蕾の季節はまだ遠い


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「――という夢を見たんだけどさ」
 
一通りの説明を終えたハンジの前で、面白いくらい目の下に隈を作ったモブリットが顔を上げた。
手元にはメモ用紙が散乱している。あまりに速記過ぎておそらく書いた本人にしか解読は出来なさそうな字を、細めた視線でなぞっては顔を上げを繰り返していたモブリットに、ハンジは真剣な表情を崩さずに言った。

「モブリットってそういう変質的な嗜好あるんだ?」
「……ちょ、っと待ってください? え? 今の、どこから夢でした?」

眉間の皺を揉み解しながら熟考するモブリットに構わず、ハンジも同じように目を細めて、眉間の間に皺を作る。

「だから、巨人にも好みがあるのかって話をしていただろう?」
「それで何で俺があんたの胸を揉んでる話になるんです」
「知らないよ。それは、ほら、……あ〜……確かさっき好みは視覚からか嗅覚からかってところまで話してたろ。その時一瞬意識が飛んだ気がしたんだよ。多分その時に見た夢じゃないかと――」
「あー……してましたね……そういえばあの時一瞬間があったような……?」

モブリットの指がインクの染みたメモ帳をなぞって、更に眉間が寄っていく。
途中で紙ごと持ち上げ顔を近づけ、低く呻いた。それから訝しげに再びハンジへと顔を戻した。

「あんな一瞬でそこまで見たんですか。というか寝てたんですか」
「あー……うん、たぶん? いや、人間ってすごいな」

ともすれば勝手に落ちてしまいそうな目蓋をどうにか止まらせようとしたハンジが、手にしたペンの切っ先を自分の方へと向けかえる。それに気づいたモブリットが、おもむろにハンジの手を取った。

「何してるんですか。危ない」
「眠気に負けそうな己を奮い立たせようかと」

それでもまだ果敢に切っ先を己に向けようと頑ななハンジからペンを取り上げながら、モブリットが溜息を吐く。

「負けてください。これ刺さったらシャレになりませんから」
「ダメだ! 今すごくいい案がここまで出掛ってる気がするんだよ! ここまで! 寝るなんて勿体ない!」
「気のせいです。だからそんなくだらない夢なんて見るんですよ」

喉元を示しながら抵抗を示すハンジは、モブリットの言葉に更に語気を強め始めた。
ムッと眉を寄せたかと思うと、掴まれていた手を振りほどき、ダンッと机を叩いて立ち上がる。勢いのままモブリットの胸倉を掴み上げた。

「くだらなくないだろう!? そうだ、結局どっちなんだよ。モブリットはやっぱり胸を執拗に弄る派か!?」
「やっぱりって何ですか! それはあんたの夢でしょうが!」

掴まれた胸倉の苦しさを自分から立ち上がることで緩和しつつ、モブリットも負けじとハンジに食って掛かった。
何でそんな言い掛かりをつけられなければならないんだという理不尽さで、頭にカッカと血が上る。
だいたい自分達は巨人の話をしていたのではなかったか。次の壁外調査までに、出来れば新しい巨人の捕獲案を練りたいのだ。その為にこうして深夜まで班の仲間達と、ああでもないこうでもないと喧喧囂囂の話し合いをしていたというのに。何がどうしてハンジは夢なんて見だしたのか。
意識を失うほど眠いならまともな話し合いなど出来るものか。そもそも他の皆はどうして何も言わないんだ。彼女の言い分が正しいわけでもあるまいに――

「じゃあモブリットは胸なんてどうでもいいのか!」
「は――はぁ!?」

ふと思考の冷静な部分がモブリットに周囲の様子を気に掛けさせて、しかしハンジの怒声で意識はすっかり元の場所へと戻ってしまった。どうしてそうなる。どうでもいいなんて一言も言っていないじゃないか。
気色ばんだモブリットの胸倉を掴み上げたままのハンジが、勝ち誇ったように口角を上げた。その表情が癪に障る。

「どうせ触らない派だって硬派気取るつもりなんだろう!?」
「触りますけど!」
「触るのかよ! 執拗に!?」
「普通です普通!」

だからどうして人を勝手に変質者にしようとするのか。
看過できない言い掛かりに、モブリットははっきりと本心から異を唱える。執拗な触り方って、むしろどんなだ。
先程ハンジが語った夢物語は、詳細をきちんと書き留めてある。メモを辿れば、一体どこから話の道筋が変わっていたのか、執拗な触り方とはどんなものなのか、ハンジの夢の中で、自分がハンジに何をしたのか、もう一度細部までわかるはずなのだ。
今度こそそれを元に反論しようと、手元に散らばった用紙に視線を送る。と、ハンジは何を思ったのか、モブリットから手を放すと、自分の頭を掻き毟り始めた。

「っああああー!」
「ハ、ハンジさん?」
「何だよ普通って! 君の普通なんか知らないよ! 例えばどんなだよ!」
「だから普通ですって! 普通にこう――」

人が心配したらこれだ。まったく意味がわからない。
ハンジを奇行種と揶揄する人間には、彼女の本質も知らないくせにと心底辟易しているモブリットだったが、今夜ばかりはその気持ちがわからなくもない。苛つきを隠そうともせず大仰な動作で迫るハンジに、モブリットも釣られて両手を動かした。こう、と言いながらその場の空気をまさぐるように指を動かし円を描く。

「んんー……あー……こんな感じ?」

その様子を真剣に見つめていたハンジが、やおら両手を同じように動かし始めた。
小さな机を挟んで並び、互いに前に突き出した手を妙な動きで探り合う。けれどその場にないものをいかにも触っているかのように動かすのは、意外と骨の折れる作業だ。

「わかった! こうだ!」
「全然違います。雑すぎる。もっとこう、下から上に持ち上げるように」
「だからこうだろう?」
「そうじゃなくて、だからこうやって――!」

ハンジの動きでは優しさがないし、何よりただのマッサージだ。
一生懸命モブリットの動きを真似しているらしいハンジの手を片手で取って、モブリットはもう一方の腕を伸ばした。手っ取り早く実演してみせることにする。百聞は一見に如かず、という先達の言葉があるじゃないか。
ふに、と指先に沈む感触に改めてモブリットは指先から掬い上げるように手のひら全体を押し当てた。
それからゆっくりと指の腹で円を描くように揉み込んでいく。

「……思ったよりあるんですね……」

正直な感想を口にすれば、黙ってモブリットの動きを見ていたハンジがムッと唇を尖らす。

「巨乳派か」
「いえ、俺はこのくらいの方が好みで――」
「――オイ」

これにも正直な感想を真面目な顔で言い掛けて、しかしモブリットは聞こえた声に言葉を止めた。
ハンジもきょとんと瞬いて、モブリットを見つめている。
幻聴か。いやでも今はっきりと声が聞こえた。

「おまえら、そのくらいでいい加減止めろ」
「リヴァイ」
「リヴァイ兵長」

姿勢はそのままに振り返ったモブリットと、モブリットの肩越しに後ろを見たらしいハンジの声が完璧に被る。
そこにいたのは、この場で一番眉間に深々と皺を刻み、これでもかというほど冷酷な表情で二人を見遣るリヴァイの姿によく似ていた。彼のその表情は、ここにいる誰よりも小さいはずなのに見下ろされている気分になるのがとても不思議な気分だ。
そんなことを思ってしまったモブリットのすぐ傍で、ハンジがはてと首を傾げた。

「え、なに。これも夢?」
「じゃねえよ。ふざけんな。くだらねえこと言ってないでさっさと部屋に戻れ。寝ろ。昼まで起きてくるな」

リヴァイによく似た男に口早にそう言われて、ハンジはモブリットと目を合わせた。それから片眉を上げて肩を竦める。

「夢だろ。何でここにリヴァイがいるのさ」
「ニファに変な話を聞かせないでほしいとケイジが頼みに来たからだ。部下になんて頼みをさせやがる」

よく似た男がどうして部下の名前を二人も知っているんだ。
モブリットは訝しみながら何度も瞬きを繰り返し、そういえば辺りにその部下達がいないことに気がついた。もしかして本当に彼はリヴァイなのかもしれない。ケイジが呼びに行ったというのなら、自分達はとんだ迷惑をかけてしまったらしい。
迷惑――というのが、具体的にどんなことかまでは今の頭では判然としないが、これがリヴァイ本人なら、彼の言い分を素直に聞いた方がいいだろうということはわかる。
困惑に眉を下げたモブリットへ、リヴァイは腕を組み、顎をしゃくった。

「おいモブリット。てめえまで一緒になって何してやがる」

それはいつものリヴァイの言い方によく似ている。やはり彼は本人なのか。
モブリットは自分に向けられた質問の意味を解そうと、状況を素早くまとめ始めた。
班員達と始めた議論は白熱し、いつしかハンジと二人で今まで巨人捕獲の案を色々練っていた。ここまでははっきりと記憶がある。それからハンジが巨人にも趣味趣向があるのではないかと仮説を立てて――面白い見解だとメモを走らせ、そうして気がつけばいつの間にかここに他の班員達の姿はなく、リヴァイが現れ、モブリットの手は、今、どこで、何を――

「……分隊長の胸を、揉んでいるかもしれません」
「かもじゃねえ。揉んでる」
「それは――大変なことですね」

大人しく揉ませているなら、この場合ハンジも同罪になるのか。どうなんだ。
そもそもこれは罪なのか。罪だとしたら罪状は。
自分の手が置かれている場所は間違いなくハンジの胸の上で、そういえば胸の触り方について言い掛かりをつけられたのではなかたか。潔白を証明するために実践を試みて、ハンジは結局わかってくれたのだったか。
よくわからなくなってきた思考回路に頭を悩ませるモブリットを、リヴァイは憐憫の情を浮かべて見つめ、それからハンジを向かって舌打ちをする。

「……おい、ハンジ。この可哀想な男をさっさとベッドで寝かせてやれ」

このまま放っておいたら、この二人はここで寝落ちることだろう。
それならそれでリヴァイは全く構わない。が、万が一、翌朝ニファがここへ最初に来てしまった暁には、とんでもないものを目にしてしまうことになるだろうと容易に想像がつく状況がここにある。自分の班の副長が、何故だか分隊長の胸を揉んだままというあられもない姿を見せてしまったとあっては、せっかく自分へ助けを請いに来たケイジの信頼を裏切ることになってしまう。それはあまり気分の良いものではなかった。それにケイジの言う通り、年若いニファにこんな薄汚れて爛れて判然としない関係の男女を見せる必要はまだないのだ。だからこれは仕方がない。
理性ある年長者としての、部下を預かる者としての当然の行動であり気遣いだ。
さっさと部屋に戻って寝てしまえ。そうして理性を取り戻せ。

「だって。どうする? 私の部屋のベッドとかシーツ見えないくらい本積んであるけど」
「俺の部屋でしたらベッドは無事ですけど、一つしかありません」
「一つ無事ならとりあえず良いだろ」
「……そうですか? えー……あれ?」

ハンジよりはまだ僅かに理性があったのかモブリットがしきりに頭を捻っているが、その手はまだ胸の上だ。置いている方も置いている方だが、揉ませて良しとしているハンジもハンジだ。いくら理性が半壊して、睡魔の限界に達しているとはいえ、この関係を何と呼ぶべきか。おそらくリヴァイよりも、当の本人達の方はきっとよっぽどわかっていないに違いない。

「………………それでいい。ニファの見えないところに行け。とりあえず寝ろ。目を瞑れ」

そのうち嫌でも気づくのだろう二人の無意識の触れ合いに、リヴァイは面倒臭くなってきた。
胸でも何でも揉みたければ揉んでこいと正直思う。ただしそういうことはおいそれと他人に見えないところでやれ。
大きさが好みで何よりだ。何が普通の触り方かは二人で決めろ。とりあえず眠れ。深く。深く。
身体を引いて、出口までの道をあけてやれば、モブリットがようやくハンジの胸から手を下ろした。代わりに当然のようにハンジに左手を差し出す動作は、まるで慣れ切ったものだった。

「はあ。では分隊長、行きましょうか」
「ああうん。お? 歩いたら急にグラグラしてきたぞ? これかなり眠いな?」

その手にやはり当然のように指を絡めて掴まったハンジは、机を回り、モブリットの背中にドンッと抱き付いた。
重そうに足を前に出し、立ち止っては唸り、またモブリットに凭れ掛かるようにしては動きを止めて眠い眠いと繰り返している。

「部屋まで頑張ってください。ほら、ちゃんと掴まって」
「あ〜……ねっむい……モブリット、これねっむい……」
「もう少しだけ頑張りましょうって。頭付けたら歩きにくいじゃないですかも〜。ちゃんと手を繋いで」
「んんー……モブリット、あったかいね……」

手を繋ぎ、時折ハンジが頭をぐりぐりとモブリットの背中や腕に甘えたように擦り付けながら、二人の姿が廊下の向こうへと消えていく。

「……三徹過ぎたらあいつも大分意味わかんねえな」

明日になったらスッキリした頭の中に、どれだけの記憶が残っているのだろう。特にモブリットは腕の中にハンジを見つけどんな気分になるのだろうか。リヴァイは二人の背中を見送りながら、悲鳴を飲み込む彼の様子を思い浮かべ、それからふと残された部屋の様子に眉を顰めた。思わずチッと舌打ちが漏れる。白み始めた窓の外の薄明りを受けた室内は、議論の跡が色濃く残され、机と床に散らばったメモ書きにはモブリットの筆跡で大量の文言が書かれていた。おそらくは巨人に対しての見解や案の何かなのだろう。

「仕方ねぇな」

後数時間でやってくるだろうハンジ班の面々の負担を、これくらい軽くしてやるのは吝かではない。
拾い上げ何とはなしに字面を追う。所々インクがはねて染みがあり、いつもわかりやすい字を書いているはずのモブリットの字とは思えないほど乱暴な筆致で、内容はほとんどわからなかった。

「『熟考中』、これは『直接』、か……? 何だこりゃあ……」

順番もよくわからないそれらを解読するのは早々に諦め、リヴァイは適当にひとまとめにしたそれの上に重石を置いた。
酷い字には違いないが、ニファならどうにか解読して、遅く起き出して来た上官達に渡してくれるだろう。
自分の仕事はここまでだ。
最後に飲みかけの紅茶が入ったマグカップを二つ手にして、リヴァイは研究室を後にしたのだった。


【Fin.】


まさかの二人とも頭パーンなモブハンの夢落ち話でした。こんなデキてないモブハンもいいと思う!
そして後で解読を任せられたニファが、きっとものすごく冷たい視線を(モブリットにだけ)向ければいいと思う!!笑