あなたであれば例え涙の一滴でも(03)




3、大したことじゃない

 熱湯に身をさらして部屋に戻ると、何故だかまだバスローブ姿のままのカナメさんがいた。備え付けの小さなドレッサーの前にはたぶん手付かずの化粧ポーチが転がっている。
 シーツのうねりもそのままに、ベッドにごろりとうつ伏せているカナメさんは、俺の気配に気だるげな視線だけを向けた。

「具合悪いですか」
「ううん。考え事」

 ベッドの端に腰を下ろし髪から滴る水滴を拭う俺を、カナメさんが横向きに体勢を変えてじっと見つめる。その視線がやけに冷静に俺の一挙手一投足を検分しているかのようだった。居心地が悪い。
 考え事をするならさっさと着替えてからにしてほしい。先にシャワーを浴びたくせに乾かしきっていない赤い髪が、水分を含んで重たく頬の横に垂れている。その髪の一房がもぞりと動いたカナメさんの唇に重なり、煩わしそうに耳に掛け直す仕草から、俺はそっと視線を逸らした。
 ホテルのチェックアウトは明日の昼までにしているから、だらだらしていようとも別に時間的な問題はない。けれど恋人でもなんでもない二人には、手持ち無沙汰もいい時間だ。カナメさんに考え事があるというなら丁度良い。なんなら俺が先に出てしまおうか。

「メッサー君」
「は、い――――うわっ」

 そう思った時だった。
 名前と同時に存外強い力で引き寄せられて、俺はそのまま後ろ向きにベッドに倒されてしまった。首に絡み付いたたおやかな腕が、ごめんねというかのように緩く抜かれ、濡れて垂れている俺の髪をゆるゆると撫でる。やめてほしい。その手を取って身体を起こせば、カナメさんも一緒にベッドの上に身体を起こした。

「なんですか」
「まだ濡れてるよ」
「途中です。あなたも早く乾かさないと」
「拭いてあげようか」
「結構で――……」

 制止もきかずに、カナメさんは俺の手からバスタオルを抜き取ると、頭を抱え込むようにしてわしわしと髪を拭き出してしまった。少し乱れたバスローブから、緩やかな曲線を描く膨らみが見える。ともすれば触れそうな距離だと、彼女はわかっているんだろうか。
 行為の終わりにじゃれつくような関係でもないというのに、こういうことをされるのは本当に困る。いつか恋人になりたい相手との事後練習のつもりなら完璧だ。練習はいらない。そのときは存分に相手の男とベッドの上で戯れればいい。
 けれどそれを指摘したところで、きっとカナメさんはわからない。彼女は初めから、割とこういうところで無頓着なきらいがあったなと思いながら溜め息が溢れた。
 元アイドルだからなのか、いわゆる芸能人が一般的にそうなのかは知らないが、どういう関係の相手にしろ、異性に対して自分の身体のもつ価値を考えてほしい。ワルキューレとして活躍するときは全身に対ジェルを塗っているし、光学衣装での早着替えはつまるところほぼ裸一貫だ。だからなのか、局部さえ見せていなければ後は同じだというような見せ方をされるのは正直困る。
 職場がそういう環境だろうが、現場で見るのと艶かしく絡んだ熱の残滓を忘れられない場所で見るのとではまるで違ってくるのだから。

「はい、できた」
「……ありがとうございました。ドライヤー持ってきましょうか」
「ううん、いらない。あのね、メッサー君」
「はい?」
「ちょっと聞きたいことがあって」

 立ち上がろうとした俺の顔を、カナメさんがそう言ってじっと覗き込んできた。肌蹴かけたバスローブから見える胸の谷間がとても近い。思わずちらりと視線をそこへ動かせば、カナメさんはやっと気づいてくれたらしい。もじりと今更ながらにバスローブの袷を両手で手繰り寄せて膨らみを隠すような仕草をする。

「何ですか」
「あ、うん、ええとね」

 そういえば考え事をしていたんだったっか。
 しばらく言葉を待っていると、カナメさんはもごもごと歯切れ悪く呟いた。

「……メッサー君って、その、キスマークの付け方、知ってる人?」
「……それは、まあ」

 こんなことをしておいて、知らない人がいるんだろうか。
 予想外の質問に困惑しつつ頷くと、カナメさんはどういうわけが訝しげに眉を潜めた。

「本当?」
「それがどうかしましたか」
「……ついてるの見たことないから、知らないのかなって」

 質問の理由に、思わず口の端がつり上がってしまいそうになった。
 つけている。いつも決まって足の付け根に。
 気づかれないくらいの自然な動作で、あなたが蕩けている隙を突くだけの手管はそれなりにある。ただでさえ露出の多い仕事をする彼女にあとは残せない。そもそも言えない関係でそんなものは百も承知だ。求めたことも、求められたこともないけれど、それでもたまらず満たしたくなる感情を吐き出すために、ひとつだけ。
 初めて身体を重ねた日から、行為をするときはほとんど必ずそこに唇を這わせている。肌を舐るようなキスはいつでも。けれど鬱血を残すほどのキスはそこにだけ。
 つけてる最中息を飲み身体を揺らしているのは、単に感じているからだったらしい。それが跡を残す行為だと知らないのか、それとも気づけないほど俺に溺れてくれていたのか。後者だとすれば笑い出したくなってくる。
 本当は見えるところに困るほど噛み痕すら残したい衝動に駆られるけども、彼女の仕事と、いつどうなるかわからない想い人との関係に配慮しているというのが正直なところだ。
 見ればすぐに行為の名残を知らせる跡をそこらにつけて、聞かれて困るのは男の俺より明らかに彼女の方ばかりなのだから。

 それに――

「カナメさんだってつけないじゃないですか」
「えっ」

 いつか終わるこの関係のささやかな行為の証は、今夜だって残していた。
 けれど彼女からつけられたこともない。激しくすれば背中にじくりと爪痕が残っていることはあったけれど、そこに故意があるかないかはえらい違いだ。
 けれどそう指摘した俺に、カナメさんが驚いたように顔を上げた。

「つけてもいいの!?」

 予想外の反応だ。
 なんで言ってくれないのとでも言い出しそうな勢いで身を乗り出されて、むしろ俺の方が驚かされる。これも今後の為の練習だろうか。

「いいですけど、付け方知ってるんですか?」
「……さっき、上手く出来なかった」

 さっき。いつだ。
 ベッドの上に膝をつき、四つん這いの姿勢になったカナメさんが、俺の胸元をつ、と指した。足元のドレッサーの鏡に写る肌をちらりと見て、それから自分でも胸を見下ろしてみる。が、そんな様子はどこにもない。そもそもつけようとしていたのか。そんな覚えすらまるでなかった。
 今夜の彼女もただひたすら、俺にいいようにされて、ないて、しがみついてよがっていた。メッサーくん、と発音の甘い口調で呼ぶ声が脳内にリフレインしてきたのを振り払っていると、カナメさんが眉間を愛らしくきゅっとひそめた。

「強めにキスすればつくのよね……?」
「……」

 そういえば彼女が俺の背中に腕を回してしがみつくとき、今日はやたらと胸に顔を埋めてくると思ったような。あれはもしかして、跡をつけようとしていたのか。彼女の好きな深い場所をつけばすぐに声を跳ねさせていたから、てっきりそちらをねだられているのだと思っていた。
 狙っていたのか。……それは、悪いことをした。

「……教えてくれる?」

 この人はキスマークをつける意味を、果たして知らないんだろうと思った。
 つける意味も、つけられる意味も、それを見た人間がどういう邪推をするのかも。
 それならそれで。知る前に、残されるのも思い出になる。腹の底を焼き尽くすような想い出になる気がした。

「……してみてください」

 ベッドについていた腕を取って膝立ちにさせて誘導すれば、カナメさんはマットスプリングに動きをよたよたとさせながらあっさり足の間にやってきた。ちょこんと座り、胸の上、大胸筋におずおずと唇をつける。小さな舌が肌に触れて、それから、ちゅ、という小さなリップノイズがする。

「――こう?」
「全然ついてませんけど」
「こう?」
「もっと強めに。これだとすぐに消えます」

 両手を俺の胸に添え吸い付くカナメさんに言ってしまってから、それでいいだろうにと自嘲した。彼女が本当に残したい相手は俺じゃない。練習なのだ、これは。
 けれども仄かに色づく痕を見つめたカナメさんは、再び素直に唇をつけた。薄目を開けて位置を確かめ、同じ場所に、ちゅうぅ、とわかりやすい音を立てる。

「んぅっ、……ンッ」

 胸の上――鎖骨の少し下辺りに柔らかな赤い髪がひたりと触れてくすぐったい。
 僅かに地肌から顔を上げたカナメさんが出来を確かめるようにそこを見つめ、もう一度吸い付いてきた。会心の出来とはいかなかったようだ。練習熱心にも程があるだろう。っそうまでして、俺を自分のものだと主張したいのだと勘違いしそうになる。それくらい彼女の稚拙なキスは熱が籠っていた。胸の奥が、ずくずくと疼き始めてしまう。
 胸にはりつくカナメさん赤い頭を撫でてみると、気づいた彼女が上目使いで俺を見た。頑張る唇の合間から一瞬見える舌肉は妖艶で、そのくせ見つめてくる瞳はこれで合ってる?とでもいうように不安を訴えかけてくる。

 ――どうでもいい。もう。彼女が誰の為にこんなことをしたいのか、もう、今は。
 この人が何を考えていようが、現実としてこうしているのは俺なのだから。
 この人の所有の証を、この世で唯一つけられているのは、今、俺だ。

「カナメさん」
「ダ、ダメだった? さっきよりちゃんとついたと思うんだけど……」

 唇と胸の間に透明な糸が繋がり、ぷつりと切れる。何度も同じ場所を吸われたせいで跡は割合しっかりとつけられていた。でもまだだ。こんなものひとつに何度もキスを繰り返すなんてまだまだだ。

「手本、いりますか」

 彼女のくれた所有の証に親指で触れて唾液を拭い、ぺろりと舐める。
 少し飢えた目をしたかもしれない。
 一瞬呆けたように俺を見たカナメさんは、けれどすぐにはっきりと頷いた。

「――うん」

 それからおもむろにバスローブの袷を緩める。
 軽く顎を上げ、潤んで俺を見つめる青い瞳は、あきらかに何かを期待してみえた。

「たとえば、こう」

 彼女がその気なら、俺に止まる必要はない。カナメさんがつけてくれたのと同じ場所を目指してバスローブを二の腕までずり落とさせ、胸を抱えるように自身を抱き締めている彼女の胸元へ唇をつける。

「ん」

 もしかしたら見えそうな位置につけさせて、相手の男の嫉妬心を煽りたいのかもしれないが知るか。つけた唇から出さなくてもいい舌を出してぺとりと這わせ、きつめにそこを吸い上げる。
 我ながら上出来だ。小さな鬱血跡はあきらかな男の影を見せつけている。

「出来ました」
「……一回じゃわからない」

 一瞬耳を疑った。
 胸元から見上げる俺を見つめるカナメさんの瞳に、暗い焔が揺れた気がした。

「カナメさん?」
「メッサー君」

 似つかわしくない。黄色やオレンジや赤や、そういう明るいモチーフで彩られているはずの彼女に合わない色にまみれた女の顔が俺を見下ろし、それからすっと俺の首に顔を埋める。ちり、と短い痛みを感じたと思ったら、カナメさんが「ほら」と小さく呟いた。

「上手くつかない」

 言うなり顔を傾けて、細い首筋を俺に曝す。
 ああ、伝説の吸血鬼はきっとこんな気分かもしれない。
 誘うように俺の首にかかったままのバスタオルを引く彼女にされるがまま、俺はその首もとに鼻先を埋めた。シャワーを浴びて汗の引いたカナメさんだけの匂いが鼻腔を満たす。こんなところ、制服でだって隠せやしない。いいのか。見せたい? 誰に? 知るか。

「メッサー君、もっと、ちゃんと教えて」

 言われなくても。
 じゅっと、強く強く誤魔化せないほどの跡をそこに散らす。咽喉を鳴らす彼女に気づかないふりで、消えないように強く吸い付き舐めてから離すと、今度はカナメさんが俺の首に吸い付いてきた。

「んっ、……こう?」
「こうです」
「あ、ん、こう?」
「こう」

 教師も生徒も練習に熱が入っていく。
 素肌が全部見えるように肌蹴られたバスローブを引き抜いてベッドの下に振り落としながら、俺の身体に懸命に唇を這わせる彼女の肌へと、互いに赤黒い跡を散らすことに夢中になっていった。



                                    【 ⇒ 】

お互い想う相手は他にいるんだろうなーと勘違いしたまま、身体の関係だけ続けてる不毛なメサカナ。
オムニバス的に書いているので、時系列は1〜5のとおりですが、へ〜そういうことがあったんすね〜くらいの気持ちで読んでくださるとありがたいです。