どうか悔いなき選択を 「俺、あなたのことが好きです」 「お? どうしたの改まって。私もエレンのこと好きだよ!」 ぱちりと大きく目を瞬いて、次の瞬間ニカッという擬音が聞こえてきそうな笑顔で迫ってきたハンジに、エレンは盛大にため息を吐きたい衝動に駆られた。 やっぱりだ。 予想と寸分違わぬハンジの態度に、無意識に握り締めていた拳にグッと力を込める。 そう、予想通り。だから慌てることも苛立つこともないはずだ。こうして気持ちを伝える時期も、場所も、言い方も、何度もシミュレーションを繰り返した。それこそまだエルヴィンには及ばないものの、参謀の片鱗を見せ始めている親友のアルミンに頼み込んでまで、綿密な計画を練ってもらったのだ。 満を持しての今なのだ。こんなに簡単に失敗するわけにいくか。 「ハンジさん」 「うん?」 だから、二度目はもっと真剣に。 目を見て、表情は崩さずに。 この会話の帰結がどこに向かうのかと興味津々なハンジの様子は、まるで告白された直後の人間とは思えない。それは自分が子供だからだろうかとエレンは冷静に考えてみる。そうかもしれない。訓練を終えたとはいえ、自分はたかだか十六歳になったばかりだ。巨人になれるという特性がなければハンジの視界の隅に留まることもなかったはずだ。 だけど今、彼女はエレンを認識している。そして次の言葉を待ってもいる。 それから――こちらの様子を僅かに心配そうな色を交えて黙して見つめている彼も。 周囲の状況を見極めて、エレンは素早く行動を起こした。 「おおっ?」 目の前に迫るハンジの肩に手を掛ける。驚きよりも好奇心を湛えた声をあげたハンジの後ろで、彼の気配も動いた。 けれどもそちらを見てはいけない。この計画が全て無駄になってしまうからだ。 だからエレンは、ほとんど無表情で殺気すら放っているように思える彼女の背後を敢えて無視して、まだ自分より背の高いハンジを下から掬うように真っ直ぐ見つめた。 「好きです。俺と付き合ってください」 「ははは! 何言ってるの。今日の実験そんなにキツかっ、た……………………って、え? マジで?」 「マジです」 「え?」 やっと言わんとしていることが通じたらしい。ハンジの表情が笑った顔からビシリと音を立てて固まった。 実験の時の動きすぎる表情とも、その他の場面では思いの外寡黙な彼女の普段とも違う。 それは少し予想外な態度だった。 「あの、ハンジさん? 聞いてます?」 「きっ、ききききき聞いてるよっ!!?」 心配になったエレンがそっと顔を覗き込めば、ハンジは弾かれたようにエレンの前から後ろに飛んだ。 驚くほどの跳躍力だ。これだけの俊敏さがあるのに、生体実験の度に後ろから更なる俊敏さでハンジの安全を守る彼は何なんだと見てしまいそうになって、どうにか堪える。 「ええと!? うん!?? エ、エレンは私のことが好きなのかな!?」 「そうです」 「愛しちゃってるのかな!?」 「……愛しちゃってます」 「ほう!? 悪くない!!」 本当に大丈夫だろうか。 言いながら、更にじりじりと後ろに進むハンジとの距離が開いていく。 この人が巨人のこと意外でこんなに動揺することがあるとはさすがに思わなかった。頬どころか顔全体が真っ赤で今にも溢れてしまいそうだ。 こんな顔――表情をする人物を、エレンはどこかで見たことがあった。 ハンジのような鷲鼻でもなく、身長だって高くもなく、髪の色だって太陽の光でいつも輝いて見えたその顔を。 「……あの、ハンジさ」 「エレン」 無意識に記憶を思い起こしながら前へ踏み出したエレンは、ここにきて初めて口を開いた男の声で我に返った。 後退していたハンジの肩が、少し離れて立っていたはずの彼に当たって止まっている。 「モブリットさん」 「モブリット! ああああああれ? 君いつからいたっけ?!」 身体と両腕でハンジを支える格好のモブリットに、そのまま頭を思い切り預けて聞く彼女の顔は赤いままだ。 ハンジより少し身長の高い彼は、真っ直ぐに向けられる距離の近さにか僅かに首を傾げて、ほんの少し眉を下げた。 「あなたがエレンに告白される前からです」 「こくっ! はくっ!」 「そもそも今は巨人化実験後のクールダウンの様子を見ていたんですよ」 その通り。だから少し前までこの場所にはリヴァイもいた。 彼が席を外す時を待って、エレンはハンジに告白をしたのだ。モブリットもいる中で。 「こちらが経過30秒後からの観測図になります。どうぞ」 「あ、ああ」 いつもならモブリットの描き記した図画を元に、ハンジがエレンに体調の変化を詳細に聞いて変化があれば書き留める。けれど昨日と今日に、エレンは微細な変化を感じていなかった。だから今、告白したのだ。ハンジの観測の邪魔にならず、後からリヴァイに詰問されることもなく、けれどハンジに信じてもらえる程度の近い距離で、なおかつモブリットがいる今に。 最難関は彼のはずだった。 どう出るだろう。何度も重ねたシミュレーションでも、こればかりは全く予測がつかないと二人で頭を抱えたものだ。ハンジを、エレンを見遣る視線に、モブリットはいったいどんな感情を乗せてくるのか―― 「ああ、いや、わかってるけど――……ていうか今さ」 「愛の告白に浮かれるのは結構ですけど、終業後にお願い出来ますか。今はまだ任務中です」 ピ、と空気が変わった気がした。 視界の端で注意深く動向を窺うつもりだったエレンは、思わずはっきりとモブリットの顔を見てしまった。 けれども、こちらをちらりとも見ていないモブリットは、まるで普段と変わらない様子で肩を竦めて小さく息まで吐いたようだ。 これは――予想外の態度だ。 「――浮かれてない」 対してハンジは、モブリットからの言葉にはっきりと瞳を眇め、一瞬スッと息を吸い込んだ後、低く明瞭にそう吐き捨てた。 モブリットの表情や態度に何か変わったところが見えたわけでなく、任務中の告白を指摘されたハンジがムッとした。言葉にすればそれだけのことが、けれどもエレンには体中の毛穴という毛穴が総毛立つように錯覚させられてしまった。 ピリピリと空気中を漂う緊張感は、事の発端が自分にあると認識しているだけにさすがに辛い。 「あの」 「エレン、君の気持ちは嬉しいよ。本当だ。でもごめん。その気持ちには応えられない」 何か言うべきか。何をかはわからないまま口を開いたエレンに、ハンジはモブリットから顔を戻すと言葉を被せるようにそう言った。思い描いていた順序とは違うが、その言葉はある意味予想内の返答だ。まさか今すぐ返されるとまでは思わなかったが、何もなく受け入れられるとはさすがのエレンも思っていない。 (……じゃなくて! ここでハイソウデスカって引き下がってはいられねえんだった!) フられてからがある意味正念場だと必死で力説していた親友の空色の瞳を思い出す。 次に用意した台詞を頭の中で空んじて、しかし先に口を開いたのはモブリットだった。 「……分隊長、何もそんなに回答を焦らずとも」 「黙れ」 また、ピシリ、と空気が張る音が聞こえた。 言われたのはモブリットだというのに、彼よりもエレンの肩がビクリと揺れる。 「これはエレンと私の問題だ。愛の告白には真摯に回答するのがモットーだ。それに任務に支障を出すつもりもないから安心してくれ。ああ、モブリット。これを持って先に戻っててくれないか。すぐに行く」 まさに取り付く島もないといった言い回しは、今まであまり聞いたことがないほど硬質だ。 張りつめた薄氷のようだとばかり思っていた氷が、実は何重もの層になっていると思い至らせるには十分だった。 「……失礼します」 それを最初から理解していたのだろうモブリットは、それ以上何かを言うことはなく、そのまま記録用のファイルを持って出て行ったのだった。 しん、と静まり返った室内で、自分の息を飲む音が聞こえる。 次の台詞を、とわかっているのに言えないでいると、ハンジがふと肩の力を抜いた。張り詰めていた空気がその一瞬で弛緩する。 「はは、ごめんね」 おどけたようにそう言って笑うハンジにつられて頭を振る。 エレンから見ても随分自由に、正直な言動でなりふり構わないように見えるハンジの、こういうところはやはり分隊長だと改めて思わされる。空気を変える。モブリットの気配を、ハンジはその一言でこの部屋から完全に閉め出してみせた。 「ということで、改めて。気持ちは嬉しい。本当だ。でもエレン、君をそういう風には見ることが出来ない」 ――告白の続きはここからだ。 せっかくハンジが用意してくれたこの舞台で、エレンは再度自分の腹に力を込めた。 握り締めた拳を意識しながら、ハンジの正面をひたと見つめる。 「俺じゃ子供すぎますか」 「子供というほど子供でもないだろう? そういう側面が全くないとは言えないけど、告白されてときめいたくらいは男だと認識しているよ」 思いがけない返しだった。 柔らかい視線にほんの少しの照れを滲ませたハンジに、むしろ胸が高鳴ってしまった。違う、そうじゃない。そんなことで流されるわけにはいかないのだ。何のためにここで自分はハンジに告白することにしたのか。 まだその決意の一端は掴めていない。 「それは……ありがとうござます」 けれども嘘でも誤魔化しでもなく真っ直ぐ見つめられて、エレンはもごもごと口中で呟くのがやっとだった。 くそう。照れる。そんな表情も返しもずるい。想定外だ。 「うん。ただ、そういう意味で君を想うことはないと思う。だから、ごめん」 「謝らないでください! 勝算はないってわかってましたから!」 そうだ。これは最初から戦術を練りに練っての負け戦だった。 申し訳なさそうに眉を寄せたハンジに思わずそう言って、エレンはひっそりと息を吐いた。 「……でも、あの」 わかっていたことだ。 エレンには考えがあった。だから今日この場でハンジに気持ちを伝えた。けれどそれが全てではない。本当はこの先に、とても大切なことを言いたかったのだ。 「ん?」 僅かに小首を右に傾けたハンジは、エレンの言葉を真っ直ぐ受け止めるために待っているようだった。 (――畜生) そんな顔をされてしまったら、エレンは言うべき言葉を飲み込むしかなくなってしまった。 せっかく今日の為に骨を折ってくれたアルミンに心の内で謝罪して、エレンはもう一つの本音を口にした。 「冗談や思いつきじゃなく、俺、ハンジさんのこと本当に好きです」 この言葉はハンジにどう届いただろう。エレンにはわからなかった。けれども嫌がられてはいないということだけはわかる。 「ありがとう」 微笑みと共にくれた言葉が、エレンの胸の奥を疼かせた。 最初に告白をすると決めた時より、した時より、今の方がハンジのことをもっとずっと好きだと思う気持ちが強くなる。 だからこれ以上は彼女に言えないとそう思った。どうすればいいだろう。 ここから先のシナリオを勝手に変更してしまったせいで、エレンの頭にある台本は白紙になった。 「その、困らせるようなことを言ってすみませんでした」 「別に困ってないよ。嬉しかった」 「なっ、何か心配事があったらいつでも言ってください。あ、いや、これは別にしつこくどうこうしたいとか言うわけじゃなくて、俺じゃ何も出来ないことの方が多いかもしれないですけど、その、俺、巨人化なら出来ますから!」 「そ――……そうだね?」 咄嗟にそんな言葉が口をつく。と、同時にハンジもその勢いに押されてか珍しく曖昧な口調になった。 何を言ってるんだと、エレンは内心で自分に激しい動揺を感じた。先程とは別の意味で困惑したように眉を下げるハンジに慌てて、所在のない手が勝手にぶんぶんと動き回るのを止められない。 「だから、その、肩とか手とか好きなだけ乗っていいですから!」 「ぶふぉっ!!!」 また俺は何を、と思いつつも出てきてしまった言葉に、ハンジが突然噴き出した。 完全に飛んだ唾液が顔に掛かるが、ハンジの笑いは止まらない。 「ハ、ハンジさん?」 そんなにおかしなことを言っただろうか。いや、言った。巨人化自体が未知の力で、ハンジはそれを解明する為に毎日東奔西走しているのだ。なのに告白のついでのように私物化した発言をしてしまったのはエレンの浅慮だ。けれどハンジは咎めるのではなく、眼鏡の下の目尻に涙を浮かべながら笑っている。 腹を押さえていた片手がエレンの頬に伸ばされた。 「いや、……ぶくくっ、ごめんごめん。ありがとう、うん、その時はお願いしようかな。リヴァイ達には秘密にしてどこかで落ち合って、ドーン! と派手にお願いするよ」 心底楽しそうに言いながら、自分で飛ばした唾液を拭いているのだとわかったが、思いの外近くで触れられた指の動きにドキリとする。 「そ、その時は!」 告白は予想通りフられてしまった。けれど今の方がはっきりと緊張で心臓がうるさい。エレンは上擦ってしまった自分の声を叱咤しながら、笑うハンジの手を取った。 「モブリットさんにも知られないように出てきてくださいね!」 「……了解。バレたら絶対うるさいもんね」 一瞬皮肉げに見えた笑顔を、悪戯を思いついた子供のような言葉で隠して、ハンジはエレンに取られた手をそっと外した。ツキン、と鳴った気のする胸の奥は見ない振りをして、エレンはすっと小指を立てた。 「約束ですよ」 たぶん自分は今かなり必死な顔をしているんだろう。 引けない小指もフられるだろうかと情けない気持ちになったエレンは、 「ありがとう」 そう言って、長い小指を絡めてくれたハンジに少しだけ泣きたいような気持ちになった。
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「俺、あなたのことが好きです」 「お? どうしたの改まって。私もエレンのこと好きだよ!」 ぱちりと大きく目を瞬いて、次の瞬間ニカッという擬音が聞こえてきそうな笑顔で迫ってきたハンジに、エレンは盛大にため息を吐きたい衝動に駆られた。 やっぱりだ。 予想と寸分違わぬハンジの態度に、無意識に握り締めていた拳にグッと力を込める。 そう、予想通り。だから慌てることも苛立つこともないはずだ。こうして気持ちを伝える時期も、場所も、言い方も、何度もシミュレーションを繰り返した。それこそまだエルヴィンには及ばないものの、参謀の片鱗を見せ始めている親友のアルミンに頼み込んでまで、綿密な計画を練ってもらったのだ。 満を持しての今なのだ。こんなに簡単に失敗するわけにいくか。 「ハンジさん」 「うん?」 だから、二度目はもっと真剣に。 目を見て、表情は崩さずに。 この会話の帰結がどこに向かうのかと興味津々なハンジの様子は、まるで告白された直後の人間とは思えない。それは自分が子供だからだろうかとエレンは冷静に考えてみる。そうかもしれない。訓練を終えたとはいえ、自分はたかだか十六歳になったばかりだ。巨人になれるという特性がなければハンジの視界の隅に留まることもなかったはずだ。 だけど今、彼女はエレンを認識している。そして次の言葉を待ってもいる。 それから――こちらの様子を僅かに心配そうな色を交えて黙して見つめている彼も。 周囲の状況を見極めて、エレンは素早く行動を起こした。 「おおっ?」 目の前に迫るハンジの肩に手を掛ける。驚きよりも好奇心を湛えた声をあげたハンジの後ろで、彼の気配も動いた。 けれどもそちらを見てはいけない。この計画が全て無駄になってしまうからだ。 だからエレンは、ほとんど無表情で殺気すら放っているように思える彼女の背後を敢えて無視して、まだ自分より背の高いハンジを下から掬うように真っ直ぐ見つめた。 「好きです。俺と付き合ってください」 「ははは! 何言ってるの。今日の実験そんなにキツかっ、た……………………って、え? マジで?」 「マジです」 「え?」 やっと言わんとしていることが通じたらしい。ハンジの表情が笑った顔からビシリと音を立てて固まった。 実験の時の動きすぎる表情とも、その他の場面では思いの外寡黙な彼女の普段とも違う。 それは少し予想外な態度だった。 「あの、ハンジさん? 聞いてます?」 「きっ、ききききき聞いてるよっ!!?」 心配になったエレンがそっと顔を覗き込めば、ハンジは弾かれたようにエレンの前から後ろに飛んだ。 驚くほどの跳躍力だ。これだけの俊敏さがあるのに、生体実験の度に後ろから更なる俊敏さでハンジの安全を守る彼は何なんだと見てしまいそうになって、どうにか堪える。 「ええと!? うん!?? エ、エレンは私のことが好きなのかな!?」 「そうです」 「愛しちゃってるのかな!?」 「……愛しちゃってます」 「ほう!? 悪くない!!」 本当に大丈夫だろうか。 言いながら、更にじりじりと後ろに進むハンジとの距離が開いていく。 この人が巨人のこと意外でこんなに動揺することがあるとはさすがに思わなかった。頬どころか顔全体が真っ赤で今にも溢れてしまいそうだ。 こんな顔――表情をする人物を、エレンはどこかで見たことがあった。 ハンジのような鷲鼻でもなく、身長だって高くもなく、髪の色だって太陽の光でいつも輝いて見えたその顔を。 「……あの、ハンジさ」 「エレン」 無意識に記憶を思い起こしながら前へ踏み出したエレンは、ここにきて初めて口を開いた男の声で我に返った。 後退していたハンジの肩が、少し離れて立っていたはずの彼に当たって止まっている。 「モブリットさん」 「モブリット! ああああああれ? 君いつからいたっけ?!」 身体と両腕でハンジを支える格好のモブリットに、そのまま頭を思い切り預けて聞く彼女の顔は赤いままだ。 ハンジより少し身長の高い彼は、真っ直ぐに向けられる距離の近さにか僅かに首を傾げて、ほんの少し眉を下げた。 「あなたがエレンに告白される前からです」 「こくっ! はくっ!」 「そもそも今は巨人化実験後のクールダウンの様子を見ていたんですよ」 その通り。だから少し前までこの場所にはリヴァイもいた。 彼が席を外す時を待って、エレンはハンジに告白をしたのだ。モブリットもいる中で。 「こちらが経過30秒後からの観測図になります。どうぞ」 「あ、ああ」 いつもならモブリットの描き記した図画を元に、ハンジがエレンに体調の変化を詳細に聞いて変化があれば書き留める。けれど昨日と今日に、エレンは微細な変化を感じていなかった。だから今、告白したのだ。ハンジの観測の邪魔にならず、後からリヴァイに詰問されることもなく、けれどハンジに信じてもらえる程度の近い距離で、なおかつモブリットがいる今に。 最難関は彼のはずだった。 どう出るだろう。何度も重ねたシミュレーションでも、こればかりは全く予測がつかないと二人で頭を抱えたものだ。ハンジを、エレンを見遣る視線に、モブリットはいったいどんな感情を乗せてくるのか―― 「ああ、いや、わかってるけど――……ていうか今さ」 「愛の告白に浮かれるのは結構ですけど、終業後にお願い出来ますか。今はまだ任務中です」 ピ、と空気が変わった気がした。 視界の端で注意深く動向を窺うつもりだったエレンは、思わずはっきりとモブリットの顔を見てしまった。 けれども、こちらをちらりとも見ていないモブリットは、まるで普段と変わらない様子で肩を竦めて小さく息まで吐いたようだ。 これは――予想外の態度だ。 「――浮かれてない」 対してハンジは、モブリットからの言葉にはっきりと瞳を眇め、一瞬スッと息を吸い込んだ後、低く明瞭にそう吐き捨てた。 モブリットの表情や態度に何か変わったところが見えたわけでなく、任務中の告白を指摘されたハンジがムッとした。言葉にすればそれだけのことが、けれどもエレンには体中の毛穴という毛穴が総毛立つように錯覚させられてしまった。 ピリピリと空気中を漂う緊張感は、事の発端が自分にあると認識しているだけにさすがに辛い。 「あの」 「エレン、君の気持ちは嬉しいよ。本当だ。でもごめん。その気持ちには応えられない」 何か言うべきか。何をかはわからないまま口を開いたエレンに、ハンジはモブリットから顔を戻すと言葉を被せるようにそう言った。思い描いていた順序とは違うが、その言葉はある意味予想内の返答だ。まさか今すぐ返されるとまでは思わなかったが、何もなく受け入れられるとはさすがのエレンも思っていない。 (……じゃなくて! ここでハイソウデスカって引き下がってはいられねえんだった!) フられてからがある意味正念場だと必死で力説していた親友の空色の瞳を思い出す。 次に用意した台詞を頭の中で空んじて、しかし先に口を開いたのはモブリットだった。 「……分隊長、何もそんなに回答を焦らずとも」 「黙れ」 また、ピシリ、と空気が張る音が聞こえた。 言われたのはモブリットだというのに、彼よりもエレンの肩がビクリと揺れる。 「これはエレンと私の問題だ。愛の告白には真摯に回答するのがモットーだ。それに任務に支障を出すつもりもないから安心してくれ。ああ、モブリット。これを持って先に戻っててくれないか。すぐに行く」 まさに取り付く島もないといった言い回しは、今まであまり聞いたことがないほど硬質だ。 張りつめた薄氷のようだとばかり思っていた氷が、実は何重もの層になっていると思い至らせるには十分だった。 「……失礼します」 それを最初から理解していたのだろうモブリットは、それ以上何かを言うことはなく、そのまま記録用のファイルを持って出て行ったのだった。 しん、と静まり返った室内で、自分の息を飲む音が聞こえる。 次の台詞を、とわかっているのに言えないでいると、ハンジがふと肩の力を抜いた。張り詰めていた空気がその一瞬で弛緩する。 「はは、ごめんね」 おどけたようにそう言って笑うハンジにつられて頭を振る。 エレンから見ても随分自由に、正直な言動でなりふり構わないように見えるハンジの、こういうところはやはり分隊長だと改めて思わされる。空気を変える。モブリットの気配を、ハンジはその一言でこの部屋から完全に閉め出してみせた。 「ということで、改めて。気持ちは嬉しい。本当だ。でもエレン、君をそういう風には見ることが出来ない」 ――告白の続きはここからだ。 せっかくハンジが用意してくれたこの舞台で、エレンは再度自分の腹に力を込めた。 握り締めた拳を意識しながら、ハンジの正面をひたと見つめる。 「俺じゃ子供すぎますか」 「子供というほど子供でもないだろう? そういう側面が全くないとは言えないけど、告白されてときめいたくらいは男だと認識しているよ」 思いがけない返しだった。 柔らかい視線にほんの少しの照れを滲ませたハンジに、むしろ胸が高鳴ってしまった。違う、そうじゃない。そんなことで流されるわけにはいかないのだ。何のためにここで自分はハンジに告白することにしたのか。 まだその決意の一端は掴めていない。 「それは……ありがとうござます」 けれども嘘でも誤魔化しでもなく真っ直ぐ見つめられて、エレンはもごもごと口中で呟くのがやっとだった。 くそう。照れる。そんな表情も返しもずるい。想定外だ。 「うん。ただ、そういう意味で君を想うことはないと思う。だから、ごめん」 「謝らないでください! 勝算はないってわかってましたから!」 そうだ。これは最初から戦術を練りに練っての負け戦だった。 申し訳なさそうに眉を寄せたハンジに思わずそう言って、エレンはひっそりと息を吐いた。 「……でも、あの」 わかっていたことだ。 エレンには考えがあった。だから今日この場でハンジに気持ちを伝えた。けれどそれが全てではない。本当はこの先に、とても大切なことを言いたかったのだ。 「ん?」 僅かに小首を右に傾けたハンジは、エレンの言葉を真っ直ぐ受け止めるために待っているようだった。 (――畜生) そんな顔をされてしまったら、エレンは言うべき言葉を飲み込むしかなくなってしまった。 せっかく今日の為に骨を折ってくれたアルミンに心の内で謝罪して、エレンはもう一つの本音を口にした。 「冗談や思いつきじゃなく、俺、ハンジさんのこと本当に好きです」 この言葉はハンジにどう届いただろう。エレンにはわからなかった。けれども嫌がられてはいないということだけはわかる。 「ありがとう」 微笑みと共にくれた言葉が、エレンの胸の奥を疼かせた。 最初に告白をすると決めた時より、した時より、今の方がハンジのことをもっとずっと好きだと思う気持ちが強くなる。 だからこれ以上は彼女に言えないとそう思った。どうすればいいだろう。 ここから先のシナリオを勝手に変更してしまったせいで、エレンの頭にある台本は白紙になった。 「その、困らせるようなことを言ってすみませんでした」 「別に困ってないよ。嬉しかった」 「なっ、何か心配事があったらいつでも言ってください。あ、いや、これは別にしつこくどうこうしたいとか言うわけじゃなくて、俺じゃ何も出来ないことの方が多いかもしれないですけど、その、俺、巨人化なら出来ますから!」 「そ――……そうだね?」 咄嗟にそんな言葉が口をつく。と、同時にハンジもその勢いに押されてか珍しく曖昧な口調になった。 何を言ってるんだと、エレンは内心で自分に激しい動揺を感じた。先程とは別の意味で困惑したように眉を下げるハンジに慌てて、所在のない手が勝手にぶんぶんと動き回るのを止められない。 「だから、その、肩とか手とか好きなだけ乗っていいですから!」 「ぶふぉっ!!!」 また俺は何を、と思いつつも出てきてしまった言葉に、ハンジが突然噴き出した。 完全に飛んだ唾液が顔に掛かるが、ハンジの笑いは止まらない。 「ハ、ハンジさん?」 そんなにおかしなことを言っただろうか。いや、言った。巨人化自体が未知の力で、ハンジはそれを解明する為に毎日東奔西走しているのだ。なのに告白のついでのように私物化した発言をしてしまったのはエレンの浅慮だ。けれどハンジは咎めるのではなく、眼鏡の下の目尻に涙を浮かべながら笑っている。 腹を押さえていた片手がエレンの頬に伸ばされた。 「いや、……ぶくくっ、ごめんごめん。ありがとう、うん、その時はお願いしようかな。リヴァイ達には秘密にしてどこかで落ち合って、ドーン! と派手にお願いするよ」 心底楽しそうに言いながら、自分で飛ばした唾液を拭いているのだとわかったが、思いの外近くで触れられた指の動きにドキリとする。 「そ、その時は!」 告白は予想通りフられてしまった。けれど今の方がはっきりと緊張で心臓がうるさい。エレンは上擦ってしまった自分の声を叱咤しながら、笑うハンジの手を取った。 「モブリットさんにも知られないように出てきてくださいね!」 「……了解。バレたら絶対うるさいもんね」 一瞬皮肉げに見えた笑顔を、悪戯を思いついた子供のような言葉で隠して、ハンジはエレンに取られた手をそっと外した。ツキン、と鳴った気のする胸の奥は見ない振りをして、エレンはすっと小指を立てた。 「約束ですよ」 たぶん自分は今かなり必死な顔をしているんだろう。 引けない小指もフられるだろうかと情けない気持ちになったエレンは、 「ありがとう」 そう言って、長い小指を絡めてくれたハンジに少しだけ泣きたいような気持ちになった。 【→】 |