年上の彼女がたまに甘やかしてきて困る




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自室に響くノックの音に、一回目から気づいてはいた。
けれどベッドに仰向けに沈めた身体が動くことを拒否している。
ちらりと目の端で時計を見遣り、こんな時間にこの部屋を訪れるのは酔ったゲルガーか彼女くらいだと溜息が溢れた。

(あー……)

つい数時間前に交わした会話が頭の中をぐるぐる回る。
兵長と、団長と、それに何だったか。ああそうだ。大人の手ほどき。

(……くだらない)

思わず浮かんだ悪態は本音だ。
そんなことを考えたことは一度だってないし、今だって別にそれを疑う気は欠片もない。そもそも手ほどきをしたのは――……違う、そういうことじゃなく。
単純にそんな噂があったことに驚いたのだ。それに、そう思われていたという事実で自分自身でも驚くほど腹の底の方からずぶずぶと汚い感情が沸き上がっている自覚があった。
それは友人達と別れてから、いや、その少し前。彼女の髪に一瞬触れた団長の手を見てしまった瞬間から、じわじわと胸の内に巣くっている。
ハンジさんのせいじゃない。俺自身の器の小ささが問題なだけだ。

正直とても驚いている。
彼女とは何年一緒に過ごしてきたと思っているんだ。
ときめきも好いた惚れたも甘酸っぱい青春も、全部当たり前のように積み重ねて、折り重なって、今はただなだらかなものだと思っていたのに。まさかこんな感情が、今更思い起こされるなんて考えてもみなかった。

コンコン、コンコン、コンコンコンコン――

一向に止む気配のないノックの音に、ああもうこれは完全に彼女だろうと確信して、俺は重い腰を上げドアを開けた。
案の定そこにいたのはハンジさんで、彼女は俺を見るなりホッとしたような顔をした。

「モブリットが来ないから、どうしたのかと思ったんじゃないか」

向けられる笑顔が今はちょっと胸に痛い。
当然のように部屋へ入ろうとした彼女を思わず止めるようなことを言ってしまった俺を、心配そうなアンバーの瞳が真っ直ぐに見つめてきた。

「戻った方がいい?」
「………………いいえ。どうぞ」
「うん?」

身体をずらして迎え入れれば、椅子の他に座れる唯一のベッドへさっさと腰を下ろしたハンジさんは、勝手知ったると言った動作に迷いはなかった。そんな行動にだって今まで何も思ったことなどなかったのに、さっきの噂を聞いてしまった身としては、ほら見たことかと無性に叫びたいような気になって、あまりに子供臭い自己顕示欲に辟易とする。
昨日今日の付き合いじゃないのにどうして今更と思う気持ちと、自分でも驚く狭量さを彼女がどう思うだろうかという懸念で、ハンジさんの顔を何だかまともに見られない。
この考えが馬鹿なことだとわかっているから余計に。
どこにでもあるこんなくだらない噂話に翻弄されるような関係じゃない。

「何かあった? それとも私が何かした?」

あまりに突っ立ったままだった俺に、ハンジさんが怪訝そうな顔をした。
違う。彼女は何も悪くない。
通常業務の後に会議をこなし、こんな時間にわざわざ心配をかけさせてしまったことに慌てて顔を上げ、けれども真偽を質そうとするかのようなアンバーの瞳から、俺はそっと視線を外した。
純粋に気にかけてくれているらしい彼女を前に、不純な動機を抱えているなんてはっきり言ってばつが悪い。

「モブリット」

けれどその途端硬質な声で名前を呼ばれ、俺は久し振りに教官に叱られた訓練兵に戻った気分で顔を顰めた。
しまった。言葉で言わないまでも、十分態度に出し過ぎた。
聡い彼女にはっきり違和感を抱かれてしまったらしい。
こうなったら無駄な誤魔化しで逃してくれる彼女じゃない。
だからといって正直な告白は、呆れられるの一択だ。

「ん」

鋭い追求を予想して身構えた俺に、けれどもハンジさんは短い合図だけを送ってきた。自分の隣をポン、と叩く気の置けなさに、釈明もそこそこに抱きしめたい気持ちになる。が、いくらなんでも身勝手がすぎる。
まごついている俺をもう一度隣を叩くことで促したハンジさんは、そんなことなど思いもしていないんだろう。

「……失礼します」
「ここ君の部屋だろう。何に失礼してんだよ」

自制のために一人分空けて座ったというのに、この人はすかさず間を詰めてきた。
人の気も知らないで。
あなたの隣の男が今夜の食堂で聞いた他愛ない噂話から嫉妬にまみれているとも知らないで。
体温の近さに、久し振りの夜の空気に、馬鹿な男が考えることなんて有益なことなんて何もないのに。

「本当に嫌だった? それならごめん」

まるで気遣うような声音でそう言って追及の手を緩めてくれる優しささえも自分のものだと言いたくなるなんて、本当になんて馬鹿なんだろう。

「今日はもう戻――」
「違います」

流石に呆れたのか、ハンジさんが俺の隣から立ち上がるのを、強引に抱き寄せてはっきりと拒んだ。無理矢理バランスを崩されたせいで居心地の悪いらしい身体をもぞもぞと動かして、ハンジさんが不満げな顔を上げる。

「嫌じゃないなら何なの。考えごとって何?」
「それは……」

そのまま身を乗り出して唇のつきそうな距離で迫るハンジさんから容赦がなくなる。しまった。それはそうなるよな、と頭の片隅が自分の行動を採点する。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
ハンジさんが更に身を乗り出してくる。

「それは?」

巨人の考察をしている時と同じようでいて、その実まるで違う追及は、彼女の瞳ですぐにわかった。煮えきらない俺の態度にムッと眉根を寄せつつも、窺うような視線は俺に逃げ道をくれようとする甘さが垣間見えるのだ。
彼女は厳しく、真っ直ぐで、高潔で、誰をと言わず優しいけれど、甘やかす相手はそういない。それがわかっているからこそのこみ上げてきたどうにもならない感情に押されて、ついその唇を掬い上げるようにして奪ってしまった。

「……………はあ?」

第一声はさもありなんだ。
自分でも感情に任せてしまったのでよくわからない行動だった。
いうなれば、こんな意味不明な態度でも逃げ出さないあなたを確信したかったということかもしれない。まるで子供だ。わざとつれないことをして、誰かの愛情を確かめるなんて。
言い訳に混ぜて食堂で指摘された話をそっと嘯いてみると、ハンジさんは更にポカンと口を開けて「は?」と短く聞き返してきた。
変に慌てるでもなければ、不快だと眉を顰めることもない。
それだけ寝耳に水の話だったことは想像に難くない。
俺だって本当にそうだった。

「ぶっは! あの二人と何するんだよ!」

経緯を簡略に教えれば、ハンジさんは身体をくの字に折り曲げるようにして笑い始めた。目尻に溜まった涙を眼鏡を上にずらして拭っている。相当ツボに入ったらしい。
そんな彼女を見ていたら、段々馬鹿らしくなってきた。
そもそも馬鹿げた話だった。わかっているのに、今更何をそんなに深く考えてしまったんだろう。内心で自分に嗤って「本当ですね」と口を開きかけた時だった。

「お? 何? 嫉妬?」

くっくっ、と咽喉の奥を震わせながら覗き込んで言われたその言葉に、俺ははっきりとした苛立ちを感じた。ハンジさんにでは勿論ない。図星をつかれた自分のあまりの気持ちの狭さに。

「そこまでおもしろいと思えるほど心が広くなくてすみません」
「……え? マジで?」

珍しく俺の態度に戸惑っているらしい彼女が、シャツの上から腕をつついたり引っ張ったり。けれどそれに返す余裕が足りない。そうだ。俺はこのくだらない噂に嫉妬したのだ。露ほども考えたことのない関係を勝手に周囲に勘繰られて、この人の相手は俺だろうにと思ってしまった。
束縛を嫌う者同士で、最悪の独占欲が顔を覗かせた瞬間に立ち会ってしまったようなものだ。

「いやいや。え? 普通に考えてないだろ」

知ってます。そもそも考えたこともなかった。
けれどもあなた達のことをそう深く知らない関係の者が見たら、親しい中に見えなくもなかったと知ってから見たその距離に、邪推してしまった自分がちょっと信じられない。

「じゃあモブリットは、私が彼らとどうにかなっていてほしかったって?」

そんなわけないでしょう。そんなわけあるか。
言われた言葉に思わず呆然としてしまった俺を、ハンジさんは「感じ悪い」とぴしゃりと一言ではねつけた。

「――すみませんね」

ああ。しまった。
そのとおりなのに、完全に声音が硬くなった。
自分のあまりの子供臭さに嫌気がさして、これが兵長なら舌打ちのひとつでもしているところだ。
そろそろさすがのハンジさんも、呆れるなり怒るなりする頃だろう。
嫉妬を認めてしまった俺は、今、自分でも驚くほど子供じみた態度をとってしまっているのがわかる。ただでさえくだらない話題に端を発してのこの状況。今夜は修復が難しい。
逃げの選択は好ましくないと昔はさんざん言われていたが、エルヴィン団長の考案した長距離索敵陣形はきちんと成果を上げているじゃないか。これは逃げではない。これ以上無様な態度を彼女に晒して、本当に噂が真実味を帯びてしまわないように、いわば戦略的撤退だ。

「おっ、ちょっ、と、待った!」

けれども立ち上がりかけた俺の腕を、ハンジさんは強く引いて押し留めた。
仕方なしにベッドの縁に浅めに腰を落ち着け直せば、俺の態度に何を思ったのか、ハンジさんは不審そうに眉を寄せながら、それでも真剣な口調で語り始める。


「あのさあ。もしもエルヴィンに近づくなって言われたとして、何か作戦上でやらかしたかなって真剣に考えるし、リヴァイに言われたんなら、ああはいそうですかひっどいなーってなるけど、モブリットに言われたら結構本気で何でって思うし、実は結構傷つくよ?」

ああ、くそ。甘やかされている。
情けないのに嬉しいような気持ちが綯い交ぜになって、どんな顔をしていいのかわからない。
ものすごく情けない俺の態度を、ハンジさんが譲歩してくれているのをひしひしと感じる。駄目だ。どこかで挽回しないと。そう思うのに、今彼女と目を合わせてしまったらまた勝手にキスの一つもしでかしそうで、見ることすら抵抗を覚える。

「君には近づかせてほしいって、私が思っているんだけど」
「……」

また甘やかしてくれた。
それもまた彼女の本心だとわかっているつもりなのに、それとは別の感情がくすぶってしまっているせいで、素直になるのが難しい。自分自身への失望と羞恥で彼女の顔が見られない。
と、ハンジさんが、ギ、とベッドを軋ませて立ち上がった。
ああ、やっぱり。呆れられた。当たり前だ。思春期の子供でもあるまいに、いつまでもこんな態度を取っている部下も男も必要ない。

「近づいたらダメ?」
「――」

けれど、行ってしまうとばかり思っていた彼女は、不意に俺の前へと回り込んだ。身を屈めて覗き込まれて、思わず顔を逸らしてしまった。今夜の自分はどうかしている。
珍しいくらいの彼女の譲歩に感謝するどころか、これではただの駄々っ子だ。
眉根を寄せる俺に、ハンジさんのため息が聞こえる。

「失礼するよー」
「ちょっ」

そのままおもむろに膝に乗り上げてきたハンジさんは、俺の首に腕を回して額をつけた。
その距離で、彼女がじっとこちらを見つめる。
明るいアンバーの瞳の中に、無様に拗ねた男の姿が映っていた。だからそっと目蓋を伏せる。

「近づいたらダメなの何で?」

そんなの決まっている。情けない自分を見られたくないからだ。
あまりにもくだらない、けれど確かに内包していた意地汚い部分が露出してしまっているからだ。
あなたが俺を甘やかしていると気づいているのに、もっとと望む小狡い自分を引っ込めるタイミングがまるでわからなくなっている。
クールダウンをしなければ、もっと情けない姿をあなたに晒してしまうだろう。だから。

「退いてください」
「やだね!」

けれども言うなりハンジさんは俺の唇にかみつくようなキスをした。
驚く俺に、ふふんと笑うような仕草を見せて、もう一度。

「こんなこと、君としかしてない」

そう言って、反対側に首を傾げて啄むようなキスをまた。
知っている。疑ったことなんて一度もない。
それなのに彼女の口で言わせた言葉に、満足している器の小さい俺がいる。
そんな俺の狭量さにも気づいているだろうハンジさんは、けれども何度も小さなキスをくれ、それから甘えるように鼻を頬へと擦り寄せた。

「モブリットも、してよ」
「――っ」

何なんだ。もう、本当に、どうしてこんなにずるいんだ。
せっかく自制していたギリギリの理性がぶつりと切れて、腕が勝手に彼女をぎゅうぎゅうと抱き寄せる。

「わっ」

驚く声も、胸に置かれて突っぱねる手にも気づいていないふりをする。
ほとんど力尽くで拘束して、髪を撫で、首筋に鼻を埋めて鼻腔いっぱいに彼女の香りを吸い込んで。
跳ねる動きを追うように、何度も首筋を甘噛めば、ハンジさんは待ってとでも言うかのように俺の愛撫に小さく首を振った。
無理です。今は。馬鹿な男を甘やかしたあなたが悪い。
せっかく冷静さを取り戻そうとしていたのに。

「モ、……リット、もっと、」
「――くっそ」

どこまで甘やかすつもりなんだ。困る。嬉しい。それよりも悔しい。
耳に歯を立てられて囁かれた声に笑いは含まれていない。むしろ甘い懇願に聞こえてしまって一層強く抱きしめれば、ハンジさんが思い切り体重を預けてきた。

「モブリット」

勢いでベッドに押し倒される。

「ハン――」
「距離、足りないってば」

口を開けたままで降ってきた唇にいつもより激しく責められて、彼女がそうしたいと思う相手は自分なのだとやけにはっきりと自覚する。こんな彼女を知らない誰かに教えてやる必要はない。
だけど、あまりにくだらない噂を提供するのが癪に障るのも事実なのだと気づいてしまったのはどうしようもない事実でもある。

「………………跡、つけていいですか」
「ぶっ」

息継ぎの合間をついて反転させた彼女を組み敷いた俺に、ハンジさんは涙に濡れた瞳を瞬いて、思い切り噴き出してくれたのだった。


【END.】


前回のハンジさん話のモブリット視点ver.です。
むしろガップリ首を噛まれて「ルドルフ達にこれ見せるといいよ」とか言われるといいです。