年上の彼女がたまに甘やかしてきて困る



(――あ)

夜の食堂で、食事を終えてもつい久し振りに仲間達と語らっていた俺は、周囲の微妙な空気の変化に気がついた。

(会議終わったのか)

視界の端で様子をさっと様子を窺えば、食堂の入り口に調査兵団でおなじみとなった上官達の姿があった。
エルヴィン団長、リヴァイ兵士長、そしてハンジ分隊長。
ほとんど終業後の時間に設けられた会議はおそらく紛糾するだろうと、出掛けにハンジさんは予想していた。議題の内容はハンジ班が提案した新しい索敵方法と、それに随する有効な捕獲案の可否で、そうなるだろうと誰もがわかるものだった。いつもなら流れで食事を共にして、そのまま次の打ち合わせに入ることも少なくない。そうこうしている内に時間は経ち、自室まで送り、就寝の挨拶に変えて別れるまでがルーティンワークだ。

だが別に、就寝の挨拶は副長としても部下としても、義務じゃない。
ただいつの頃からかなんとなく、自分の中の習慣になっていただけだった。
それが副官の範疇から越えていることには気づいていたし、周りもほとんどわかっていた。それでもむしろ「頼むな」などと肩を叩かれるようになっていったのは、ひとえに彼女の普段の行いのせいという意味合いが強いことも知っている。
けれども周囲が勝手に持たせた意味合いなど、俺にとってはどうということもなかった。
彼女と俺との関係は、言葉も行為も感情も、すべて俺達だけの問題であって、他人にとやかく言われる筋合いのものではないからだ。
突拍子もない言動にいちいち翻弄されることも、本気で怒鳴り合うことも、羽交い締めで巨人から距離を取らせたり、無理矢理ベッドへ押し込んだり、確かめ合うように触れ合うことも、全てわかっていてやっている。
何であんなのがいいんだ、とはその昔兵士長を任命される前のリヴァイさんから言われた言葉だったが、あんなのだからですよと答えた時に返された、苦虫を一生分詰め込まれたような彼の顔は、きっと自分だけが知っている。

「お、モブリット。待ち人来たりてじゃないか」
「別に待ってないよ」

食堂で久し振りに一緒になった友人のハウザーが、そう言いながら顎で彼女達の方をしゃくって見せた。元々何の約束もしていないとわかっているだろうに、これは完全に揶揄されている。
入団当初から見ればだいぶ減ったとはいえ、同期とこうして他愛ない時間がもてるのは幸運なことだとわかる――が、あまりいただけない内容は、どんな場合でもいただけない。
素気無く返して手を振った俺に、今度は向かいに座っているルドルフが意味ありげに口角を上げた。

「行かなくていいのか? 何だかんだで待ってたんだろ?」
「だから別にそういうわけじゃないって。幹部会議後なんだ。それなりの話もあるだろうし」

ハンジさんからも直々に「先に休んでていいよ」と言われていた。結果は明日とも。
それに本当に緊急を要する内容があれば、彼女は時間を気にせず俺を叩き起こしにくるだろうこともわかっている。
夜の会議後はそれこそ本当に時間の目途がつけにくく、そういう場合は翌朝まで顔を合わせないことだって今までに何度もあったし。
今夜のように終了したとはっきりとわかる時は、後で挨拶に向かう。ただそれだけだ。
そもそも呼ばれてもいないのにこの状況でいちいち挨拶に行くだなんて、邪魔立てにも程があるだろう。
そんなことくらいわかっているだろうに、ハウザーとは逆隣りに座っていたポートマンが俺の肩をぐいっと乱暴に抱き寄せた。

「忠犬らしく挨拶してくればいいじゃん」
「……誰が犬だ。噛みついてやろうか」
「キャー! モブリット、強引ー!」
「やーめーろー!」
「わんわんわん!」

まるで訓練兵団時代に戻ったような応酬になる。
時間外で半分休憩室と化しているからこそ許される少し度の越えた馬鹿騒ぎは、けれど上官の誰に見咎められることもない。つい先日終えた壁外調査の生還を謳歌しているのだと思えば、多少の羽目は外すことを許されるのも調査兵団の良いところだ。
おふざけでぐしゃぐしゃと乱された髪を笑いながら戻す俺に、ルドルフが可笑しそうに肩を揺らしてにんまりと笑う。

「でもよ、こういう時、目配せくらいすんのかと思ったけど、お前と分隊長ってそういうの意外とないのな」
「何を期待してたのか知らないけど、何で今更そんな思春期の小説みたいなシーンを再現しないといけないんだ」
「上官と部下の禁断の関係ってそういうのないか?」
「あるある!」

今更すぎる質問に答えようとした俺の横から、肩をぶつけるようにしてポートマンが手を挙げた。
どうしてお前が堂々と肯定してるんだ。

「何でだよ。というか別に禁断じゃない」
「おーおー! ノロケか!?」
「……酔ってるのか?」

今度は首に腕を回されて頬擦りまでされてしまった。
馬鹿力が自慢の彼の腕を、ギリギリと手首を捻り上げて解放させる。髭面の男に抱き寄せられて嬉しがる趣味はなかったはずだ。そっちの意味で好意を持ったというのなら悪いがはっきり言わなきゃならない。
冷ややかな視線を向ければ、悪びれた様子もなく笑った彼は「いや、でもさあ」と可笑しそうに机を一つ叩いた。

「マジ、あのお前がまさかなあって駐屯兵団に行った同期ともたまに酒の肴にしてるんだぜ」
「話題料取るぞ。俺のことはいいから、ハウザーの恋人の件はどうなったんだよ。この前リラと結婚を考えてるって言ってたろ?」
「あ、モブリットよせ――」

話題の転換に、ルドルフがいきなり横手から俺の口を塞ぎにかかる。が、時既に遅し。
ダンッ、と音を立てて水の入ったグラスを置いたハウザーがゆっくりと身を乗り出した。

「リラと結婚を考えてるのは俺だけじゃなかったし、先を越されたし、てめえが順風満帆だからって、人様の傷口に貴重な塩を塗り込んできてんじゃねえよ。キスしてやろうか副長様よぉ」
「………………悪い」

付き合って結構長かったんじゃなかったか。ハウザーはそれこそリラにぞっこんだったところまでしか生憎存じ上げていなかった。まさかそんなことになっていたとは。
胸ぐらを掴まれたままで両手を上げて謝意を示す。が、「んー、マッ!」とわざと大声を上げて頬に熱いキスを送られてしまった。
嬉しくない唇の感触をゴシゴシ擦る俺にポートマン達の爆笑が重なって、本当に訓練兵時代の馬鹿騒ぎのようになる。
流石にうるさすぎただろうかと視界の端でハンジさんの様子を窺ってみたが、別段こちらを気にする素振りはないようだ。一心不乱にパンを頬張っている姿に、隣に座った団長が微笑を向けていた。まるで父親か兄のような親しげな雰囲気は、現場ではなかなかお目にかかれない。
ここからでは後ろ姿しか見えない兵長の表情は見えないが、彼はきっといつもどおりだろうと察していると、笑いの収まったらしいルドルフが「そういえば」と俺にフォークを向けた。

「お前も付き合って長いよな」
「……まあ」

正式に、ということであれば実はそう長くもないが、略式に、ということを含めれば関係は確かに長い。それこそリヴァイ兵長が地下街からやってくる前からの付き合いになる。
曖昧に頷いた俺にルドルフはフォークの先を上下に振ってみせた。

「そういうのないの? 倦怠期危機的な」
「いや別に」

特にない。というか倦怠期を感じるほど変化のない時代じゃないし、そもそもあの人に倦怠ってあるんだろうか。黙っていても飽きることのない彼女の表情や行動や、そういう一つ一つを考えてみても、倦怠という言葉は全く結びついてこない。
ポートマンが感心したように相槌をくれた。

「へー。じゃあアレは? いわゆる修羅場みたいなの」
「毎日がある意味修羅場だからな」
「あー……じゃねえよ。煙に撒こうったってそうはいかねえぞ!」
「よしよし。ハウザー、もう寝ろ」

テーブルに乗せていた俺の腕を掴み、ガクガクと揺さぶりにかけてきたハウザーの手からどうにか抜ける。こぼされないようカップを避ける俺を、傷心のハウザーが忌々しげに睨んでくる。もちろん本気ではないとわかっている仲間達が、揶揄半分で間を取りなすように割って入った。

「まあまあ。モブリット達じゃあそんなんないだろよ。そもそも相手が相手だぞ。リラみたいに男受けする感じじゃないだろ。な?」
「……おまえな」

ちょっとそれは聞き捨てならない。
俺はリラを一般的に可愛い類だと認識こそすれ、ハンジさんよりいいと思ったことは一度もないが。同期の気安さでついうっかり剣呑な声を乗せた俺にいち早く気づいたルドルフが、バシッと痛いくらいに背中を叩いた。

「いや、でも! 俺はあの人って兵長とどうにかなると思ってたことあったぞ!」
「は?」

取りなしたつもりか、とんだ見解を放ってきた。
ルドルフの言葉にハウザーもそういえばというように拳を打つ。

「ああ、そんな噂あったよな。とうとうモブリットも終わりかー的な」
「……そんな噂いつあったんだ」

――噂。そんな噂があったのか。俺はまるで知らなかった。
彼が地下街から団長――当時は分隊長だったけけれど――に連れられてやってきた当初、謎に包まれた生い立ちや信じられないくらい洗練された立体機動の技術に誰もが度肝を抜かれていたのは覚えている。かくいう俺自身もそうだった。
その当時、近寄るなと前後左右に立て看板を持ち歩いているような彼に、猪突猛進を絵に描いたようなアプローチをかけていたハンジさんなら覚えている。そんな彼女を後目に、酒の差し入れと共に最初に身体測定をさせてもらった達成感といったらなかった。後でどれだけ抜け駆けだと詰られたことか。
だけど彼らの間にそれ以上のものを感じたことはなかったし、そんな心配をした覚えもない。
当時の状況からも考えつかない方向の噂に首を捻っていると、ポートマンがすっと遠慮気味に手を挙げる。

「……俺はミケ分隊長とかと思った時期があった」

いやいやいや。待て待て待て。
思わぬどころか空から槍くらいの伏兵すぎる名前の出現に目を見張る。
さすがにハウザーが呆れたように眉を寄せた。

「それはねえだろ。ミケさんにはナナバさんいるじゃん」
「いや、モブリットがミケ分隊長と」
「ぶはははは! お前、バッカ! 何でだよー!」

全力でハウザーに同意する。馬鹿か。馬鹿だろう。知っていたよポートマン。お前が心底馬鹿だって。思わずスパンと平手で頭を殴った俺に腹を抱えて爆笑しながら、けれどもハウザーはまた予想もしなかった名前を口にした。

「俺は最初、エルヴィン分隊長とデキてたかと思ってたけどな」
「モブリットが?」

真剣な顔で問うポートマンに、また涙を拭いながらハウザーが答える。

「違う違う。ハンジさんが」
「……はあ?」

どこをどう見たらそんな邪推が出来るんだ。
エルヴィン団長とハンジさんが? まさか。それならむしろニファやペトラとの関係の方が、万が一を疑えるレベルだろう。
疑問だらけの会話に入れない俺の前で、けれどルドルフは納得したように何度も深く頷いている。

「それな。なんつーか、若い時の大人の手ほどきみたいなやつだろ? それはそれで……イイ!」
「お前さ、今絶対アンネで想像してただろ!」
「アンネはさー、いい女だよねー」

ポートマンが笑って、便乗したハウザーもルドルフのカップに水差しから酒のように水を注いで笑っている。俺だけが頭に疑問符をまき散らして置き去りのようになってしまった。
ハンジさんにそんな噂が立っていたなんて、俺の耳には全く入っていなかった。そもそも彼女がそういう噂のただ中にいたことにも正直とても驚いている自分がいる。

(ハンジさんが、誰かと――?)

火のないところに煙は立たない――というが、それは嘘だとも経験上知っている。何故なら煙を立てて路地に火を熾すことなど、誰にも、いつだって出来るからだ。
実際彼女に煙りも火も感じたことは欠片もないと断言できる。そもそもそういうくだらない駆け引きは俺達の間でもっとも不要なものだと知っているし、疑問があったなら聞けばいい。男女の機微という点で情緒に欠けると言われるかもしれないが、当人同士の問題だ。他人にどうこう言われる筋合いはないし、他人がどう思おうが関係ない。

「で、実際そこんとこどうなの?」
「はあ?」

さっきから馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉を繰り返してしまった俺の態度をどう思ったのか、ルドルフが盛大に俺の背中を何度も叩いた。

「――いっ!?」
「結局モブリットが持ってってるってことは、まあ、数多の試練を乗り越えたってことだよなあ。よ、地味めの男前!」

なんだそれは。褒めてるのか貶してるのか微妙な掛け声には苦笑するしかない。けれどもそれより気になる言葉に、背中を叩かれ前傾になった姿勢のまま、俺はそっと視線だけで彼女の方を盗み見た。
数多の、試練?

視線の先で、リヴァイ兵長が立ち上がりかけ、何かに阻害されたようにバランスを崩した。珍しい。フォークを振りながら唇を尖らせているハンジさんが身を乗り出して、何事か文句を言っているようだ。
と思ったら、突然悶絶するように肩を跳ねさせ兵長を睨む。

(……蹴られたな)

足癖の悪い二人のよくある応酬だ。
特に彼女は向かい合わせで座っている時の息抜きとして、かなりの頻度で足に悪戯をしかけてくる。応じたら最後、顔に出したら負けとばかりに攻防が続き、エルヴィン団長に「……絡まったのかな?」と微笑されたのは俺の黒歴史の一頁でもある。
そのくらいすぐに思い至ってしまうほどいつものたったそれだけの行為が、けれど何故か今日は流せない自分に、俺ははてと首を傾げた。

「でさ、巨人の背後から跳躍するとき、近くにアンカーを刺せる領域がない時って――」

ポートマンの声に意識を戻して自分の見解を述べながら、周囲の静かな気配の動きで彼らが席を立ったのだとわかった。たぶんこのまま彼女も自室に戻るんだろう。もしかしたら今日の会議内容をまとめ出したりするかもしれない。
就寝の挨拶と簡単な内容の確認をして、後は明日にしましょうと促す自分を想像する。俺は何とはなしに彼らの後ろ姿に視線をやって、一瞬思考が停止した。

「――」

エルヴィン団長が彼女の髪に触れていた。
それは一瞬のことで、そのまま三人は食堂の外に出ていってしまっただけだけれど、腹の底からもやもやとした気分が急速に冷えた感情を伴って頭の芯を凍らせる。

「ああ、なるほど! じゃあ次回の調査で――……って、モブリット?」
「どうした?」
「おい、モブリット?」

突然押し黙ってしまった俺を、三人が三様に覗き込む。
俺はゆっくりと三人の顔を見回した。

「………………え、あ、悪い。寝てた」

お疲れだな、もうこんな時間かよ、などと口々に言って男の会は簡単に捌ける運びとなった。久し振りにゆっくり喋っていたというのに申し訳ないことをした。次の壁外で生還できたら、今度は酒でも奢ろうと思う。
俺がこれから彼女の元へ挨拶に行くつもりだろうことなど百も承知の彼らから「無理するなよ」「今日は寝とけよ」「分隊長によろしく」と別れの檄を飛ばされて、片手を上げてそれに答える。
けれども妙な気分と共に重くなっている足を引きずるようにして彼女の自室へと足を向けかけ、俺は自室へと踵を返したのだった。


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