Just Keep on Walking.




 悲願のトロスト区奪還、それにエレン・イエーガーの地下に眠る謎の解明を求めて出立する時まで、あと十時間もない。
 提供された肉を求めて乱闘騒ぎのあった夕食の後、ハンジは廊下を行く部下の後ろ姿を見つけ声を掛けた。

「よ。食べ損ない君」
「ひどい言われようですね」
 
 振り向いて苦笑する彼――モブリット・バーナーに並んで歩きながら、だって、とハンジは続けた。

「せっかくリーブス商会がありったけの肉を用意してくれたのに、勿体ないなと思ってね」

 一度部屋に戻ったのだろう。モブリットはジャケットを脱いで、小脇に紙を挟んだクリップ台を抱えていた。彼へは、事前に肉の提供があることは伝えていた。よもや忘れていたわけではあるまい。冷静に見ようが悲観的に見ようが、これからすぐにあんなにたくさんの肉を食べられる日がくる可能性は限りなくゼロに近いといえる。
 勿論巨人からの奪還が達成できれば、肉に限らずともあらゆる技術も生産性も格段に上がだろうが、目に見えてすぐ明日からとならないことくらい、誰の目にも明らかだ。それでも調査兵団に希望を託し大盤振る舞いしてくれたリーブス商会を始め、賛同者達の行動には本当に感謝の一言に尽きる。

「何か急ぎのようとかあったっけ?」
「急ぎと言いますか……フレーゲルが他に必要なものはないかと気を揉んでくれていたので、相談に乗っていたんです」
「フレーゲルが?」
「ええ」

 言われてハンジは記憶を手繰る。
 そういえば夕食の場に肉を持ってきてくれたのは別の業者と商会の者だった。
 明日の作戦はその前に十分な話し合いの機会を得ていたから班や連携での懸念事項は特になかったが、その頃から確かにモブリットの姿は見えていなかったことを今更ながらにハンジは思い出した。
 まさかあのフレーゲルがそこまで気遣ってくれていたとは――というよりも、何故モブリットを相談相手に選んだのかという疑問が浮かんだ。調査兵団に関する相談ごとなら、モブリットよりハンジに先に言ってきそうなものだ。更にその上の者をというのであれば、リヴァイやエルヴィンが順当だろうに。
 怖かったのか?と一瞬考え、さすがに今の時点でその理由はないだろうと除外する。

「で、結局フレーゲルは何が必要って?」
「物資の補給で心許なかったものを幾ばくかと――ああ、こちらは一通りのリストです」

 渡されたリストを受け取って、ハンジはざっと目を通した。几帳面な文字は見慣れたモブリットのそれで箇条書きになっていてわかりやすい。そして、フレーゲルからの追加の提供打診はどれも細かな気遣いを感じられた。

「いいね。感謝しかないな」

 しかし、これならわざわざモブリットから肉の機会を奪わなくても良かったのではと思ってしまうような、一般的な内容でもある。

「それから」

 モブリットは、そこで一端小さな間を空けた。
 顔を上げるハンジから僅かにタイミングをずらして逸らされた表情を訝しむ隙を与えず、殊更何でもないことのように言葉を続ける。

「男性陣へは娼館を用意した方がいいのかとすごく真剣に聞かれました」

 ――ああ、なるほど。メインの相談はそっちの話か。
 納得して、ハンジはふむと片手を口元に上げた。
 単に男同士の下世話な話だというなら、モブリットもわざわざハンジに伝えはしなかっただろうが、今回の件は性による順当な相談事とも言える。けれど繊細な話題でもあるが故に、それなりに地位があり、けれど意見の言いやすいモブリットに話を持っていったのだろうと納得がいった。ハンジでは確かに考えもしていなかった部分の話だ。

「考えていなかったけど一理あるな。その辺り、もうリヴァイ達には通ってる?」
「団長に伝達は。正直今の時点で必要性の有無は人によるので、俺の一存では要とも不要とも」
「ふうん。そういうもんか」
「そういうものですね。動物の生存本能というのであれば、戻ってきてからの方が需要はありそうです。女性の方は門外漢なのでわかりかねますが」

 食事時の誰にもそんな素振りはなかったから、おそらくモブリットはここへ戻るまでに何らかの手筈を整えていたのだろう。なるほど。それではなかなか肉のご相伴に預かる時間はなかったかもしれない。
 考えて、ふと、ハンジはモブリットを見た。それにしても今まで準備にかかるのは少しばかり長いような気もした。その打診を受けてから連係を取っただけにしては、手間取りすぎていないか。何か予期せぬハプニングに慌てた様子もない。
 まだこちらを見ないで前を向いたままのモブリットが口を開き掛けると同時に、ハンジは思ったことを聞いてみる。

「それで――」
「行ってきた?」
「は?」
「娼館」

 別に責め立てするつもりではなかった。男なら、ましてや決戦前の今なら、気分が昴ることもあるのだろう。何度どう重ね合った身体を知っていたとしても、そこはどうしたってハンジには計り知れないところだ。
 これが一般的な男女であれば違うだろうが、自分達は少し違う。性別の前に兵士でもある。いつもの壁外調査と同じで、最初から死ぬつもりは毛頭ないが、生きて帰れる可能性を少しでも高められるなら手段は選ばないでほしいと思う。
 けれどハンジの質問にモブリットは僅かに眉を顰め、前を向いたまま妙な間の後でゆっくりと言葉を続けた。

「……何か欲しい物はないかと聞かれたので、よく眠れる大きめのベッドが欲しいと」
「ベッド?」
「すぐに手配をしてくれて、ついさっき届いたんです。なので一緒に運び入れました」

 思いも寄らないリクエストだった。ベッドなど寝られればいい程度にしか思ったことのないハンジは、ぱちくりと目を瞬いた。 決戦前夜に欲する物にしては、欲がなさすぎじゃないかと思う。
 聞き返すハンジにようやく視線をくれたモブリットが、苦笑して肩を竦めて見せた。

「はい。そのせいで肉を食い損ねましたけど」

 ベッドと肉を天秤に掛けるだなんて、ほとんどの人間は考えもしないはずだ。よほど睡眠を大事にしているのか。だから彼は、毎晩毎夜ハンジに眠ってくださいとうるさいのかもしれない。
 どれだけ長く過ごしても相変わらずわからないところのある男だなと内心で微笑して、ハンジは懐から小さな包みを取り出した。一口大にカットしたそれは、商会が振る舞った肉だ。

「持ってきたよ。一口二口しかないけど」
「え? ありがとうございま――んぐっ」

 驚いたように目を瞠るモブリットの口におもむろに押し込んで、指についた肉汁を舐める。新兵達が我先にと殴り合いをするほどの席で、一人分を持ち出すのは難しいというほどでもなかったが、自分達より育ち盛りで未来にふさわしい若者達に分け与えてやりたいと思うくらいの大人ではある。
 けれど珍しい香草で味付けされたこの豚肉だけは、口にした瞬間モブリットにも食べさせてやりたいと思ってしまった。何気なさを装ってすっと手元に避けたことに気づいた仲間から、はっきりと揶揄の言葉を掛けられながら死守したそれは、モブリットの口にも合ったらしい。うまい、と小さく呟かれた言葉は本音の色していて、ハンジの視線が無意識に和らぐ。
 小さな肉をあっという間に飲み下して唇を舐めたモブリットが、ハンジを見た。

「……あなたは? ちゃんと食べました?」
「むさぼった」
「それは良かった」

 まるで自分が貪れたかのように嬉しそうな笑顔でそう言われて、ハンジはムズ痒いような気分になった。
 明日は重大な作戦が決行される。それでも今日という日はまだ終わらない。続いている。今も、そして明日も、この先だってきっと。いや、絶対だ。
 明日の為に鋭気を養えとリヴァイやエルヴィン辺りなら言いそうだと思いながら、ハンジは自分のいつもどおりを優先することにした。

「ベッド見てってもいい?」
「ええ。もちろん」

 いつもならまだ眠くなる時間でもないのだ。そう思って訊ねたハンジに、モブリットは半歩先導するように足を早めた。
 コツコツと聞きなれた靴音が二つ、人気のない廊下をズレて重ねてを繰り返しながら進んでいく。
 彼の部屋の前に着くと、モブリットは少しだけ瞳に微笑を浮かべてハンジを振り返った。悪戯っ子のように見えなくもない。これから秘密基地を自慢しようとでもいうかのような態度に、また少し胸の奥をくすぐられたような気がした。

「――おおっ。本当に寝心地良さそうだ。ていうか広いな! 部屋狭っ!」

 そうしてドアを開けて見た光景に、ハンジも思わずテンションの上がった声を出してしまった。
 兵団に入った時から変わらない大きさの簡素な木組のベッドとは似ても似つかない分厚いマット。真っ白なシーツ。それに触れればすぐに違いのわかる質の良い掛け布団が部屋の真ん中をでかでかと陣取っているではないか。
 どうやって入れたんだというハンジの疑問を先回りしたモブリットが、組立式ですと説明してくれた。貴族の屋敷でたまに見た装飾がごてごてと施されたものよりよっぽど実用的に見えるが、確かに寝心地は良さそうだ。

「クッションが適当に固くて気持ち良かったです。さすがリーブス商会」
「お試し済みかよ」

 どこか自慢げに言いながら、モブリットがハンジに座るよう促す。
 笑いながら腰を落ち着ければ、確かに固すぎず柔らかすぎず、適度な弾力がハンジの臀部を押し返した。

「いいね」
「肉のお礼に、今夜一緒に寝ませんか」

 その隣に座ったモブリットが、揶揄するような口調で言った。ふ、と笑って彼を見て、ハンジはその瞳の真剣さに思わず口を噤んでしまった。

「……ストレートだな?」
「たまには」

 軽快とも思えるような台詞と声音と、その表情が一致していない。誘うのも誘われるのも初めてではないし、嫌なわけでは無論ないが、なんとなく今ということに抵抗とは違った気分の高まりが出てきてしまった。
 まだはっきりとはハンジに触れてこないモブリットの態度が余計にそうさせているのかもしれない。
 ちらりと横を伺えば、モブリットは真剣な表情のまま、ハンジの答えに小さく喉仏を上下させていた。
 もしかしたら慣れない誘い文句に、彼もまさか緊張しているのだろうか。

「するの?」

 何の確認だと自分で自分の質問を笑いたくなる。
 が、モブリットはやはり真剣な表情のまま、小さく首を横に振った。

「なしでいいので。あなたと一緒に朝を迎えられたらと思って。それだけです。ちゃんと寝られればいいと――」

 ああ、緊張しているんだ。
 ハンジは不意にそう確信した。
 それは今夜のせいか、馴染みのないこの雰囲気のせいかはわからない。瞳を逸らさないくせに口早になるのは、珍しい彼の癖の一つで、おそらく気づいているのはもう数人もいないだろう。
 ハンジの返事を待つ間、音のない部屋でこくりと小さく咽喉を鳴らしたのは、今度は自分かもしれない。モブリットから視線を逸らさないまま、ハンジはつ、とシーツを撫でた。軽く押せば、押し返してくる感触がある。

「寝心地良さそうなベッドだよね」
「はい」

 そのままシーツの上にあるモブリットの指先に触れる。

「寝坊したら困るな」
「起こしますよ」

 布地を撫でる延長のようにそこに触れ、それから指の間に指を置いた。

「そっか」
「はい」

 モブリットの指が妙にたどたどしい動きでハンジの指を捕まえにくる。
 普段と違うシーツの上で、普段通りの節の太いモブリットの指が、綺麗とは言い難い骨張ったハンジの指をしっかりと絡めた。

「いいよ」
「はい」

 瞳に宿る緊張の糸がわずかに緩む。どちらかともなく苦笑が溢れた。
 昨日に続く今日の終わりは、特別なものではない。ここにある体温も、熱のこもった視線も、そこに映るお互いも、明日も明後日も、きっとずっと続けばいい。



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