これからも初めてを ←
ゴン、と床に頭を打ちつけたのと、「ひっ」というモブリットの声が耳に届いたのはほとんど同時だった。 ぼんやりと目を開けると何故か視界が反転して見えて、ハンジはボリボリと頭を掻く。 すると身体がずるりと床に滑り落ちて、そういえば自分はベッドで寝ていたのかと思い当たった。 「――う、わっ! 分隊長!? 何してるんですかっ」 ぐにゃりと頭からおかしな落ち方をして、ゆっくりとその場に胡座を組んで座り直したハンジに、モブリットが慌てたように駆け寄ってくる。 「鍵開いてたよ? 不用心だなあ」 へへっと笑ってそう言えば、モブリットは片眉を上げて溜息を吐いた。 「あんたの部屋に掛かってた例しありませんけどね!?」 「君とする時は掛けてるじゃないか」 「当たり前です」 「ちっ」 「……何の舌打ちですかそれ」 ベッドの上にに座らせ直してくれながらで言うモブリットを憮然として睨みつけ、ハンジは唇を尖らせた。 舌打ちの理由なんてたくさんある。 ここ最近忙しかった。 二人でいる時間は片手で数えるほどだ。でもそれは別にいい。仕方がないし、それだけやるべきことがあったというのは良い事だ。 だけど。 ――そう、あまり寝ていない。 自覚はそれほどなかったが、たぶん睡眠不足だった。 話をしていない。 風呂に――入らないのはいつものことだが、入れという小言の数も減っていた気がする。 部屋の片づけは任せろと豪語していたくせに雑然としたハンジの部屋を見ても「まったく仕方がないですね」くらいの表情だったり。 そもそも部屋にまで来ることも片手で足りるくらいだったり。 そういう諸々は、指折り数えれば山とある。 だけど今の舌打ちの最たる理由と言えば、もっと単純明快だ。 ハンジは憤然と肩を怒らせて、隣に座ったモブリットからぷいっと顔を背けた。 「誘ってるのにモブリットが全然その気にならないからだろうが」 何も裸で乗り上げるだけが誘いではない。 ハンジにしては珍しく自分からアクションを起こしたというのに、副長の立場を崩そうとしない優秀な部下に、睡眠不足で支離滅裂になりつつある思考も手伝ってか、ハンジの視線は徐々に剣呑な色を帯び始めていた。 そんなハンジを眉を寄せて見つめていたモブリットは、少しして降参するように両手を上げてみせた。 「待ってください? 今の流れでどの辺りから誘ってました?」 「恋人がベッドに入って待ってたら、それ以外にあると思うか?」 なんだこいつ、と言い出しそうな顔で振り向いたハンジにモブリットは上げていた手で拳を作ると、眉間の皺を揉み解すようにぐりぐりと当てた。それから生真面目な顔でハンジに向き直る。 「――人のいない間に勝手に部屋に侵入して熟睡した挙げ句、床に頭から落ちて起きた上官の姿で、そこに飛躍できなくてすみません」 「勝手に入ったのは悪かったよ。ノックはしたんだけど。鍵も開いてたしいるのかと思って、でも違ったから戻ろうとは思ったんだ。……けど、ちょっとだけのつもりで横になったら、きれいだしあったかいし、それにモブリットのにおいがして、何だか久し振りだなって思ったら安心してウトウトしちゃってつい。ごめんね」 ここに至るまでには、ハンジなりに正当な理由があった。 けれどモブリットの匂いが染み込んだベッドに横になり、昼間のことや今までのことや、それこそ他の体験との整合性を比較していたら、ついうっかり寝落ちてしまったのはミスだった。 素直に説明し謝罪したハンジに、モブリットは何かを言いたそうに眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。 「……部屋まで送ります」 そうして疲れたように立ち上がったモブリットの袖を、ハンジはベッドに座ったままで引いた。 「ねえ、一緒に寝たいんだけど」 「分隊長」 「疲れてるなら何もしなくていいよ。ただ一緒に寝るだけでいいんだ」 それから、本当は話がしたい。 昼間のことも。今までのことも。巨人のことも。これからのことも。 何でもいいし、何でも知りたい。 でも少しその結末が怖くもある。 もしかして――いや、たぶん、そうなんだろうとは思う。 いくら最初に言われたとはいえ、盲目的にモブリットからはないだろうと思っていた自分に驚くというものだ。 こんな終わりは別に今回が初めてというわけじゃない。今までだってそうだった。それでいいと思っていた。付き合ったからといって大きく変わったわけじゃないのだから、別れたって同じことだ。気にしない。別にいい。でも、モブリットが、言ったんじゃないか。――いや、気持ちなんて変わるものだ。ハンジだってそうだった。こんな気になるなんて思ってもみなかった。別に誰が悪いわけでもない――…… ジッと見つめるハンジから、モブリットはさりげなく視線を逸らした。 袖を掴むハンジの手を取り、宥めるように両手で握って立ち上がらせようと引っ張りあげる。 「無理しないでください。つい熟睡してしまうほどお疲れなんですから、ご自分の部屋の方がゆっくり出来ますよ」 「――……き」 「はい?」 いかにも物わかりの良い副長然としたモブリットに、ハンジの口が勝手に動いた。 「うそつき」 素直に立ち上がったまま俯いたハンジは、小さく、けれどはっきりとその単語を口にしていた。 いつもと違うハンジの様子に、モブリットから戸惑うような気配がする。 「分隊長? あの、どうし」 引いた手を親指の腹で撫でながら覗き込もうとされて、ハンジはバッとその手を弾いた。 「振らないって言ったじゃないか。そろそろかなって感じる手間も省けるって。この大嘘吐きが。最長記録を更新した分最悪な気分だ。何が嫉妬深い方だよ。どこがだ。私のがよっぽど――……くっそ」 ハンジはぐしゃりと前髪を掻き上げ悪態をついた。 こんなことを言うつもりでここにきたわけじゃない。終わりならそれで仕方がないとわかっている。ただ自分達の立場上、どちらにとっても宙ぶらりんな状態は良くないと思ったから、それを確かめるつもりだった。なのに、これじゃあ何が言いたいのかわからない。 「ち、ちょっと待ってください。何か誤解を」 「やっぱり出来ないのはモブリットの方だったんじゃないか」 だけど言葉が止まらない。ハンジはギリッと無意識に奥歯を噛み締めた。 あの時、確かにモブリットは言ったのだ。 身体の相性がものすごくまずいと。 それはつまり、誰かと何かを比べての話だ。 だから最初から可愛い声で喘げないと言ったじゃないか。胸が小さいのだってそんなもの最初からわかってたくせに。するのが好きじゃないというのは本心だが、別にモブリットがしてほしいならしたって良かった。してくれとモブリットだって言わなかった。ハンジからしてみようかと言ったことはあった。それでも「いいですから」と言って、モブリットはいつだってハンジに与えてばかりで―― (――……あー……そっか。そっか。そうだよな) 不意にハンジの頭が冷静になった。 モブリットからされてばかりで自分が何も返せていなかったからなのかもしれない。いくらいいと言われても、一方的な奉仕はどこかで見返りを求めるものだ。現に、されてばかりの自分が、そのくせ他と比べられたことに傷ついているのだから。 それに、今までとあまりに勝手が違いすぎて慣れないでいたのも、彼をつまらなくさせた要因なのかもしれないと思い至った。もっと、モブリットがどうして欲しいのか聞けば良かった。そんな余裕はいつもどこかに消えてしまっていたけれど、聞けば良かった。そうしたら少しは結末が違っていたかもしれないのに。 (遅いけど) ハンジは思わず自分に嗤った。 誰かと別れるのに、こんな後悔をするなんて初めてのことだった。 今までの終わりはいつも予感から始まって現実になるのは比較的すぐで、後悔を考えるほどのことを互いにしてこなかったかもしれない。それに傍にはいつもモブリットがいて、何くれとなく話をしてこれたから、そんなことに気を取られている時間もなかった。 今更だ。 モブリットがいつもどれだけ自分に尽くしてくれていたかを知るなんて。 「ハンジさん」 どこか硬質な声音で呼ばれた声に、ハンジはハッとして顔を上げた。 すぐそこで自分を見るモブリットの表情から、感情が形を潜めているように見えて、ハンジは自分の失言に気づいた。 笑って別れられるとは思っていないが、怒らせて拗れた終わりにしたくはない。 だから努めて明るい声音で最後を締めくくることにする。 「――ごめん。もっと、別の言い方をするつもりだったんだ。責めてるわけじゃないよ。こんなこと別によくあることだろう? 今までだってもっとスマートに終わってたんだし、だから今回も問題ないと思ってて……おかしいな。ごめんね。忘れて。お互いいい大人なんだし、こういう経験もまああるよね。あー……ありがとう、ええと、結構楽しかった――、よ?」 はは、と笑って言ったハンジは、ほとんど音もなく間合いを詰めたモブリットにトン、と押された。 言葉途中でボスンとベッドに腰を下ろして、そのまま更に肩を押されて倒される。 「何が楽しかったんですか?」 ハンジの上に影が落ちた。 ギ、とベッドの固い床が鳴って、モブリットが乗り上げているのだと理解する。 「モブリット?」 どうしてこんな体勢になっているのか。 見上げた先のモブリットは、やはり表情のないままでハンジを見下ろしている。 身体を起こそうと首を傾ければ、まるでそれを阻止するかのように、モブリットの手が顔の横につけられた。 「俺は今まったく楽しくないんですけど、あなたは俺とのこともよくある大人の経験の一つに出来てしまうんですか?」 「え、なに……」 「勝手に思い出にしないでください」 「ベ――ベッド占領したこと怒ってる? ごめんって。もう部屋に戻るし二度としないから」 モブリットの様子が違う。 無表情はあまりに膨れた感情の発露をギリギリの理性が踏み止まらせているからだと気づいて、ハンジはもう一度素直に謝罪した。 二度としない。関係が終わるのなら当然だ。 以前ハンジの部屋に入らなかった理由に、ハンジに相手がいたからだと答えたモブリットの誠実さを見習おうと思っている。落ち着くからとか気持ちいいからという単純な理由で、部下のベッドに潜り込んだりはもうしないから。 なかなかどいてくれないモブリットの胸を押したハンジを、しかしモブリットはその手を掴んでベッドマットに押しつけた。 「嘘吐き呼ばわりも心外です。俺が振る? あなたを? 笑えない冗談ですが、そんなに楽しかったですか?」 珍しく鼻で笑った言い方をされて、冷静になっていたはずのハンジの頭に再びカッと火がついた。 「な――なんだよ! だって部屋に戻れって言ったじゃないか! 君が! 今!」 どうても抱けと言ったわけじゃない。 ただ一緒にいたいと言って、そんな申し出も断られたのだ。 それが予感じゃなくて何だと言うのか。 モブリットが僅かに気圧されたような表情になる。 「だから、それは、あなたが疲れてい」 「それに! 今日ケイジと話してたあれ! 私のことだろう!?」 「ケイジと? 何をです?」 「……クッソ!」 空とぼける気か。 困惑を顔中に張り付けた人畜無害な顔に苛立ちが募り、ハンジは鼻の奥がツンと痛むのを感じた。 何でこんなこと――終わるなら、いつものように何も考えないでいたかった。 モブリットとこんなことになるなんて嫌だ。考えたこともなかったし、まさかこうなるなんて思わなかった。 付き合うなんて明確な関係の変化を受け入れたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。 必要な時、彼はいつも傍にいたから、それが当たり前になりすぎていた。 それを彼が愛情と勘違いしている可能性を忘れていた。 よしんばあの時は愛情だったとして、性欲と相性の狭間で変化することを予測の一端に入れていなかった自分が悪い。 (だって――だって、今まで、そんな相性を考えたこともなかったんだ。モブリットとするのは、私には――……クッソ!) ベッドに押さえられた手首にぐっと力を入れて、ハンジはモブリットを睨みつけた。 「恋人との身体の相性がまずいんだって? 悪かったな!」 「え――?」 噛みつかんばかりのハンジの言葉に、モブリットが一瞬面食らったような顔になる。その隙をついて手首の自由を取り返せば、慌てた彼は、逃げ出そうとしたハンジの手首をもう一度押さえ、指の間に指を絡めて声を荒げた。 「き、聞いていたんですかっ」 「聞こえたんだよ! 聞かれたくない話ならもっと慎重にすべきだったな! ニファも聞いたよ! 大変そうですねってさ。大変な事情に気づけなくて悪かったよ。何だよ。徐々に探っていけばいいとか言ってたくせに、探れるような余裕くれなかったのはモブリットじゃないか! いつも、だから、待ってって言ってもモブリットが――……いいだろうもう、離せよ!」 いつか終わるとしても、まさかこんな終わり方は予想外だ。 絡められた指を握り返さずベッドの上で逃げようともがくハンジに、モブリットは力を緩めずむしろ乗り上げてきた。足の間でハンジの身体を拘束し、はあっと深く息を吐く。 そんなに嫌なら速やかにどけ。 いっそ忌々しげに睨むハンジの手から、ようやくモブリットが力を抜いた。 けれども逃がす気はないとばかりに、また顔の横にすかさず置かれる。 「……最後まで聞いていたわけじゃないんですね」 「何が! だからモブリットそこをどけって――」 「良すぎて、俺の自制が利かなくてまずい、と言っていたんです」 「だから――……は?」 はあ、から、はああ、に大きく変わった溜息を溢すモブリットに、ハンジはもがいていた動きを止めた。 良すぎて、まずい? 耳に聞こえた台詞を理解しようと勝手に頭が動き始める。 モブリットに自制が利かなくなることなんてあるんだろうか。 自分を見下ろす男をまじまじと見つめ返しながら、ハンジは幾度も過ごした夜を反芻させてみる。が、そのどれも、翻弄されてばかりだったのは自分だ。 やっぱり嘘か。都合の良いことを言いやがって。 出した答えに盛大に毒づきたい気持ちになって、ハンジは自由になった手で再びモブリットの胸を押す。 今度は簡単に押し返されたモブリットがハンジの手を取り、ベッドの上に身体が起きるのを手伝うように引いた。 「……あなたの、今までのお相手とはやり方が大分違うみたいですし? いちいちそれが見えるのが悔しくて、つい、あなたの声を無視して好きにしていたことは認めます。いい歳をして余裕がなくてすみません」 向き合う形で座った途端、モブリットは引いたハンジの手をそのままに随分と皮肉げな表情を見せた。 「そういう声や顔を見せた相手がいるんだと、わかっていたことなのに非常に腹立たしくなってもいました。あなたの反応がいちいち――……いえ、そういう面倒な束縛、あなたは嫌いでしょう。だからなるべく見せるつもりはありませんでした。ただ、あなたがどうかは知りませんが、俺はものすごく相性がいいと思っています。身体も。でもそれだけじゃなく。だから」 じっと見つめていたモブリットはそこで一旦言葉を区切ると、ハンジの手を離した。掴んでいた部分を謝罪のように撫でて軽く俯き、それから意を決したように顔を上げる。 薄い唇が生真面目に引き結ばれて、ヘーゼルの瞳が物言いたげに揺れている。 そこに真摯さ以外の熱を見つけて、ハンジの心臓がトクンと鳴った。 ハンジの手に触れていたモブリットの指先が離れる。 「別れる気はありません。あなたは……終わらせたいですか」 「え、やだ!」 咄嗟に、ハンジはその指を手ごと掴んで引き留めた。 モブリットが驚いたような顔になる。 「……嫌だ」 その表情から目を逸らさずに、ハンジはもう一度そう言った。 嫌だ。 別れの経験はこれまでに何度もあったけれど、そう思ったのは初めてだった。 終わりの予感を感じてもハンジからそれを止めるように働きかけたこともない。そういうものだと思っていたし、仕方ないと諦めてもいた。それにむしろどこかでホッとしていたようなところもあったから。 けれど。 「モブリットと、別れたくは、……ない」 関係の進行に意見を言ってもいいのなら、ハンジはこの関係の継続を望む。例え別れたとして、分隊長と副長の関係性はおそらく変わることはない。仕事上、兵士としては元の関係に戻るだけだ。それがわかっていても、ハンジははっきりと嫌だと思った。 モブリットの見せる面倒くさい独占欲も、知らなかった抱き方の趣向も、唇の這う感触も、時折向けられる熱のこもった視線も何もかも、それが他に向くのかと思ったらものすごく嫌だ。何故だか無性に胸の奥が痛くなる。誰にも渡したくはない。 モブリットは自分の物だ―― 「――あ。ええと……」 ふと浮かんだ言葉に内心でひどく驚いて、ハンジはモブリットから手を離した。 束縛は嫌いだと言っておいて、とんだ独占欲がいつの間にか胸の内に巣くっていたことに愕然とする。 動揺で視線を泳がせたハンジの身体を、不意にモブリットが掻き抱いた。 「うおおっ!?」 「……っはー……良かった……」 およそ抱き締められて出るような声とは程遠い声を出したハンジを、しかしモブリットはしっかり胸に抱き寄せたまま、深く長い息を吐き出した。抱く為に力を篭めているような、脱力した身体をそのままハンジに乗せているような力加減に、ハンジはもぞもぞと両手を動かし、モブリットの背に腕を回した。 「……モ、モブリット?」 無言のままの背中を叩くが返事はない。代わりにまた深い溜息が聞こえる。 しかし今度は安堵とはっきりわかる気配に、ハンジは背中を宥めるようにリズムをつけて軽く叩いた。 そうしてしばらく、ようやくゆっくりと力を解いたモブリットがハンジとの間に隙間を作った。 それからコツリと額を合わせる。だがまだ視線は若干下だ。 「……さっきのは、その、ここ最近本当にお疲れのようでしたから、ゆっくりして欲しかったというのも本当なんです」 「さっきの? ――ああ」 つい数分前のやり取りを思い出したハンジに、モブリットがしろりと半眼を向ける。 「ただ、……一緒に寝るだけと言いますけど、一人用のベッドですよ? 密着して、ゆっくりさせられる自信があるなんて買い被らないでください」 「それは、したくなるってこと?」 「当たり前です。二週間も抱いてない」 ムッとした気分を隠しもしないモブリットは珍しい。 怒っているような拗ねているような態度を見せられたのも初めてで、ハンジは思わずモブリットを凝視してしまった。 よく見れば、そこに若干の衒いもあるのか。 それに気づいた瞬間、身体が勝手に動いていた。 合わせていた額の位置を勝手にずらし、下から滑り込むようにモブリットの唇を奪う。鼻が当たって少し邪魔だな、と思ったから顔の角度も勝手に変えて、モブリットの薄い唇を甘噛みしてからゆっくり離した。 ハンジの行動に、照れや驚きよりも真意を窺うようなモブリットの視線とかち合って、つい苦笑が溢れる。 「……じゃあしようよ。さっき寝たから疲れてないし」 そういえばこんなふうに自分から誘ったのも初めてだな、と気づいたが、したいと思うのだから仕方がない。ハンジを気遣い、ともすればまた自室へ促しそうなモブリットをどうすればその気にさせられるのかはわからないが、もしかして舐めればいいだろうか。それならそれも仕方がない。今ならそれほど嫌ではないような気もしてきた。 「口でする?」 「いりません」 取り急ぎ触れようと伸ばした不穏な動きを察してか、モブリットはハンジの手が行き着く前に捕らえた。 今度はハンジがムッとする番だった。文句の一つも言ってやろうと尖らせた唇を開けたハンジに、モブリットが優しく噛みついた。唇の間に息遣いが甘くとろかすように侵入してくる。ちゅ、ちゅ、とリップ音を響かせながら、少しだけ舌先が触れて離れるを繰り返して、モブリットがまた唇を甘噛んだ。 「……いいんですか」 「ん、……何が?」 つつくような舌先を追って口を開けたハンジに答えて、モブリットが少しだけ唇を深く味わってくる。 それからまた離れて、ハンジの目蓋にキスを落とした。 「いつも、その、最中に戸惑っているように思えたので。……本当はこういう行為自体、あまり好きではないのかと」 「へ? あ、いや、それは――」 「……はい」 居住まいを正したモブリットの唇が離れる。 そのままベッドの上で正座でもしてしまいそうなモブリットの手を取って、ハンジは息を一つ吸い込んだ。 そんなふうに思わせていたとは思わなかった。戸惑っていたのは本当だ。だけど嫌いなわけじゃない。それは、だから―― 「……別に好きでも嫌いでもなかったんだけど、モブリットの抱き方が、なんていうか、その」 「嫌でした? 触り方が気持ち悪いとか」 「ち、違う! 逆!」 気持ち良いから困るのだ。 触られるだけでおかしな声が出そうになるし、それでモブリットが萎えやしないかと唇を噛んで堪えれば、わざとのように攻められる動きは増してくるしでどうしたらいいのかわからなくなる。抱きついて、もっとと足を絡めて、欲しいと言ってもいいんだろうか。 感情の触れ幅が経験則と違いすぎてわからない。 「逆……」 考え込むように眉を寄せた瞳で見つめられて、ハンジは思い切りモブリットのシャツを引き寄せた。 「だからっ! ああいうされ方初めてで――その、触ったり、舐め……う、動かし方も何だかモブリットはやらしいんだよ! びっくりするだろうが! き、き、緊張するって最初に言ったろう!?」 「……あんた、本当、今までどんな……」 「でも嫌じゃない!」 ほとんど怒鳴り声になったハンジに、モブリットの眉間の皺が何故か益々深くなる。 ハンジは一度息を吸い込んで、それから真っ直ぐそんなモブリットの瞳を見つめた。 「気持ちいいって、思ってたよ……」 誤解されたままでいたくはないから正直に言う。が、眉間の皺の深さは消えない。さすがに呆れられてしまったのだろうか。モブリットだって最初はあんなに緊張していたくせに。今ではすっかり慣れた様子なのが悔しいが、そんなハンジの心中を知らないモブリットは、深く長い息をこぼして目を伏せると中指で眉間の皺を解し始めた。 「……呆れた? する気萎えた? やっぱり舐めてみようか?」 「結構です。そういうの無理にしなくていいですから」 「別に無理じゃな――」 「ハンジさん」 またそろりと伸ばした手を掴まれて、モブリットに名前を呼ばれる。 顔を上げると、まだ少し眉間に皺を刻んだままのモブリットはおもむろにハンジのシャツのボタンを外し始めた。 「そんなことより本当にしていいんですか。しますよ」 「……しようって誘ったのはこっちだ。これでやめられたら流石に傷つ――ンッ」 彼のボタンにも同じように手を伸ばしたハンジに、素早く前を肌蹴けさせたモブリットの唇が降りてきた。口調は淡々としていたくせに、細かくキスで啄みながら、早くと急かすようにハンジの手の上からシャツのボタンを示してみせる。 そんな餌づく雛のように啄まれたら見えにくいし外しにくい。 「ちょ、ま、……こらっ、外せないだろ……って、ンッ、モブ」 胸の上に、頬に、目蓋に、唇に。 音を立てて遊ぶようにキスを降らせるモブリットは、抗議の声をまるで無視してハンジの上に体重を乗せた。シャツを掴んだままの背中がベッドに当たる。 ギ、と鳴ったスプリングの音でようやく動きを止めたモブリットが、ハンジの頬に手の甲で触れる。 「やめません。……ハンジさん」 「……うん?」 外し掛けのまま不格好にボタンホールにぶら下がっていたボタンを自分で外して、モブリットはハンジの上で上体を起こした。残りのボタンもあっと言う間に外すと再びハンジの上に戻る。 肌蹴けた分だけ体温を近くに感じて、ついハンジの手がモブリットを押し返すような動きをした。 「嫌じゃないなら、慣れてください」 けれどすかさずその手を取って、モブリットは自分の首へと誘導する。 (慣れる――慣れる、のか? これに?) 自分を見下ろすモブリットの瞳の中に、やはりまだ戸惑ったような自分が見える。だけど嫌じゃない。むしろもっとと思っている。その瞳の中に映るのは、これからもずっと自分がいい。 「ん、……うん。じゃあさ」 ハンジはモブリットの後頭部をくしゃりと梳いて、自分の方へと引き寄せた。 鼻が触れ合う。胸の奥がざわざわとくすぐったい。そこからじわりと広がる熱は、あっと言う間に身体の芯を焚きつけるのを知っている。そしてハンジは、それを嬉しく思っている。 「モブリット」 「はい?」 生真面目に言葉を待っているらしいモブリットに苦笑して、ハンジはゆっくりと目蓋をおろした。 「慣れさせて」 その答えは唇に。それから耳朶に。 鎖骨にどんどん降り注いで、復習のように何度も反復してはハンジに軌跡を教えてくれる。 くすぐったい。 だから、もっとだ。モブリット、もっと。 (……うん、でもこれ、慣れるのは無理だな……) 胸の尖りを含んだままで見上げられた瞳と目が合って、ハンジは素直にそう思ったのだった。 【FIN.】 |