在りし日の君とその先へ(02)




「――で? これはいったいどういう状況なのかしら?」

 室内の椅子に腰を下ろし、小さな身体をしっかりと膝の上で抱きかかえながら、美雲はぐるりと居並ぶ面々を見回した。大きすぎる検査着から膝丈で愛らしいフリルレースとストライプの入ったワンピースに着替えた赤髪の少女――カナメは、膝の上から美雲をちょこんと見上げ、おそらく動きを真似したのだろう。一拍遅れで顔を戻すと、同じように周囲をくるんと見回した。
 その愛らしい様子に、仲間達の相好が崩れている。が、美雲に遅れて到着したメッサーだけはアラドの隣で仁王立ちをしたまま、小さなカナメを難しい顔で見つめていた。
 美雲の質問は、この場でおそらく遅れてきたメッサーだけが共有しているものだろう。

「はああ〜? カナカナきゃわわ〜? クモクモの真似っこしてるよ〜?」
「姉さん、マキナ姉さん! うちの死神が今にも殴り込みしてきそうな顔してますから空気呼んで!」

 単純に子供が好きなのだろうマキナが、両手を胸の前で組んで眦をこれでもかというほど下げている。が、後ろにメッサーを控えたチャックがおそるおそる振り返り、慌てた様子でマキナの肩を掴んで懇願した。

 あれからすぐ。泣き疲れたのか、カナメは美雲にもたれてこてんとバネが切れたように眠ってしまった。そうして目を覚ましたときには、完全に記憶を失っていたのだ。
 ワルキューレもデルタ小隊も、自分がリーダーで歌手だという自覚もないらしい。たどたどしい口調でする受け答えも、名前の確認程度しかよく理解出来ていない有様だった。自分の置かれた状況が不安なのか、大きな瞳に涙を溜めた姿を見た美雲が思わず歌を贈ったところ、花が咲きこぼれるような笑顔を見せた。それから美雲がお気に入りになってしまったようで、膝から離そうとするといやいやと首を横に振る。

「あー、簡単に説明するとですね」

 周囲と同じように目尻を柔らかく下げていたアラドが、しかしカナメを抱いた女神の冷ややかな視線にも気づいたのか、咳払いをしながら手を挙げた。
 美雲とメッサーの視線が彼に向けられる。

「薬の副作用だそうです」
「薬? カナメは何を飲まされたというの?」

 眉を潜めた美雲と同時に、後ろに控えるメッサーからも怒気とも冷気ともつかない気配が吹き出した。「こえぇ……」と思わず肩を竦めたハヤテとは対照的に、マキナがのんびりとした口調でそれに答える。

「んー。それがねぇ、今日レッスンの後で医薬品開発部から新しいサプリと栄養剤をもらって飲んだじゃない? あれじゃないかなーって」
「それなら皆飲んでいたわ」
「そうなんだけど、カナカナの体質――というより飲み合わせ?」
「カナメさん、風邪気味かもって、あれ飲む前に市販の風邪薬をクラゲエキスで飲んどったから……」
「他にも少し前からいろいろ試してた。クラゲ根湯、漢方、非アスピリン系、景気づけにいいと思うってバナナ酒とリポクラゲちゃんぽん――」

 カードの購入履歴でも漁ったのか、爪の先についたチップを弾いて空間にデータを呼び出したレイナが、すらすらと読み上げていく。次回のワクチンライブの開催まで二週間となった頃に感じた風邪の気配を抹殺しようと、並々ならぬ努力をしていたことが窺えた。
 少々やり過ぎな感は否めないが、医者にかかるほどの体調不良を感じていなければ、その気持ちもわからないでもない。
 微妙な時期の微妙な風邪の気配に、高栄養価なものの摂取で強引に治そうとした経験のある者は少なくないはずだ。

「……元に戻す方法は?」

 何とも言えず苦い表情になる彼女たちの沈黙を破り、そう聞いたのはメッサーだった。アラドが軽く首だけでメッサーを振り返る。

「王子様のキス――と言いたいところだけどな。残念ながら時間が解決するだろうとついさっき医療班から連絡がきた。今のところ幼児化しているということ以外、人体として不具合は何も起きていないそうだ」

 それが最大の不具合だろうといわんばかりにピクリと眉を震わせたメッサーに肩を竦めて、アラドは続ける。

「薬の成分が抜ければ戻るそうだ。まあ早ければ今日中、長くて二、三日ってところか。記憶の混濁も、身体が元に戻るまでのアレじゃないかって話だ。ほれ、今の状態でいろいろ考えちまって、余計なエネルギーを消費しないようにという脳の本能みたいなアレだ、アレ」

 あれ、という表現でだいぶアラドもわかっていないということがわかる。ただ命に関わるような深刻な状況ではないらしいことも、その飄々とした態度から伝わってきた。
 事前に説明を受けていたと思われるマキナ達が取り乱した様子もないことから、美雲はふうっと息を吐いた。

「ならカナメが元に戻るまで誰が面倒を見るのかしら?」
「そこなんですよねえ。一応、艦長にも事情は説明していますし、本部に許可を得たということにして、カナメさんの急な出張中に急遽遠縁の子を預かることになった、という話で艦内に通達は出しているんで、誰に見られて困るわけじゃあないんですが……」

 カナメという名前にしても、これだけ人気を博しているワルキューレのリーダーだ。遠縁なら、それこそあやかって付ける者がいてもおかしくはない。
 アラドはガシガシと頭をかきながら美雲の前にやってくると、膝を曲げてしゃがみ込んだ。膝の上でおとなしく座っているカナメに視線を合わせ、にこりと微笑む。いかにも子供に好かれそうな快活な笑顔はアラドの専売特許と言っても過言ではない。

「カナメさん。俺が誰かわかりますか?」
「……たいちょ?」

 少しもじもじとした様子でアラドを見つめ、それからちょこんと首を傾げたカナメに、マキナの「きゃわわー!」と叫ぶ声が被る。アラドが大袈裟なほど破顔して、カナメの頭をぐりぐりと撫でた。

「そうです、隊長! さっきの今で、もうカナメさん覚えてくれたんですね、えらいなー!」

 それからやはり大袈裟なほど褒めそやす。
 メッサーが到着する少し前から記憶をなくした小さなカナメへ、それぞれが自己紹介をしていたらしい。ミラージュのぎこちないながらも頬の緩みを必死に隠して名乗っている姿や、フレイアが小さな手と握手をしながら満面の笑顔で名前を言っているのを見た後で、意味もわからず名乗れと言われたメッサーも、とりあえずフルネームを名乗っていた。事情を知った今にして思えば、これだけの大人数を覚えるのは大人であっても難しいだろう。アラド、ではなく、たいちょ、と呼ばれた様子を見るに、もしかすると各自何かカナメが覚えやすいような自己アピールもしたようだ。

「じゃあその隊長に、ちょーっと抱っこさせてもらえませんかね?」
「や」

 それまで撫でられてきゃっきゃと嬉しそうに笑っていたカナメは、けれど美雲の膝から受け取るべく両手を差し出したアラドに、はっきりと首を横に振った。明確な拒絶だ。それにめげず、アラドは小さなカナメの頬を指先でつつん、と優しくつつく。そうされるとカナメがくすくすと楽しそうに笑い出した。触られるのがイヤというわけではないらしい。

「でもね、美雲さんそろそろお仕事だから、そのままだと困っちゃうんですよ」

 それは本当だった。ワルキューレの個別スケジュールには、すぐ後に美雲とフレイアの撮影が予定されている。ふっくらとした柔らかな頬を何度もアラドにつつかれたカナメは、しばらくじっとアラドを見つめ、それから美雲を見上げた。

「……みくも、カナメこまっちゃうの……?」
「アラド、カナメに嘘を教えないでちょうだい。カナメに困るわけなんてないでしょう?」
「いやいやいや。あなたこれからグラビア撮影なんでしょうが」

 助け船を出したつもりが手痛い裏切りにあってしまったアラドがあんぐりと口を開ける。が、美雲はそんな彼をまるきり無視して、小さなカナメに「嘘つきはダメよ」などと話し掛けていた。
 子供の扱いは知らないんじゃなかったのかと思う面々を他所に、美雲は随分今のカナメを気に入っているらしい。

「うーん、でも確かにちょっと問題かなあ。クモクモとフレフレは撮影、チャック中尉はこれから当直だし、ハヤハヤとミレミレはアルファ小隊との夜間フライト演習に参加するんだよね? 私もこれからメカニックのお手伝いだし、レイレイは――」

 そんな二人の様子を眦を下げて見つめていたマキナが、少し考えるように人差し指を唇に当てて、隣のレイナを振り返る。

「いくらカナメでも、子供とずっとは無理」
「だよねえ。あとは――」

 美雲と違い、カナメとは認めつつも両手で大きなバツを作ってみせたレイナに全員がそうだろうなと溜め息を吐いた。そうとなれば残る選択肢は多くない。事情を知っていて、尚且つカナメを託せそうな人物はこの場に一人。
 みんなの視線が一斉に一点に集中する。

「メッサー。おま、」
「無理です」
「まだ何も言ってないだろうが」

 けれどアラドが全てを口にする前に、メッサーは素早く拒絶した。状況から察してはいたらしいメッサーは、けれど頑として首を横に振る。

「自分には無理です。隊長で駄目なら俺になつくはずがありません」
「わからんだろうが。お前まだ一回もカナメさんと話してないよな?」
「無理です」

 カナメの前にひざまずいたままのアラドは、しかしそんなメッサーを無視して、カナメににっこりと笑いかけた。

「カナメさん、あそこにいるおっきいお兄ちゃんは誰かわかりますか?」
「……」

 アラドの指差した先を、カナメの大きな瞳が追いかける。皆の無遠慮な視線を感じながら、メッサーは我知らず眉間に深い皺を刻んだ。じっと自分を見つめる無垢な蒼い瞳がやがて目蓋を伏せ、しらない、と言う声が聞こえるようだ。
 それも当然だと思う。
 信じがたい状況だが、今目の前にいる子供がカナメであることは間違いないとアラドが直々に報告しているのだ。悪い冗談であれと思いはすれども、メッサー一人をからかう為に、どこの子かもわからない幼女をケイオス内部まで連れてきたりはしないだろう。
 マキナがカナメの前にしゃがみ、自分の目を指で真横に引いて見せた。

「カナカナ、あの目付きのこーぉんなお兄ちゃんのお名前わかる?」
「……」

 それに確かに、似すぎているのだ。自分をじっと見つめるその瞳が。
 だというのにその同じ口から知らないと言われて泣かれたくない。未だにじっと見つめたままのカナメが何も言わないのはそういうことだと結論付けて、メッサーはこれみよがしな息を吐いた。
 今のカナメに記憶がないというのなら、……そもそもアラドのことすらようやく覚えたような幼女になっているらしい彼女が、自分のことなど覚えているわけがない。

「隊長。ですから――」

 元はカナメとはいえ、状況が状況なのだから仕方がない。
 ここはケイオスの幼児商品を扱う部門の職員か、はたまたオペレーターの彼女たちの誰かに頼んで――

「めっしゃーくん」
「……」

 美雲の腕の中でカナメが、びっと小さな人差し指をメッサーに向けた。それから一度美雲の顔を振り返り、今度は満面の笑顔でもう一度メッサーを見る。

「めっしゃーくん」
「そう! メッサー君です! いや、すごいな! カナメさん完璧じゃないですか。天才ですね!」

 アラドが手を打ち、また大袈裟なくらいに絶賛した。どうだと言わんばかりに胸を張ったカナメは、まるで発音自体が楽しいことのように「めっしゃーくん」を連呼している。
 自分の名前は「メッサー」で、決して「めっしゃー」などではない。
 大人げなく反論したくなる気持ちとは裏腹に、つい素直に「はい」と返事をしそうになってメッサーは慌てた。このままでは子守りをするはめになりそうな流れだ。既視感のありすぎる瞳でニコニコと自分を見つめてくる彼女に待ったをかけようとしたところで、またアラドが先に口を開いてしまった。

「ちょっとだけあのお兄ちゃんと一緒に美雲さんを待っててもらえますか?」

 よしよしとカナメの赤い頭を撫でながら言うアラドは、子供の扱いが手慣れている。いっそアラドがカナメを連れて歩けばいいのでは。嫌がっているとはいえ一過性のものだろうし、そのうち慣れる。
 子供だというのなら、あまり我が儘ばかり通させるのはよろしくないのでは。

「……」

 そもそもアラドの言葉を今のカナメはきちんと理解できているのかも怪しいところだ。きょとんと大きな目を瞬いてアラドを見つめていたカナメは、おもむろに美雲を見上げた。
 一瞬だけカナメの頭を撫でていたアラドと視線を合わせた美雲が、子供に向けるには少し妖艶が過ぎるのではと思われるいつもの微笑でカナメを見た。

「そうね。カナメ、メッサーとなら一緒に待っていてくれるかしら?」
「ちょっと待て、美雲・ギンヌメール。俺は――」
「めっしゃーくんと?」
「そう、メッサーと」

 メッサーの抗議をまるきり無視した話を進める美雲を、カナメが見つめる。その口が今にも「イヤ」の形に動きそうで、メッサーは立ち去りたくなった。
 自分でも我ながら現金なものだと思う。これまで散々カナメからの誘いを断っておいて、いざ自分が断られる立場になることからは逃げだそうとしているなんて。

「……ん」

 が、カナメの返事はメッサーが思っていたものではなかった。小さな呟きはどちらのものかわからずつい顔を上げてしまったメッサーを、カナメは見つめていたらしい。目が合うとにこっとはにかんだような笑顔をみせたカナメは、こくんと首を縦に振った。

「カナメ、めっしゃーくんとまってる」
「よーっし! これで万事解決だ! 良かったなあメッサー!」

 何が良かったものか。
 親指をグッと立ててニカッと笑うアラドをメッサーはつい部下にあるまじき表情で睨み付けてしまった。が、当の本人はそんなことどこ吹く風とでもういように、カナメの頭をよしよしと撫でた。それからおもむろにバッと両手を広げる。

「いやあ、いい子だなあカナメさんは。よし、じゃあ隊長がメッサー君の所まで抱っこで運んであげましょう!」
「や!」

 けれどカナメは間髪入れずにそう言うと、小さな頭をぷるぷると今度は横に振った。そのまま美雲の胸に顔を埋める。
 思わず噴き出したハヤテをチャックとミラージュが両脇から肘でどついて黙らせれば、部屋の中に妙な沈黙が落ちた気がする。
 公衆の面前で二度も盛大にフラれた形になってしまったアラドは、なんともいえない表情でがくりと肩を落としている。

「……いや、これ意外と傷つくな……」

 心なし声と背中に哀愁が漂って見える。
 それもそうだろう。いくら記憶もなく幼くなっているとはいえ、彼女は紛れもなくカナメなのだ。普段あれだけ親しげにしていたはずの相手からこれだけ素気ない態度をされた男の心境は推して知るべしだ。今の今まで当然拒絶されるだろうと思っていたメッサーだって、自分がされたらと想像するだけでいたたまれない。
 そんなアラドの様子を苦笑して見つめるマキナ達ワルキューレと、同情の視線を送ってしまうデルタ小隊の微妙な空気を一掃したのは、美雲だった。

「諦めなさい。子供は素直なものなのよ」

 肩を落とすアラドをどこか嬉しそうに見下ろしながら、美雲は自分にしっかりとしがみついているカナメを自慢げに抱き締める。まるで仲の良い親子――というには美雲の無邪気な態度は妙に子供染みても見えて、うんと歳の離れた妹を溺愛する姉のように見えなくもない。
 そんな二人の様子に苦笑して立ち上がったアラドは、首を竦めてメッサーを振り返った。わざとらしくハンズアップまでして見せる。

「だそうだぞ、メッサー」
「は――」
「お姫様がご所望よ、メッサー」

 示し合わせたように息の合った呼び掛けをされて、メッサーの眉間に深い皺が寄った。人の名前をついでの語尾のように呼ばないでほしい。一気に注目を集めてしまった雰囲気の中、行きにくいことこの上なくなるではないか。
 美雲の膝の上でもぞもぞと姿勢を戻し、再びこちらを向いたカナメの動きに気を取られながらも、メッサーはまだ躊躇っていた。
 子供は素直だ。それはわかっている。けれど気が変わるのが早いのも子供の特性だ。

「……泣いたらどうするんだ」

 アラドの手を拒みこそすれ、ではメッサーを求めているかといえば話は別かもしれない。もしも手を伸ばしたところで、腕を突っ張り泣き叫ばれでもしたら。

「泣きやませなさい」
「簡単に言うな」
「お前子供は得意だろう。チャックのとこの――」
「全く違います」

 即答で否定していくメッサーに、アラドと美雲は何か言いたげに顔を見合わせた。それから似たような呆れの感情を見せて眉を上げる。事情のわからないカナメがそんな二人の様子をキョロキョロと見比べ、それから何事かを考えるようにこてんと小首をかしげる様は単純に愛らしかった。
 確かにメッサーは子供が嫌いなわけではない。チャックの弟妹たちのことも可愛いと思っているし、どちらかといえば好きな方だ。だからもし身近で子供が癇癪を起こしたならそれなりに対応するだろう――けれど。

「同じだろう。今のカナメさんはただの幼児だぞ? 普通でいいんだ普通で」
「メッサー、あなたこんな子供にどんな泣き止ませ方をするつもりなのかしら」
「おかしな言い方をするな」

 またぞろ息の合った返しをされて、メッサーは思わず気色ばんでしまった。
 どこからどうみても子供だなんて、そんなことはわかっている。顔も身体も、それこそ声だって全然違う。けれど、あまりに真っ直ぐ自分を見つめてくるその青い瞳が澄み渡っていて、触れるのを躊躇ってしまうのだ。

「メッサー」
「メサメサ。カナカナが待ってるよ」

 二の足を踏むメッサーを、さすがにレイナとマキナも呼ぶ。
 彼らにしても次の任務までそう余裕があるわけではないのだからさもありなんか。ここは意を決して抱き上げてみるしかないのだろうか。それで泣かれたらほら見たことかとこの件からは手を引こう。

「めっしゃーくん」

 そう思ったところで、カナメが舌っ足らずな発音でメッサーを呼んだ。
 皆の視線がカナメに移る。

「カナメとおるすばん、いや?」
「えっ、いえ、そんなことは――!」

 ない。あるわけがない。
 慌てるメッサーにカナメが美雲の膝の上から小さな手を伸ばしてきた。導かれるように咄嗟に側まで駆け寄って、そのまま意気地なく立ち尽くしてしまったメッサーの指を、カナメの小さな手がきゅっと掴んだ。

「めっしゃーくん?」
「……本当に、俺でいいんですか?」
「だっこ?」

 くいくいと指を引かれて、メッサーは恐る恐るカナメを抱き上げた。美雲が一瞬不満げな顔をしたような気もするが、そんなことはどうでもいい。万が一でも落とさないよう慎重に腕に納めると、カナメはじっとメッサーを見た。彼女がその小さな頭で今何を考えているのか、メッサーにはさっぱりだ。いつもの姿のカナメとだってこんな距離で見つめ合ったことなどない。緊張で無表情に近くなってしまっているメッサーが、カナメの大きな瞳の中に見えた。
 なんだ。どうした。泣くのか。まさか泣くつもりなのか。やめてくれカナメさん。わかった、今下ろすから――

「いたいいたい?」
「は――、え?」
「めっしゃーくん、いたいいたい?」

 同じ言葉を繰り返したカナメがメッサーの顔に手を伸ばす。その指先が左の眉に触れて、メッサーは何を言われたのかようやくわかった。一部途切れたそこは、子供の目には珍しく見えたのだろう。

「いえ、これは――……」

 片腕に小さなカナメを座らせて、メッサーはもう一方の手で指を取る。
 アルブヘイムでの一件以来メッサー自身も気づいたそこに、肉体的な痛みなどとうにない。見た目には単に眉の一部が途切れているだけだ。けれどあの血と狂気に濡れて荒廃した大地でヴァール化した自分についたその傷は、まるで何かの戒めのような気がしていた。今となっては想像するしか出来ないが、ここに傷を遺した誰かがいたのではないか。二度と戻ることのないその誰かの命を忘れるなと言われているかのようで、鏡を見るたび、メッサーは目蓋の裏にアルブヘイムの大地を思い出している。あの日、自我を取り戻した自分が初めて目にしたあの光景を。

「めっしゃーくん?」
「これは――いえ……そうですね、……もう痛くはありません」

 馬鹿正直に答えかけ、メッサーはそっと目を臥せた。カナメがもしもいつもと同じ姿でも言うつもりのないことを、子供になってしまった今の状況で更に何を言うつもりだ。なんの曇りもない大きな蒼い目で真っ直ぐ自分を見上げてくる無垢な彼女から姿を眩ましてしまいたくなる。
 そんなメッサーの気持ちなどわかるわけのない小さなカナメは、ちょこんと首を傾げて、それから突然メッサーの腕の中から伸び上がった。

「めっしゃーくん!」
「は」
「いたいいたい、とんでけー!」

 小さな唇が左の眉に押しつけられたと思ったら、次の瞬間メッサーの目の前でカナメはやはり小さな手をぶんっと後ろに放り投げるような仕草をした。突然のことに固まったメッサーは、二度目の動きも避けられなかった。ぶちゅっと音が鳴るほど押し付けて、またバッと勢いよくカナメが両手を後ろに放り投げる。心なし一回目より動作が大きい。そのせいで勢いよく後ろに倒れかかったカナメを、メッサーは慌てて抱き直した。

「め、めっしゃーくんの、いたいの、とんでけえ……」
「カナメさん……?」

 メッサーのジャケットにぎゅっとしがみつきながら見上げてくる小さなカナメは、何故だか瞳にいっぱいの涙を浮かべている。小さな手がメッサーの頬を一生懸命包んで、あっという間に涙が溢れた。

「めっしゃーくん、まだいたい? だいじょうぶ? もいっかいする?」

 メッサーよりよっぽど痛そうな顔をしたカナメが身を乗り出そうとするのを額に額を当てることで止めさせて、メッサーはまた片腕に抱き直してカナメの涙を指で掬った。
 カナメは――今も昔も、メッサーの事情は通り一遍のことしか知らないはずなのに、どうして心の深いところをこんなにも簡単に見つけ出してくれるのだろう。普段から相手に気負わせない優しさを見せてくれる彼女は、小さな姿になっている今は余計に表現がストレートで少し困る。こちらも素直にならざるを得ないではないか。

「もう大丈夫です。カナメさんのおかげで、だいぶ良くなりました。……ありがとう」
「……えへへ」

 目元を優しげに緩めると、カナメは急にはにかんだような笑顔を浮かべた。それからぽすんと胸に顔を押し付けてくる。眉にキスで突撃してくるくせに、もしかして礼を言われて照れたのだろうか。
 子供特有の体温の高さに混じって、いつものカナメとは少し違った甘い香りがメッサーの鼻腔を掠める。

(本当に、今は子供なんだな……)

 不意に理解がすとんと落ちて、メッサーは背中を優しい手つきでぽんぽんと撫でてやった。これは仕方ないのかもしれない。急ぎの予定は特にないのだ。カナメがメッサーで良いというのなら、今日一日、小さなカナメを直接護る任につくのも悪くない。

「じゃあまあ、そういうことでいいな」

 と、アラドがパンと手を打った。我に返るとやけに微笑ましい表情の面々が自分とカナメを見つめていることに気づく。思わずしかつめらしい顔をしてしまったメッサーは、きょとんと目を瞬いてそれから嬉しそうに笑顔を振り撒くカナメに溜め息をつきたくなった。注目されて嬉しいんだろう。本当に子供だ。

「後は頼んだぞメッサー」

 よかったよかったと言いながらデルタ小隊のメンバーに退出を促したアラドが、メッサーの肩をしっかりと叩いた。それからわざと耳に口を近づける。

「カナメさんが眠くなったら戻る兆候かもしれんそうだ。すぐにどうこうということもないだろうとは言うことだったが、その時は念の為速やかにここに戻って寝かせてやれ。こっちに着替えさせるのも忘れるなよ」
「きっ――」

 着替えなんて聞いていない。畳んでデスクの上に置かれている検査着の存在を今更ながらに認識して、メッサーは天を仰ぎたくなった。この歳の子は一人で出来るのか。どうなんだ。それなら自分よりやはり無理に調整してでもミラージュやワルキューレの方が適任なのでは。

「だぁいじょうぶだよ、メサメサ。上から着せて中のは頭から抜いちゃえばいいんだから。頑張って☆ あ、でもカナカナに変な悪戯しちゃダメだからね?」
「するわけないだろう!」

 アラドと反対の腕をにんまりという言葉がぴったりと嵌まる笑顔で叩きながらマキナが言う。咄嗟に声を荒げたメッサーの前に、レイナがいつもの気だるそうな表情で立ちはだかった。

「監視システム作動、良好。カナメにイタズラしたら、死」
「だから――」

 人をなんだと思っているんだ。大人の彼女にだってプライベートで指一本触れたことがない自分を勝手に幼児性愛者にするな。反論しようと息をのみ、けれどアラドに宥めるように肩を叩かれる。

「エリシオン内でも適当に散歩しといてくれ。な。食堂にも話は通ってるから、夕飯も食べさせて後は適当でいい。頼むな」
「は? 夕食ですか? ちょ――」

 てっきりここか人気のない廊下を選んで話を聞いていればいいのだとばかり思っていた。かなり出歩く必要があるのか。誰かに何かを聞かれたらどうすればいいのか。いくらカナメの遠縁ということになっているとはいえ、これだけ面影のある可愛い子供だ。声をかけられることだって考えられる。不要な刺激は出来るだけ避け、夕食が必要ならここに持ってくればいい。おとなしく部屋に閉じ籠っていた方が――

「めっしゃーくん、おさんぽいく?」

 腕の中でカナメが弾んだ声を出した。
 顔を向けると、いかにも期待に満ちた瞳が向けられていて、メッサーは嫌な予感しかしない。

「……行きたいですか?」
「うんっ」
「……了解しました」

 そんなに嬉しそうな顔をされてしまったら、それ以外の言葉が浮かばない。力なく頷いたメッサーは、最後にフレイアを連れ部屋を出た美雲に口の動きだけで「頑張りなさい」とエールを送られて、内心でひどく深い溜め息をこぼしたのだった。





                                    【 ⇒ 】

よくわからないけどカナメさんがちっちゃくなっちゃった!
元に戻るまでメッサー君お世話して!
……な付き合ってないメサカナです。(説明ひどい)