Just Keep on Walking.



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「ちょっとそっち寄っていい?」
 せっかくこんなに広いのだ。両端とまではいかずとも、それなりに居場所を確保してもゆとりを保って寝られるベッドの上で、ハンジはモブリットの方を見た。
 けれども、それではわざわざ隣で寝る意味がないような気がする。
 素肌を重ねないまでも、気持ちの良いベッドで隙間を感じて眠るなら自室で寝るのと変わらない。むしろ固いベッドでもその方が身体には優しいくらいだ。

「どうぞ」
「ん」

 ハンジの真意を察したわけではないらしいモブリットが、少し端に移動したのを追って、ハンジはベッドの中でもぞりもぞりと距離を縮めた。

「…………『ちょっと』?」

 訝しげに動きを見守っていたモブリットは、やがてひたりとくっつくように身体を寄せたハンジに諸手を挙げるような仕草をした。

「今更だろう?」
「……そうですけどね」

 誘ったのは自分のくせに。
 それにこれくらいの接触は、ベッドでなくとも何度もしている。それこそいつから始まったのか忘れてしまったくらいにいつものことだ。しれっと返すハンジを腕の中に緩く招き入れたモブリットが苦笑いで嘆息した。馴染んだ匂いが鼻腔に染みて、心臓の音がシーツの衣擦れの間に聞こえるようだ。

「……怖い?」
「え?」

 その香りを胸一杯に吸い込んで、ハンジはぽつりと言葉を溢した。
 明日の作戦の重要性は十二分にわかっているつもりだ。モブリットも同様のはずで、あらゆる可能性を何度も考え、絶望も希望も先に見据えて迎える明日を思いながらここにいる。
 ハンジは静かに息を吐いた。
 答えのないモブリットの腕の中で拳を握り、じっと見つめる。

「私は正直怖い。未知なものは全て怖い。でも見なくちゃならない。見れないかもしれない。わからないものを知りたい。知ることが怖い。知ることが出来なくなるかもしれないことが怖い。得ることも失うことも、全部怖い」

 一息に告げたこれは本音だ。
 明日は何も特別な一日ではない。けれど、特別に成り得る一日だ。それは希望か、はたまた絶望が待っているのか。
 考えても先の見えない未来は、光と闇を内包してどちらも均等に顔を覗かせている。

「……こんなこと、あまり言わない方がいいな」

 鼓舞する立場にある分隊長が、新兵率の高い兵士を前に言う類のものではない。エルヴィン辺りなら上手い具合にパフォーマンスに変えられるのだろうが、自分ではまだそんな芸当は無理だということくらい理解している。
 今が夜という時間と、自分とは違う――けれども馴染んだ体温のせいでつい漏らしてしまった本音に、ハンジは自分に苦笑した。こんなことを言われても、さすがにモブリットだって困るだろう。頑張れとしか返しようがない。それに今更という気もした。壁外に出る時は常にそうだし、最近では対人間の間でもそうと思う場面が目白押しだ。
 わざわざ少し大々的になるだろう戦いを明日を控えた今、改めて吐露することでもなかった。

「ちょっと気が緩んだかな。ごめん」

 ふ、とおどけて見せたハンジの頬に、モブリットが触れた。

「怖いです。俺も」
「え?」

 顔を上げると、薄く引いたカーテンの隙間から月明かりを受けたモブリットが、ひどく真摯な瞳でハンジを見ていた。ひたりとハンジの頬に掌をあて、輪郭を愛おしむように包み込む。ハンジの形を忘れまいとするかのような動きだった。

「怖いです。手が届かないかもしれないことが。心臓は人類に捧げているし、そういうことがある可能性も今までだってたくさんあって――わかっているのに、何度だって怖い。あなたとは少し違いますね。俺は、知ることより、知られないことより、届かない先を見る方が怖い」

 ハンジを見つめるモブリットの瞳が、僅かに苦渋に揺れた気がした。今、彼の想像の中で、その手が届かない瞬間を見ているのだとわかる。ハンジはシーツの中で握り締めていた拳を解くと、モブリットの手に手を重ねた。
 温かい。骨張っていて、女にしては大きく武骨なハンジの手より更に一回り大きく、骨張っていて厚みのある手だ。何度も死線を潜り抜け、出来上がったモブリットの手だ。
 この手がハンジの背中を引き、襟首を掴み、時には身体ごと腕を回して押し止め、だから今ここで体温を感じていられる。そんな場面が数えきれないほど繰り返されてきた。
 人は死ぬのだ。支えてくれたこの手が、ほんの数瞬ずれていただけで、ハンジがここにいなかった可能性は五万とある。
 別れはいつだって唐突で無慈悲で、一切の猶予を与えてくれない。
 そんな経験は何度と数えることも出来ないほど、もっとも無残な情景と共に、ハンジの脳裏にもこびりついている。

「……うん。それも怖いな」

 ハンジはモブリットの掌の熱を感じるように目を瞑り、それからゆっくりと瞼を上げた。
 この手を失うことを考えてみる。
 可能性はゼロじゃない――どころか、むしろ失わないで来られたことが奇跡のような連続だ。何度だって、もしもと思った。明日目を開けて、モブリットのいない世界――

「考えたくもない。けど、考えないといけない。私達は、前を向かないといけない。例え、どちらがいつどこでどうなったとしても」

 綺麗事だ。けれど事実だ。
 心臓を捧げ、数多の犠牲の上に生きている自覚があればこその本心だ。
 失いたくない。絶対に。もしもを考えて、冷静な部分とそうでない部分が織り交ざり過ぎて、考えがまとまらないくらいには否定したい可能性を兵士の理性でそう告げたハンジに、モブリットも頷いた。
 けれど同時に、ふっと場違いにその頬が緩む。

「モブリット?」

 訝るハンジに小さく「すみません」と言って、また真面目な表情に戻す。けれども瞳は、存外柔らかい色を纏っていた。

「わかっています。そういうことは起こり得る。でも、それがどういう状況で起こったとしても、後悔はします。きっと。いえ、絶対。あらゆる場面で思い出します。声も顔も、最後に交わした言葉や表情が焼き付いて離れない。とてもじゃないけど受け入れられない。正気を保っていられるかも怪しい。泣き叫ぶのか、呆然と立ち尽くすのかはわかりませんけど。でも、それでも正気を失うのは、最後の最後です。俺達は、前に進まなければいけないとわかっている」

 真っ直ぐに見つめハンジを映すヘーゼルの瞳が、静かに凪いだ湖面を思わせる。一息の風で波紋を広げ、荒れ狂い、また何事もなかったかのように姿を映す澄んだ色が、それがモブリットの本心だと告げていた。
 あまり自己を主張しない彼の、けれどいつも誰よりも秘めた熱情を持っている彼の言葉は物静かゆえの確固たる意志が感じられる。


 これは彼の遺言だ。


 自分が遺った体で話しているくせに、ハンジにしか伝えるつもりのない、わかりにくいハンジへの遺言なのだと確信する。
 途端に胸の奥の奥、心臓を置いた場所が冷えた気がした。
 可能性はゼロじゃない。むしろ高い。モブリットの言ったことは最もだ。けれどその抽象的なようで具体的な物言いは、空洞の腹の底にぐっと得体の知れないものを押し込まれるような気にさせられる。
 それはいわゆる死亡フラグだよと軽口を叩くべきだろうか。

「ハンジさん」

 そう考えた矢先、モブリットはハンジを呼んだ。
 まだ何かあるのか。視線だけで応えたハンジは、自分があまり格好良い表情をしていないだろうと思った。情けない。自分から振った話題のくせに。モブリットはいつもこうだ。ハンジに好きにさせると見せかけて、一番痛いところに釘を刺す。
 言われないでも現実は見ている。
 見る時期くらい自由にさせろ。
 毒づきたい気分が無意識にハンジの眉を寄せた。

「約束しましょうか」
「――は? 約束?」

 まるで子供の駄々のような思考だと自分に辟易していると、モブリットが柔らかい瞳のままでハンジに言った。少し雰囲気が丸くなっている。
 甘やかしたなと思う気恥ずかしさにわざと冷たい声を出したが、モブリットは「はい」と穏やかに頷いた。

「もし本当にそういう場面になった時は、俺自身相当切羽詰まっているでしょうから実行出来るかわからないので、まあ理想の約束ですけど」

 何だそれは。約束という割に随分詰めが甘い。言いながら苦笑するモブリットにハンジはフンと鼻を鳴らした。

「口先だけでも誓えないとかゆるっゆるだな」
「柔軟なんです」
「ああ言えばこう言う!」

 頬に添えた手をそのまま、モブリットは飄々と言ってのけた。決戦前夜に約束を持ちかける男の誠実さがまるでない。いっそふてぶてしいとさえ取れるいつもの態度に、ハンジは思わず吹き出した。
 笑うハンジを目を細めて見つめたモブリットが、不意に真剣な顔になる。

「……俺は最後まであなたを見ている」

 え、と言葉を発するタイミングが、ヘーゼルの中に吸い込まれてしまったかもしれない。穏やかに、静かに、これでもかというほど愛情深い瞳が、呆けたような顔のハンジをしっかりと捉えているのがわかる。

「例えどこでどうなったとしても、あなたを見ています。その場にいなくても、あなたをいつだって見ていますから。だからどうか、前へ」
「……」

 ほら、やっぱりそれは遺言じゃないか。
 懇願のような宣言に、ハンジは目蓋を伏せ掛けて止めた。僅かな呼吸音さえ一瞬たりとも見逃さないようにしっかりとモブリットを見つめ返す。

「――なら約束しよう。その時は私も君を見てる。例えどこにいても、君が前を向く力になるように」
「仕方がないので、その時は最善を尽くします」
「ひどいな?」

 やたらと真面目ぶった顔でそう嘯いたモブリットの頬に手を置いて、ハンジはぎゅっと潰すように押してやった。すぐそばで強制的に窄められたモブリットの薄い唇が「すみません」という形に動き、どちらからともなく吹き出してしまう。
 モブリットの掌が仕返しとばかりにハンジの頬をぎゅっと押して、窄まった唇を親指が撫でた。

「はにふるんだ」
「おやすみのキスにもってこいの唇にしようと思いまして」
「あのな――」

 言うが早いが、ハンジに作られたおちょぼ口が、似たような唇でちゅっと奪われる。願いのような約束を施したばかりの口がすぐそこでハンジに吐息をかけてふっと笑った。それからまた頬をゆるりと一撫でしたモブリットが、ハンジの目蓋に唇を落とす。
 あったかいな、と素直に思った。

「おやす」
「――おやすみの前にさ」
「はい?」

 ハンジはモブリットの頬に置いた手を離し、するりと首に回した。

「やっぱりちょっとだけやらない?」
「……はい?」

 時間は余分にあるとは言えないが、なくもない。体温を分け与えて眠るだけなら、隙間なく与え合ってもいいと思う。ぐ、と身体を寄せたハンジの胸にどちらのものともわからない鼓動が静かに響いて、モブリットの膝の間に膝を絡める。

「いや、なんかこうさ。距離近くてムラムラしてきたっていうか」
「……………………いやいやいやいや」

 動いてもギシリと重たい音のしないベッドは、二人分の体重を受け止めゆっくりと沈でいる。
 どんな一日も、それはただの一日だ。
 ベッドがいつもより高級でも、大人しい顔をした男が珍しく同衾を誘っても、胸の奥が締め付けられるような可能性を探って、それに胃の腑が重たくなっても。

「やだ?」
「……じゃないですけど、さすがに、ない、ですし」
「わかって言ってる」
「…………」

 そうして今まで生きてきた。その事実は、例え明日どうなってもなくなりはしないのだとハンジは思った。約束はした。万が一の場面は常にある。その時はモブリットの言うとおり、互いを認識することすらままならないだろうとわかっている。この口約束が叶うことはきっとない。もし叶えば奇跡だろう。
 だが今、意志は聞いた。意志は伝えた。他に出来ることなど今はない。
 いつもどおり最善を尽くして生き抜くだけだ。

「あ、反応した」
「いやいやいやいや」

 それまでの生を、互いに触れ合える時間が許されるならそうしたい。
 否定の言葉を口早に漏らしながら引き剥がそうとしないモブリットの胸を押して、ハンジは上に乗り上げた。


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