになりながら、ハンジは素直に謝罪する。それからハテと首を傾げた。 「最近……? そうだっけ?」 恋人というのはたぶんアレだ、私のことだよな、とは思う。 だが半年前からの関係を最近と言っていいものなのだろうか。 単純な疑問を呟いたハンジに、そんなこととは知らないニファが答える。 「あ、いえ、最近っていうのは、最近私達が何となく聞き出したからわかったっていう話なんですけど」 「聞き出したんだ? ぶふぉっ。さすがニファだな」 私達、というのはペトラあたりだろう。 同期や仲の良さそうな顔見知りを何人か思い浮かべて、ハンジは思わず吹き出してしまった。 彼女達に囲まれて根掘り葉堀り質問されているモブリットの苦笑が見えるようだ。 ニファはハンジを好きすぎると言っているモブリットは知らないのだろうが、彼女はモブリットのことも大層自慢に思っているに違いない。 笑うハンジに、ニファは先程よりも更に頬を膨らませながら反論した。 「ケイジも言ってましたもん! 最近の副長、落ち着いてるみたいだから何かあったんじゃないかって!」 「落ち着いてるねえ」 むしろ彼が落ち着いていないことなどあるだろうか。 ハンジが好奇心を抑えきれずに被検体へ近づき過ぎた時くらいじゃないのかと首が更に傾いでしまう。 彼がわかりずらくも緊張を垣間見せたのは、本当に最初の夜だけだった。それもすぐにハンジばかりが翻弄されていた記憶しかない。 微妙な不満を覚えながら、ハンジは考え込むように腕を組む。 「分隊長はそう思いませんか? あ、落ち着いているといえば分隊長も!」 「へ? 私?」 思わぬところで矛先を向けられて、ハンジは思わず聞き返してしまった。 ここにモブリットがいれば、どこがだ、とでも言い出しそうで、それを想像するとやはり少し面白くないような気がする。 だが、それを考えるより早く、ニファが持論を展開した。 「最近驚きのサイクルで別れることもなくなったみたいじゃないですか」 「驚きのサイクル……」 そんな呼び方をされていのか。 かつてモブリットからも「またですか!?」と言われたハンジのこれまでの遍歴は、何も記録更新を狙ったものではない。本当にそんなつもりもなく、ただ淡々と自然な流れで終わっていたというだけなのに、これでは何だかものすごく遊んでいたように聞こえて心外だ。 「いやいや、ニファ? 私は別に」 「――あ!」 「え?」 不名誉なレッテルを剥がそうと言い掛けた言葉は、ニファの突然の声で遮られてしまった。 聞き返すと、ニファはわかったとばかりに笑顔でハンジを仰ぎみる。 「副長が落ち着いてるっていうのは、だからですかね? ほら、副長ってば分隊長が別れるといつも誰よりもピリピリしていたじゃないですか」 「え。そうだったんだ?」 初耳だ。いや、知ってはいた。面と向かって怒られた当人なのだから覚えてもいる。 ただそれはハンジの知るモブリットとは少し違うようだっった。 (あれって私に怒ってたんじゃないのか……?) そもそも誰かと別れた時に、ハンジがピリピリしていた試しはおそらく一度もなかったはずだ。何となく物寂しいような気がする時があったような気もするが、それが持続するほど四六時中一緒にいるようなことは初めからなかったから、おそらく一つの関係の終焉に対する物寂しさでそれ以上ではなかったのだろう。そんなことよりやるべきこともやりたいことも山積みで、だから終われば少しホッとしていたようなところもある。 こんな自分だったからこそ、相手の気持ちが離れていくのもよくわかるというものだ。一般的な恋人という枠にはまらなかった自覚くらいはハンジにもあった。 けれどどの別れも、罵り合って終わったようなこともない。 ただモブリットだけは、毎回そんな自分に怒り、そのくせ気遣っていてくれたのを知っている。それは当然、重責を担う立場にいる者としての周囲への配慮であったり、ハンジが失恋の痛手を負っているだろうという彼なりの心配りからくるものとばかり思っていたのだが。 (ピリピリ、だったかなあ……?) ニファの言い方ではまるでモブリットが不機嫌だったように聞こえる。 「見る目がないとか、相手の器が信じられないとか、うちの分隊長の一体何が気に入らないんだとか、文句を言いに行こうとしたのをケイジ達が慌てて止めたこととかもあって、結構すごかったですよ。最後の方なんて自分が振られたみたいに落ち込んでました」 「へえ……」 知らなかった。 いつからだろう。いつから彼は、自分の為にそんなに憤りを感じていたりしたんだろう。ハンジの前ではいつもの頼れる距離の近い部下でいてくれたモブリットのそんな一面は、まだ見せてくれていない。ずるいじゃないか。そんなことを知ってしまったら、何だか急に顔が見たいような気分になる。 明日はデスクワークの一日だ。今夜辺り、久し振りにモブリットの部屋に行ったら駄目だろうか。 「いっそお二人で付き合っちゃえばいいのにーって言ってたくらいなんですよ」 「えっ」 「――あ、第六資料室、ここですね」 とんだ爆弾発言をポイと投げて、ニファは部屋の前で立ち止まった。 さっとドアを開けようと一歩前に踏み出して、ニファがおずおずと振り返った。 「……あの、誰かいるみたいですけど」 「ん? どれどれ――」 どうします?と目顔で問われて、ハンジも中の様子を窺ってみる。 確かに人の気配がする。 「……じゃないのか?」 「ああ、まあ」 中から聞こえてきた声に、ハンジとニファはお互い顔を見合わせた。 聞き覚えがある。というより、もしかしたらいるかもしれないとここに来る前に話題に乗っていた人物達に違いなかった。 声を潜め気味で話しているのが少し不思議な気がしないでもないが、ワイヤーの話だけではないのかもしれない。 こちらは急ぎの用ではないのだ。 しっと人差し指を口の前に立て、予定通り立ち去ろうと身振りでニファを促して、二人で背を向けた時だった。 「じゃあ別に恋人に振られたから落ち込んでるわけじゃないんだよな」 「振られてないし別に落ち込んでない」 「お、ならアレか? 恋人との身体の相性にお悩み中とか?」 ケイジの軽口に真っ先に反応したのは隣のニファだ。 「うっわ! 下世話!」 「まあまあ、ニーファ、ほら行くよ」 思わずといった体で中の会話に目くじらを立て、振り返りそうになったニファの背を押しハンジは苦笑しながらせき立てた。 「何だよ、そんなにまずいのか?」 ケイジの揶揄するような声がそんな二人の背中に届く。 むくれるニファを宥めつつ、ハンジはもう一度先を促して―― 「……ものすごくまずい」 間を空けて聞こえた低い声音に、思わず二人の足は止まってしまった。 その声はモブリットで間違いない。 その後も二人の会話は続いているようで、何やらボソボソと途切れて聞こえる言葉は、けれどもハンジの耳を都合よく素通りしているようで何を言っているのかはわからなくなった。 「………………」 ハンジがそこにいたのは、それでも数分となかったはずだ。 背を押されないのをいいことに、するりと横をすり抜けてまた中の会話を盗み聞いていたらいいニファが、何やら頬を染めた様子で戻ってきた。 「なんか、よくわからないですけど、副長大変そうですね?」 「……だね。資料持つよ。部屋変わろう」 「あ、はい!」 その手からさっと資料を奪うと、ハンジは大股で歩き始めた。 慌てたニファの返事が少し遅れてついてくる。 『まずい』 『ものすごくまずい』 へえ、そうなんだ。 全然全く気づかなかった。 あんなに小さな声だったのに何でそこだけは鮮明に聞こえてしまったのか、耳というのは不思議な器官だ。 巨人ももしかしたらそうなんだろうか。聴力の検査もどうにかしてしてみたいものだ。それにはまず痛覚の反復刺激から行わないと―― ぶつぶつと思考の波を掻き立てながら、ハンジは次の部屋を探して幽鬼の如く、資料室の間を彷徨い歩いたのだった。 ***** → |